学習通信070417
◎こういう渇望を満たすためにこそ書かれた……

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 すべての社会科学は、本来的に歴史科学としての側面をもっていますが、歴史はつねに日々新たになっていきます。それゆえに、社会科学は、つねに現実と向き合うことによってこそ発展します。

理論・イデオロギーのたたかいにとって実践的な運動との結びつきが重要なのは、運動の場においてこそ、その時々の理論的、イデオロギー的な課題の焦点が何であるかが実感としてつかめるからです。

「現実は緑色、理論は灰色」という言葉がありますが、これは、現実のなかにこそ理論が生まれ、発展するシーズ(種)、源泉があるということを言おうとしたものだと思います。

すべての理論は、「現実」を抽象して得られたものであり、「現実」は、理論よりつねに一歩先を歩いています。理論は、いかに歩むべきかの方向や展望を示すことはできますが、現実はつねに理論にたいして新しい間題を提起します。
(友寄英隆著「「新自由主義」とは何か」新日本出版社 p164-165)

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いま『資本論』をどう読むか

第一回 現実の日本社会を頭において

──のっけから恐縮ですが、『資本論』に挑戦している学生に聞くと、やはり「難しい」という声が多いんです。正直言って、最初の商品・貨幣論のところで、挫折≠キる人も少なくありませんが、まずそこら辺のことから。

ヘーゲル流の読み方を警戒して

不破……『資本論』というのは、読むのになかなか覚悟がいる本ですからね(笑い)。私の学生の頃にも、途中で挫折≠キる人は多かったですよ。

 これで難しさが解消するというわけではありませんが、一つ言っておきたい点は、この本を読む時に、われわれが生きている日本社会、日本の資本主義社会をいつも頭において、この社会を理解するために読む、ということですね。

 『資本論』は、第一章が「商品」で、そこで「使用価値」と「交換価値」、ついで「価値」という概念が出てくる。それから「貨幣」になって、それが「資本」に転化する。こうして、概念を次々と組み立てて、だんだん「資本主義」のしくみができあがってゆく、こういった読み方もあるんです。しかし、これでは、概念が概念を生み、概念の組み立てで世界をきずくという、ヘーゲル流というか、観念論的な読み方になりかねません。

マルクスの名文句──主体は社会

 この点で、マルクスの名文句があるんです。「経済学批判への序説」(一八五七年)という、『資本論』の最初の草稿(一八五七〜五八年草稿──『経済学批判要綱』)を書いたときの「序説」ですが、そのなかで、経済学にしろ、ほかの学間にせよ、概念というのは、実在している世界を「わがものにする」ためのもの、だから、こういう概念を使って思考する時にも、「主体」はあくまで「頭の外でその独立性を保っている」社会であることを忘れてはいけない、と教えているのです。「理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象に浮かんでいなければならないのである」(全集I六二八〜六二九ページ)。

私たちの社会と別世界の話ではない

──もう少し解説してください。

不破……「使用価値」や「価値」をはじめ、経済学のいろいろな概念は、どれも社会のいろいろな側面や関係を理論的に反映したものです。だから、『資本論』が第一篇「商品と貨幣」のところで扱っているのは、どこか別の世界の話ではなくて、私たちの社会そのものであって、この社会ではたらいている市場経済的な関係をいちばんおおもとのところから分析しているわけですね。だから、第一篇を読めば、私たちの社会自身の商品交換や貨幣流通のしくみが分かる。さらに「貨幣から資本への転化」以降の章に進めば、日本の資本主義社会のしくみが、もう一歩深いところで分かってくる。私は、現実の「社会」を主体としていつも頭のなかに浮かべて読む、というのは、こういう読み方だと思っています。

 経済学を、手引書で学び、概念の組み立てだけをおぼえてしまうといった読み方だと、味もそっけもない感じがしますよね。

最初から日本社会の研究として読む

 マルクス自身、『資本論』第一部の冒頭を、「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる」(社会科学研究所版@五九ページ)という言葉ではじめています。つまり、商品それ自体ではなくて、資本主義社会が研究の対象、主体であり、その研究をこの社会の「要素形態」である「商品」からはじめるんだということを、最初からはっきりと宣言しているわけですよ。日本は間違いなく「資本主義的生産様式が支配している」社会ですから、これは、日本社会をまず商品経済の側面から研究しようということだと読みかえてもいいでしょう。
──なるほどね。

現実の社会現象から問題意識を

不破……読みはじめて、商品論、貨幣論で苦労する人が多いんですが、ここも、現実の社会、日本資本主義社会の理解がここからはじまると思って読むことですね。私たちが日常ぶつかるインフレの問題なども、ここを勉強すれば、おおざっぱな常識論から一歩深めることができるはずです。

 また第八章「労働日」を読めば、いま日本の経営で起こっている、労働時間をめぐる資本と労働者の利益の対立や闘争の根底にあるものが分かるし、そこでおこなわれている搾取の手口なども法則的に見えてきます。

 ずっとあとの部分になりますが、マルクスは、蓄積論(第二部)や信用論(第三部)のところで、資本が、現実の基盤のせまさを忘れ、ひたすら生産規模の拡大に熱中して、そのことで破綻を準備するという状況を、リアルにかつ法則的に描きだしています。こういう部分をいま読んで、「バブル経済の分析を見る思いだ」との感想をもらす人は、財界筋の人にも結構多いですよ。

 このように、現実の社会で起きていることに間題意識を持ちながら、『資本論』を読むことで、日本資本主義社会についての理解と把握が一歩一歩深まってゆく──そういう読み方が大切だと思います。

読むほどに一歩一歩社会の奥深く進む

 「一歩一歩深まる」といいましたが、『資本論』の組み立て自体がそうなっているんです。第三部の最初のところで、マルクスは、第三部では「全体として考察された資本の運動過程から生じてくる具体的諸形態」を研究するが、それは、「社会の表面」で、「生産当事者たち自身の日常の意識のなかに現われる形態」に「一歩一歩、近づく」ことだと言っています(社会科学研究所版G四六ページ)。第一部での資本の生産過程についての研究と第二部での流通過程の研究をふまえて、第三部では、資本家や労働者をはじめ「生産当事者」たちが日常とらえているような形で、資本主義社会の諸現象がリアルに出てくる、というわけです。

 ですから、概念の組み立てはずいぶん複雑になりますが、第三部までくると、最初には「商品の巨大な集まり」としてとらえた資本主義社会が、奥底まで立ち入った深さとリアリズムをもって理解されるようになる、ということですね。

「工場報告書」などを縦横に活用して

 マルクスは、こうして、主体である資本主義社会を頭においているからこそ、いま理論的分析をやっていたかと思うと、急に「工場監督官報告書」などを引用した具体論に転じて、豊富な事実をもってその分析を裏づけるといった論じ方を、しばしばやるんですよ。

──「エ場監督官報告書」からの引用はずいぶん多いですが、どういうものですか?

不破……当時のイギリス政府が任命していた工場監督官からの報告書で、半年に一度、議会に提出されていたのです。当時は工場法による規制がはじまったばかりでしたが、それさえ無視する資本家が多く、無法な搾取を告発する護民官≠ニして有名になった工場監督官も少なくなかったんです。マルクスはこのほかにも、「児童労働」や「公衆衛生」についての議会報告を縦横に活用しています。

 労働者階級の状態をこういう方法で研究することに先鞭をつけたのは、実はエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五年 全集A)でした。マルクスは、『資本論』での研究は、この面ではエンゲルスの研究の継続あるいは補足をなすものだということを、手紙などでくりかえし強調したものです(たとえば、マルクスからエンゲルスヘ 一八六六年二月十日 全集I一四五〜一四六ページ)。
(不破哲三著「対話 科学的社会主義のすすめ」新日本新書 p14-21)
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活動家の渇望と「資本論」の「有用性」

 わたしがいま、労働者の「資本論」学習で、参加者から感じるもっとも痛切な渇望は、二つあります。労働者にとって「資本論」とはなにか、労働者が「資本論」を読んでなにになるのかという問題を取り上げるこの章の「1」への関説です。一つは職場での「資本論」の活用の問題、もう一つは日本労働組合運動の困難の克服、活性化の問題で、「資本論」はなにか有効なものをもっているのかどうかです。

A、職場のできるだけ多くの労働者の意識を高めて、資本に対決する多数者の存在になり、職場の労働組合と政治運動の力を強くすること、そうすることの出来る確実な説得力を獲得したいというのは、活動家の人達が職場に生きる限り変わることなくもつ渇望ではないでしょうか。

 実は「資本論」は、こういう渇望を満たすためにこそ書かれた面を持っています。「資本論」はなによりもまず、剰余価値生産の秘密とその全貌を明らかにし、資本と労働の対立の展開によって、富と貧困の対立を深め、資本主義が変革されざるをえない必然性をもつ社会であることを論証するものです。あわせて「資本論」は搾取の仕組みと形の全体を分析することで、一致出来る要求で団結して、資本に立ち向かう必要を教えています。この二つ、社会変革の必然性と、団結と闘争の必要性の指摘、これこそ「資本論」の最大の功績、最高結論であり、同時に活動家の人達の活動力の根本源泉でしょう。

 しかも「資本論」は、この方向へ職場労働者を自覚的に向わせる上での妨げになる、資本主義からくる欺瞞作用を明らかにしています。たとえば労働時間の延長は、資本にとっては利益の追求ですが、労働者の収入を増やす可能性であると受け止められ、当てにされることが少なくありません。

あるいは機械は、労働の軽減、労働時間の短縮、機械操作能力の評価、富の増大などの可能性としてとらえられることが多いのですが、実際はその資本主義的利用によって、労働者に解雇、より安価な労働力への入れ替え、賃金切り下げ、償却競争からの労働時間の延長や労働強化などの犠牲をもたらします。

また時間賃金と出来高賃金は、働きのすべてが賃金支払いの対象になることで、資本の利益と労働者の利益が一致しているかのような、労働者にとっての最も危険な誤解、錯覚を生みだします。「資本論」のこういう分析は、活動家の職場分析と説得力の有力な要素ではないでしょうか。

 職場労働者大衆を「会社あっての従業員、労働者は会社のおかげで生きている、会社を儲けさせることが、労働者の利益の前提である」というような、いわゆる会社第一の発想から解放し、意識のうえでの「資本からの独立」した状態に導くには、こういう説得力が大きな意味をもってきます。この企業追随発想には、いまみたような現実的根拠があって、活動家の「障害物」になってきた問題でした。

 いま、リストラやり放題の情勢のもとで、労働者の企業意識は、自然発生的には大きく揺らいでいます。この揺らぎを、対決姿勢にまで高めるには、「資本論」の叙述の再学習、再検討、再習得が必要ではないでしょうか。

 B、わたしは、こういう問題を巡っては、「資本論」へ向う人達の胸の内には、本当は、「資本論」の全体をわがものにして、いちいち現物に当たらなくても、「この問題は『資本論』のあそことあそこにあって、こう分析されていて、参考にできる、いまこの問題はこう判断するのが妥当だろう、人々にこう伝えなくてはならない」と、職場活動などで「資本論」を駆使できるようになればいいのだが、いや、是非なってみたいという思いが、くすぶっているのではないかと思っています。つまり自分が「資本論」の生き字引になれるならなりたいという渇望です。

「資本論」の全体像の亜暗記状態を獲得して、熟成がすすめば、やがてはフル稼働になると、わたしは確信しています。これは、その気になれば、意外に簡単かもしれません。是非やってみてください。「一生に一度は……」という程度の願望に、的を定めるような冊子を書いて、そういう高みの問題を出すのは、妥当さを欠くでしょうか。この冊子をつくるに当って、わたしがこれだけは書いておきたいと願ったのはこのことでした。「越権行為」かもしれません。ご了承下さい。

 コツはとりあえず、「資本論」の第一巻の全体を、一〇回、この冊子のはじめに述べた「飛ばし読み」で読んでみて下さい。日本の労働者は、世界に抜群の超過搾取の対象者です。労働運動での問題の難しさでも、世界抜群です。「資本論」を読みとる問題意識の強さ、深さはおそらく世界最高でしょう。これが抜群の読解力・吸収力・記憶力に転化します。若いうちなら、これで「資本論」第一巻の全貌はかなりの程度に記憶できます。出来なくても、どこになにが書かれているかが、判断出来るようになります。年配の労働者なら、記憶力は衰えていても判断力、読解力は充分です。

 途中でこの冊子の第六章を参照して下さい。ぐんぐん共感できるでしょう。わたしのまわりには、そういう形ではなくて、「資本論」学習サークルをつくって、講義をしながら「資本論」をつかみきっている人がいます。形は人によりけりのようです。

 もう、これで鬼に金棒です。日本の労働者活動家が「資本論」第一巻を亜暗記状態になったわけです。記憶があいまいなら、あらためて現物に当たってください。それでまた憶えます。一つ重要なことがあります。搾取とそれを深める手法をつかむ(五、六、七章、八章二・三・四節、一五章、一八、一九章です。「資本論」はごたごたしていますので、てっとりばやく経済学人門書でつかむ手もありますが)と同時に、搾取は賃金支払いの形によって隠され、見えなくされていることを、つかんでおくことです(一七章)。これが大きな説得力の基礎になります。

 現役労働者であれば、日本的搾取の職場で働きながら、活動しながらの学習ですので、この事業に取り組むには、いくつかの「俗事」を断念し、犠牲にする必要があるかもしれません。とにかく一生のうちの数か月、この学習に没頭してください。いま一分ある、二分ある、これを使うわけです。いかなるときも新書版とペンをもっていてください。絶対に手放さないでください。バスの待ち時間、電車の待ち時間、通勤時間、職場の休憩時間、全部学習です。ときには歩きながらの学習になります。問題点は余白とか、はじめの空きページにメモしてください。みるみるうちに読破できます。

本を鞄に入れないで下さい。手に持ち続けて下さい。寸暇の集合がいかに大きな学習の時間に転化するかが、わかります。こういう人達が一○○人、一○○○人単位で増えていけば、これは日本労働者階級の階級としての変革力です。個人問題ではなくなります。こういう発想の虜になるような労働者は、わが国には数多くおられるのではないでしょうか。

 こういう類の「資本論」習得から先の十年、数十年の労働者人生がどう展開するか、これこそニー世紀的活動ではないでしょうか。

C、「資本論」の、活動家の渇望を満たす直接の、そして決定的な「有用性」が、もう一つあります。活動家の人達によって「資本論」が消化されるなら、これこそがその最大の吸引力になるのではと思われることです。それは「資本論」での労働者階級と労働運動の真に科学的で強力な戦術論の展開の問題です。経済学の著作に、そんなものがあるのかと思われるでしょうか。マルクス自身が「資本論」初版序言で明言していることです。

 イギリスの工場立法の歴史、内容、成果について、詳しい叙述のページをさいたというのがそれです(15ページ)。「資本論」第一巻第八章第六・七節がその詳細です。一九世紀前半の半世紀をかけて成立した一八五〇年の「平均二〇時間法」(少年と女性・月曜から金曜まで一日拘束一二時間、実働一〇時間半、土曜日実働七時間半、合計週六〇労働時間、平均一〇時間・児童は六時間半)は、年少者と女性と児童の労働時間を短縮するために、イギリスの成人男子労働者によって勝ち取られた「偉大な」(マルクス)成果でした(419ページ)。

 またマルクスはアメリカで、奴隷制の存在が自立的な労働運動のすべてをマヒさせていたが、南北戦争での奴隷制の死から(白人労働者が黒人労働者と団結して奴隷制廃止のために戦った)、全米にわたる八時間運動が芽生えた(全米の労働者に尊厳がよみがえった)と評価しました(318ページ)。フランスの労働者階級の偉大さは、労働時間規制を全社会に一般化したことにあるとしています(同前)。

 この観点は、マルクスの「労働組合──過去・現在・未来」でこそ貫かれています。そこではマルクスは、もっとも劣悪な賃金を受け取っている労働者層、不利な事情のために組織的抵抗を行なえない労働者の利益に、注意深く心をくばる事を呼びかけています。そのことによってこそ労働組合は政治と社会を変える力に発展すると示唆しています。

これこそ、いま、日本労働運動を活性化させ、あわせて日本国民に尊厳を取り戻させる決定的なカギです。レーニンは「プロレタリアレトの階級闘争の戦術」という一文をのこしましたが、マルクスのこの最高の遺訓の一つとも言えることへ目がとどいていたのか、いま読み返しているところです。
(吉井清文著「一生に一度は「資本論」を読んでみたい」学習の友社 p55-61)

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◎「すべての理論は、「現実」を抽象して得られたものであり、「現実」は、理論よりつねに一歩先……理論は、いかに歩むべきかの方向や展望を示すことはできますが、現実はつねに理論にたいして新しい間題を提起します」と。