学習通信070507
◎人と人との『誠信の交わり』……


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 しかし、私たちが社会発展の大きな展望や原則をもっている、ということと、世界のさまざまな国との交流にあたって、自分の基準をあれこれの国に勝手にあてはめ、この基準に合わなければその国は反民主主義の国だ、ダメな国だと決めつける、こういうやり方とは、まったく別のことです。

どの国にも、その国なりの国情があり、男女同権の問題一つとっても、世界の進んだ国の到達点にまで来るには時間がかかる、という場合が多くあります。

そのことを理解しないと、違った歴史をもち、違った文明をもつ国とのあいだで信頼しあえる関係をうちたてることはできません。

 社会進歩の立場をしっかりと持ちながら、相手国の国情には注意深い態度をとって、外からあれこれの基準を押しつけるようなことはしない、この点は野党外交の展開にあたって、十分わきまえるべき大事な点です。
(不破哲三著「日本共産党史を読む(下)」新日本出版社 p321)

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 にちよう文化
私流 この偉人
  京滋の歴史から

儒学者 雨森 芳州
 京大名誉教授 上田正昭さんが語る

自国の文化も発信
真の国際人

 「威信と申し候は実意と申す事にて、互いに不欺不争、真実を以て交り候を誠信とは申し候」──。江戸中期の儒学者雨森芳洲が六十一歳のとき、主君の対馬藩主に上申した朝鮮外交の心得「交隣提醒(こうりんていせい)」の一節だ。

 一九六八年秋、芳洲の出身地、滋賀県高月町雨森地区を訪れた京都大名誉教授の上田正昭さんは、この文書を目にし「ものすごく感動した。何とすごい学者がいたのかと。これは世に出す必要があると強く感じた」。日が暮れて薄暗い土蔵の中で、懐中電灯を手に夜遅くまで文献をひもといた。
 雨森芳洲は初め医者を目指し、京都で学んだ。しかし「人を費やす」医学よりも学問を志し、十八歳のとき江戸の朱子学者木下順庵の稚塾に入門。新井白石らとともに、「木門の五先生」と称された。二十二歳のとき、順庵の推挙で対馬藩の藩儒となり、二十八歳で赴任、以来、朝鮮御用支配方(朝鮮方)佐役として、通交にかかわる故事先例や慣例の整理を進め、釜山に渡って朝鮮語を身につけた。第八次(一七一一年)と第九次(一七一九年)に来日した朝鮮通信使に随行し、応接と外交を担う真文役として活躍した。

 上田さんが芳洲に関心を向けたのは、出版社の企画で故桑原武夫京都大名誉教授と「新井白石」を担当したのがきっかけ。白石の自伝「折りたく柴の記」を読み返し、芳洲を「対馬国にありつるなま学匠」と評していたことが引っかかった。「木門の五先生」と並び称されるとはいえ、幕政にかかわる実力者と対馬の藩儒とでは、知名度は比較にならない。「白石ほどの学者が、なぜライバル視するのか」と不思議に思い、雨森地区を訪れたのだ。百点以上の芳洲の文献にふれ「朝鮮に対する理解の深さ、思想家としての芳洲が、あまり理解されてこなかったことを痛感した」。

朝鮮理解し善隣外交
「誠信之交」を唱える

 五十二項目からなる「交隣提醒」は、豊臣秀吉らの朝鮮侵略が大義名分のない戦い「無名の師(いくさ)」であると断言。当時、多く用いられた「誠信」の言葉の本質的意味をわきまえていないと指摘した。また二十代で長崎に遊学し、中国語を学んだことで、学間の対象も広がった。上田さんの研究領域の「東アジア学」の先駆けともいえる。

 鎖国イメージが強い江戸時代。寛永一二(一六三五)年に日本人の海外渡航が禁止され、寛永一六(一六三九)年のポルトガル船の来航禁止の通告で、「鎖国の完成」とされるが、幕府の文書には貿易も外交もする通信の国(朝鮮王朝と琉球)と、貿易をする通商の国(オランダ、清朝)の記述がある。完全鎖国はしていない。これゆえ「芳洲のような国際人が生まれた」とみる。

 芳洲は晩年、日本の古典を探究、古今和歌集の千遍読みや一万首の歌作りを達成した。万葉集研究にも取り組んだ。「国際化とは相手の国や民族を理解することも大事だが、日本の歴史や文化も学んでいないと、受信はできても発信はできない。芳洲は、外国のことを理解しながら、日本のことを正しく伝えようとした、真の国際人だった」。

 回顧録では白石とわが身を引き比べ、「こんな遠方に来て……」と自らを哀れむようなほほえましさもみられるという。でも対馬藩に仕官しなければ「あれほど深く朝鮮を理解できたか疑問だ」と上田さんは社会的功績の大きさを評価する。

 アジア史学会などでは、時として韓国や北朝鮮の学者らが日本批判を繰り出す。「以前は胸をはって論争できなかったが、芳洲と出会ってから、日本にも善隣外交を実践したすごい人物がいると、答えることができるようになった」と話す。今年は朝鮮通信使が初めて日本を訪れた慶長一二(一六〇七)年から四百年の節目の年。「いま一度、芳洲が唱えた、人と人との『誠信の交わり』に目を開いてほしい」(文化報道部栗山圭子)
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 あめのもリ・ほうしゅう (1668―1755年)北近江雨森村(現滋賀県高月町雨森)の町医者の子として生まれた。父の死の翌年、江戸に出て木下順庵に師事。22歳から対馬藩に仕え、儒学者の立場から生涯を藩の文教と朝鮮外交に尽くした。朝解語会話の入門書「交隣須知」や「全一同人」などを著した。生家跡には1984年、雨森芳洲庵(東アジア交流ハウス)が建てられ、遺品や文献資料などを展示している。
(「京都新聞」20070506)

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《潮流》

ファン・ソギョンさんは、一九一八年朝鮮生まれ。七十七歳のとき、国連人権委員会に「従軍慰安婦」の体験を証言しています

▼「私たちは、……病気(性病)にかかっているとわかると、殺されてどこかわからない所に埋められました」。日本軍の兵土に抵抗する女性もいました。その一人は庭にひきだされ、みんなのみている前で「首を切り落とされ、体を切り刻まれました」

▼別の女性も、同じような証言を残しています。ところが麻生外相は、旧日本軍が若い女性を性奴隷にして殺したり自殺に追い込んだとの告発について、「客観的事実にもとづいていない」「はなはだ遺憾なもの」といいました。先日の国会での答弁です

▼案の定、韓国の人々の反発が伝えられました。「ハルモニ(おばあさん)の憤怒に対し、謝罪でなく否定することで一貫する日本は、二十一世紀の先進国なのか疑わざるをえない」「全国民を憤怒させる不快であきれた妄言」。いずれも、政界人の発言です

▼江戸時代、朝鮮との外交に携わった雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、「誠心交隣」をとなえました。外交にあたっては、お互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる。朝鮮との交流の窓口、対馬藩につかえた芳洲は、釜山に留学して朝鮮語をほぼ修め、朝鮮国王が日本におくる使節「通信使」につきそいました

▼芳洲は、豊臣秀吉の朝鮮侵略も「大義名分のない出兵」と評しています。初の朝鮮通信使がきて、ことしで四百年。麻生外相らは、先人の努力もけがすつもりなのか。
(「赤旗」20070222)

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◎「社会進歩の立場をしっかりと持ちながら、相手国の国情には注意深い態度をとって、外からあれこれの基準を押しつけるようなことはしない」と。