学習通信070501
◎これは商取引上の正当な二つの権利の衝突……

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京都の復活メーデー

 五月一日、第一七回メーデーが訪れた。一九三六年、二・二六事件直後の治安状態を理由に禁止されて以来、実に一〇年ぶりの復活メーデーであった。

 この日はあいにくの雨模様となったが、全国の労働者は解放の喜びに沸いた。京都メーデーは御所の建礼門前広場に五万の大衆が集まり、円山公園までデモ行進をくりひろげた。一九五二年にその使用が禁止されるまで、東京の人民広場(皇居前広場)とならんで、京都御所は京都の労働者にとりなじみ深い集会場であったのである。

 メーデー当日の総指揮は辻井民之助(総同盟)、副指揮は井家上専(総同盟)・蟹江邦彦(日国工業京都金属労連準備会)・絲屋寿雄(日映演)であった。映画労組の花車や島津労組の女子銀輪部隊が華やかさをそえ、市電も正午を期して五分間停車と号笛でメーデーを祝った。この日、決議されたスローガンは「民主人民政府樹立、民主戦線即時結成、産業別単一組合結成、世界労連への加盟」であった。

 京都の労働者は、メーデーヘの参加を通じて団結の力強さと解放の喜びを肌身で知った。京都府が厚生省労政局長(労働省が設置されたのは翌年九月、それまでは厚生省が労働関係の管轄官庁であった)にあてた報告に次の一節がある。

 「当日は午前中より相当量の降雨あり。為に参加人員は相当減少するものと予想されたるにもかかわらず、ほとんど予定数に近き三七、九〇〇人の参加をみたるは、メーデーに対する関心の如何を事実を以て如実に示せるものにして、相当量の降雨ありたるにもかかわらず、参加者は欣喜雀躍、行進に参加しおりたるものにして、かくのごとき情景は、かつての産業報国運動等の行事にはみられざりし現象なり」
(「総評京都地評三〇年運動史」p23-24)

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闘争の激化と「日本労働総同盟」の結成

 第一次世界大戦が終わってからも、労働争議とストライキは数のうえでふえたばかりでなく、その質のうえでも大きく発展して、日本の階級対立と階級闘争は本格的なものになりました。

 第一に、争議は組織的、計画的となり、労働祖合がこれを指導する例がふえてきました。足尾、釜石鉱山の争議は大日本鉱山労働総同盟が指導し、また日立鉱山の争議は友愛会鉱山部が指導し、さらに神戸の川崎造船所一万七〇〇〇名の争議は「実行委員会」(いまでいう闘争委員会)が指導して、整然とサボタージュをやりました。

 第二に、同じ産業部門の労働者が、いっせいに、ストライキをやるようになりました。東京の一六新聞社製版工の八割増給、八時間労働制の要求は、東京の印刷工の地域的な統一ストライキに発展しました。

 第三に、これにともなって階級的な連帯が強まり、おなじ産業の労働者の争議を応援したり、おなじ要求でたたかいにたちあがるようになり、一工場主にたいするたたかいから産業別へと団結の輪をひろげていきました。

 こういう労働運動のたかまりのなかで、一九一九年八月、友愛会は、これまでの会長(鈴木文治)独裁制を理事合議制にあらため、地域的支部を職業別または産業別に組織しなおすことをきめ、その名も「大日木労働総同盟友愛会」から翌二〇年には「大」をとり、二一年には「友愛会」を削って「日本労働総同盟」とあらためました。そして、相互扶助、労資協調主義の綱領をあらためて、組合結成の自由、最低賃金制、八時間労働制の確立、労働条件の改善、普通選挙権、治安警察法の改正などを要求する戦闘的な労働組合に変わりました。

大正の初め(一九一二年)、労資協調主義の立場に立ってつくられた友愛会も、階級対立と階級闘争がはげしくなり、日本の労働者の自覚が高まるなかで、名前とともにその体質も変わっていったのです。

 一九二〇年には、わが国最大の工場である八幡製鉄所の二万数千人の労働者が、組合幹部の首切り反対、賃上げ、八時間労働制その他の要求で、ついに熔鉱炉の火を消し、同年、東京市電、ついで翌二一年には神戸の三菱、川崎両造船所の三万八〇〇〇人の労働者が、一か月にあまるストライキを決行して、戦前最大のストライキの記録をのこしています。

 一九二〇年には戦後の恐慌がおそい、資本家は、首切り、賃下げ、工場閉鎖で労働者に犠牲をおしつけたために、労働者の闘争は深刻となり長期化しました。このなかで、労働者は先進的な学生や知識人と手をむすび、普通選挙権要求の政治的な運動にくわわりました。

 他方、恐慌のしわよせで農民のくらしも、また、苦しくなり、労働者のたたかいにはげまされて小作争議もさかんとなり、一九二二年には、わが国で、はじめて、全国的な農民組合がつくられるにいたりました。

 また、「部落民」の名で差別され、しいたげられていた未解放部落民も、「全国水平社」、また、平塚雷鳥、久布白落実(くぶしろおちみ)、山川菊枝らが、それぞれ婦人を組織して、治安警察法の修正、男女同権、婦人参政権などを要求しました。

日本最初のメーデー

 一九二〇年五月二日、日本最初のメーデーがおこなわれたのも、このような労働者階級の成長を反映したものでした。東京上野公園に五〇〇〇人の労働者があつまって、治安警察法の撤廃、失業の防止、最低賃金制の制定、シベリアからの撤兵などの要求を決議して、「万国の労働者団結せよ」と叫びました。そして、万世橋をめざして二キロのデモ行進がおこなわれました。それからのちは、毎年、五月一日におこなわれ、第三回メーデー(一九二二年)からは、池貝鉄工所の労働者である大場勇がつくった、「聞け万国の労働者」というメーデー歌がうたわれるようになりました。

しかし、一九三六年の第一七回メーデーは、軍部のクーデター、二・二六事件を口実に禁止され、戦後一九四六年に復活して、こんにちにいたっています。

 戦前のメーデーに参加することは、ブタ箱にいれられることを覚悟してかからねばなりませんでしたし、指導者や活動家は、「予備検束」をのがれるためにまえの日から姿をくらまして、変装して参加したりしたものです。ものものしい騎馬巡査がデモの両側を「護衛」し、辻つじでは、ビラをまく労働者に警官がおそいかかりました。

 メーデーの歴史はまた、労働者のたたかいの歴史であり、メーデーもまた、先輩たちが、その力でかちとったものでした。

日本共産党がつくられた

 一九二二年七月一五日、日本共産党がつくられました。党創立およびその直後の党員の主な人たちは、堺利彦、市川正一、上田茂樹、国領伍一郎、野坂参三、徳田球一、山本懸蔵、渡辺政之輔、金子健太、川内唯彦、高瀬清、荒畑寒村、山川均、赤松克麿、猪俣津南雄、近藤栄蔵、佐野学、鍋山貞親、河田賢治、谷口善太郎、高橋真樹らでしたが、のちに党から離れたり、党を裏切ったものもでました。

 当時亡命してコミンテルンで活動していた、日本の労働運動の大先輩である片山潜は、海外にあって、この創立に指導的な役割をはたしました。

 このとき準備された綱領草案は、日本の国家権力の構造と日本の社会に、まだ封建的な諸関係が色こくのこっていることを分析して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へという日本の革命の性格とみちすじについて、基本的に正しい路線をしめしました。

 当面の要求(行動綱領)として、つぎのような項目をあげています。

 君主制(天皇制)の廃止、貴族院の廃止、一八歳以上のすべての男女の普通選挙権、すべての労働組合、労働者政党その他の労働者組織の完全な団結の自由、出版、集会、デモ、ストライキの自由、軍隊、憲兵、警察、秘密警察の廃止、労働者のための八時間労働制、失業保険をふくむ労働保険制度、最低生活の保障、天皇、大地主、寺社の土地の没収、農民が小作人として、じぶんの農具で耕してきた土地を農民へ、累進所得税、あらゆる対外干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の完全撤退、ソビエト・ロシアの承認……。

 そして、組織的な当面の任務として、「労働組合をかくとくし、労働者階級のこれらの組織への共産党の影響を確立すること」「労働者大衆との強固なむすびつきをつくるために、全力をあげて努力すること」「農民、とくに貧農のひろい層に党の影響をおよぼすため、あらゆる手段をつくすこと」をとくに強調しています。そして、さいごに、ブロレタリアートの世界革命の一部隊としての国際連帯の義務をあきらかにしています。

 また日本共産党は、一九二〇年前後、日本の労働運動におおきな影響力をもっていたアナルコ・サンジカリズムのあやまった思想を克服するために全力をあげました。

 サンジカリズムは、労働組合の経済的直接行動──ゼネストと工場管理によって資本主義をひっくりかえして、一挙に無政府主義の理想社会を実現しようというもので、大杉栄らがその運動の中心でした。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p62-66)

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聞け万国の労働者
【作詞】大場 勇
【作曲】栗林 宇一 

聞け万国の労働者
とどろきわたるメーデーの
示威者に起る足どりと
未来をつぐる鬨の声

汝の部署を放棄せよ
汝の価値に目醒むべし
全一日の休業は
社会の虚偽をうつものぞ

永き搾取に悩みたる
無産の民よ決起せよ
今や廿四時間の
階級戦は来りたり

起て労働者奮い起て
奪い去られし生産を
正義の手もて取り返せ
彼らの力何物ぞ

われらが歩武の先頭に
掲げられたる赤旗を
守れメーデー労働者
守れメーデー労働者

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労働時間は1日15時間にも

 先にロック、デイドロなどの見解を紹介して、啓蒙主義時代に働き方についての考え方が大きく変わってきたことを見ました。そこでマルクスやエンゲルスが活動する前に、それを導く考え方と書きました。ここでマルクスやエンゲルス以降の科学的社会主義の立場から、働き方の大きな要素である労働時間についての考え方とその発展とをかんたんに見ておきます。

 資本主義は労働時間を驚くほど延ばしました。原始共産制の名残の部族、例えばアマゾンの奥地の裸族とかアフリカ中央部の部族、オーストラリアの原住民アボリジニーなどでは、生活に必要な飼料を採集したり狩猟したりする労働時間は、1日当たり2時間とか3時間です。それで間に合うのです。しかし中世のヨーロッパの農民は、夏は14時間、冬は7時間半ほども働きました。

 それが資本主義に入ると冬でも夏でも15時間を超えるようになります。年間で比較するなら大変な長時間労働となりました(以上の数字は山内昶『経済人類学の対位法』〈世界書院〉)。どうしてか。機械は疲れないからです。そこで資本は儲けるためにできるだけ長時間、できるだけ過密に労働者を働かせようとしますから、長時間になるのです。こうして労働時間短縮の運動がはじまる前は1日15時間労働などがまかり通っていたのです。

 これを短縮する運動は個々にはいろいろありましたが、それらを総括し、組織的、理論的に労働日を決めさせるべきだという最初の世界的な提案は、カール・マルクス(1818-1883)によってなされました。1866年の国際労働者協会ジュネーブ総会へのマルクスの指令です。

マルクスの8時間労働日への提案と理由

 マルクスは「それなしには一切の努力がむだになる前提」として労働日を位置づけました。

 そして3つの根拠を掲げました。

 「@人間の生きていくうえで、労働者の健康の維持、生存の維持(労働者がとだえないように家庭を営み、子どもを育てることまでをふくむ)をはかる最低限の生理的必要時間のために

 A新聞を読む、教会に行く、学校に行く、役場に行く、冠婚葬祭、音楽会、観劇などの社会的文化的生活の必要時間のために

 B1日15時間も働かせる社会、戦争を起こす社会、こういう社会を改め、人間らしい社会を創り出していく必要時間(労働組合活動や政党、民主団体などでの活動の時間)のために8時間労働日を提案する、夜勤は認めない」

 これを勝ちとるためにはたたかいが必要でした。なぜなら1日働いて、2日休まねば疲れがとれぬほどの働かせられ方は、1日分しか賃金を受け取っていない取引に違反するからです。ところが労働力を買った方はどうしようとオレの勝手だ、オレが買ったものなのだから、と言います。マルクスは言いました。これは商取引上の正当な二つの権利の衝突ですから、力のある方が弱い方をへこませて勝つのです、と。つまり労働者はたたかわなければ8時間労働日を実現できません、と。

 1890年、世界の労働者・労働組合がメーデー(第2インタナショナル結成総会でのエンゲルスの提案ではじまった労働時間短縮の世界的
統一行動日)をたたかい、20世紀に入ってからは8時間労働日をめざす運動は資本主義社会全体を覆うようになります。しかしこれが実現したのは1917年のロシア革命で、レーニンの政府が8時間労働日を布告して以来のことです。これを受けて、世界戦争の原因の一つが各国の労働条件の違いからくる不均等な資本主義の発展にあるのだから、世界的に労働条件の最低基準を設けようというので、ILOが結成され、その第1号条約で8時間労働日は確定しました。

 1929年から世界恐慌がはじまりました。失業者が資本主義国ではどこもあふれるようにひろがり、ドイツやイタリア、日本には狂暴なファシズムがひろがって暴力的な侵略戦争でこの経済危機を解決しようとしました。一方、アメリカではルーズベルト大統領の、最低賃金の引き上げと労働時間短縮、公共事業で失業者を吸収するニューディール政策がとられて成功します。フランスでは労働者のゼネストで最低賃金を上げ、週40時間制が勝ちとられました(マティニヨン協定)。

 この時、失業労働者と就業労働者がともにたたかうという立場からワークシェアリング(労働時間を短縮して失業者を救おうという考え)がアメリカ・フランスの運動の背景にありました。1866年のマルクスの3つの立場に加えて、失業をなくすために労働時間短縮を、という第4の考え方(ワークシェアリングの考え方)が出てきた、といってよいでしょう。
(西村直樹著「働き方を見直しませんか」学習の友社 p49-52)

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◎「メーデーの歴史はまた、労働者のたたかいの歴史であり、メーデーもまた、先輩たちが、その力でかちとったもの」と。