学習通信070509
◎現実から出発せねばならない……

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《潮流》

「あ〜ん、おくちをあけて〜」。子どもの歯をよく診る歯医者さんは、「口の中には生活がある」といいます

▼兵庫県のある保育園。検診にあたる園医さんも、最近びっくりしています。歯ならびがガタガタの子や、前歯を欠いた子がいます。親やおとなにないがしろにされて感情を受けとめてもらえず、歯を食いしばってきた子です

▼親から暴力をうけた子や逃げ回った子は、泣くとしかられるので口の中に食べ物を入れてがまんしている状態、といいます。虫歯にもなります。「小さいのにしんどい思いをしているなぁ」と、園医さん

▼四月、園に迎え入れたのは、みんな母子か父子の家庭の子でした。家庭内暴力からお母さんと逃れた子の入所もふえました。五つになっても甘える子がいれば、人を信用することを知らず、体にふれられるのさえ拒む子がいます

▼保育土一人ひとりの人間性をすぐに見抜き、態度をころころと変える子。なにかに失敗すると、「ぼく生まれてこなかったらよかったんやろ、先生」と泣く四歳児……。昼寝中に突然泣き出す子は、お母さんが夫に暴力をふるわれているとき、自分の心を守るため、知らん顔して絵をかいていました

▼親たちも疲れ、悩んでいます。格差・貧困の現実に立ち向かう、この道三十年近い保育土さんがいいます。「やわらかい心に大きな傷を負った子どもと過ごしていると、私たち一人ひとりが試されているようです。この子を一人の人間として受けとめ尊重できるおとなであるかどうか」
(「赤旗」20070505)

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二つの現実と三つの態度

 「現実から出発せねばならない」とは、だれもがいうことだ。
 私たちもまた、唯物論の立場に立って、そう強調する。

 しかし、私たちにたいしてつぎのようにいう人もある。──「君たちのいうことは、理想としてはもっともだけれども、しかし、現実はそんなあまいもんじゃないぞ」と。

 これとはちがった立場からだが、佐藤栄作氏なども「沖縄間題については観念論にとらわれず、現実的な態度で処していきたい」というふうないいかたをする。日経連もまた、定時総会(一九六九年四月二三日)の申しあわせのなかで、安保条約即時廃棄などとなえるのは、現実をわすれた「時代おくれの観念論」だといっている。自民党の福田糾夫氏や石原慎太郎氏、ハ幡製鉄の副社長の藤井丙午氏なども、機会あるごとにテレビなどで同趣旨の発言をし、革新勢力きうる、ということになる。

 およそ三つほどの、現実にたいするちがった見かた、態度がありうるだろう。

 その第一。それは、古い現実だけを見て、新しい現実を見ることができないという見かた、態度である。こうした見かたがでてくるのには、理由がある。見た目にはまだ青々と、古い木の葉が枝にくっついているときには、よほどその気になって注意しなければ、その根っこのところにすでに新芽がはえでているということなど、気づかない。ま冬、厚い氷が野山をとざし、吹雪があたりにあれくるっているときには、氷を破って地面を掘りかえしてでもみなければ、凍りついた地面の下で草木がきたるべき春の準備をしているということなど、見えはしない。

そこで、古い現実がすべてであるかのように思ってしまう。そして古い現実の支配がいついつまでもつづくかのように思ってしまう。──このような現実にたいする見かた、態度のことを、私たちは「保守」と呼ぶ。「現実はキビシイよ、君」という現実主義≠ヘ、このような保守的現実主義にほかならない。

 その第二。これは、古い現実の立場に意識して立ち、足もとからおい育ってくる新しい現実を芽ばえのうちにおし殺そうとして必死になる、という態度である。私たちはこれを「反動」と呼ぶ。かれらはよく知っている──自分たちの利益がそれにつながっているところの古い現実、それが足もとから、日々にガラガラ音をたててくずれていきつつあるということを。そして、その足もとから成長してきている新しい現実は、たとえいまはまだかよわく小さなものにすぎぬと見えようとも、やがて自分たちの命とりになる恐ろしい現実の力だということを。

そこで、かれらはキバをむいて、この新しい現実に──それを代表する勢力に──おそいかかる。そして同時にいいたてるのだ、「新しい現実なんて幻想だ」「あいつらのいうことは現実を遊離した観念論だ」と。しかし、もしかれらがほんとうに、「新しい現実」など幻想にすぎず、その立場にたつ人びとのいうことなど、幻想をおっかける観念論にすぎないと思っているとすれば、どうしてそんなものに必死になって、キバをむいておそいかかる必要があるだろうか。幻影にむかってつっかかっていくのはドン・キホーテくらいのものだ。このことは、かれらのいう「現実主義」が謀略的な性質のもの──新しい現実とたたかうための反動的な思想謀略──だということをしめしている。かれらはそれによって人びとの目を新しい現実からそらし、古い現実に釘づけにして、新しい現実の成長をすこしでもくいとめようとのぞむのである。

 その第三。これは第二とは正反対に、のびゆく新しい現実をしっかりと見、その立場に立って、それをあすの支配的な現実とするために古い現実とたたかうものである。このような態度、見かたを私たちは進歩的・革命的と呼ぶ。新しい現実は、はじめのうちは目にさえとまらぬほどのものであるかもしれない。しかし、それは確実に存在しているのであり、確実に成長しつつあるのだ。古い現実は、当分のあいだは圧倒的な力をもっているように見え、ゆるがしがたいもののように見えるかもしれない。

しかしそれは、確実に没落にむかってあゆみつつあるのであり、やがては成長した新しい現実にその支配の座をゆずらざるをえない必然のさだめにある。いずれかならず吹雪は去り、氷はとけねばならず、これにかわって春風のそよぎとさきみだれる花が野山をおおいつくす日がこずにはいないように。このことを吹雪のさなかにあってしっかりと見とおし、春を呼ぶためにたたかう。これが進歩的・革命的現実主義である。

 現実にたいするこのような三つの見かた、態度のうち、どれが真に現実主義の名にあたいするものであろうか。

 第一の見かたであろうか。ちがう。なぜなら、この見かたは、現実が現在の姿のまま永遠に変わらないものであるかのように思っている。しかし、現実は変わるのだ。冬はかならず春になるのだ。変わるということこそ、現実のありのままの姿である。ところが、それを見そこなっているのだから、その意味において、この見かたは非現実的である。

 第二の見かたはどうか。これはよんで字のとおり反動≠セ。現実が変化し発展していく現実の方向とは反対の方向へ歯車をまわそうとするものだ。春を冬に逆転させようとするのだ。これは反現実主義と呼んだほうがふさわしい。

 第三の見かただけが、真の現実主義と呼ばれるにふさわしい。
 現実を、対立する二つの要素の統一と見、この二つの要素の闘争によって不断に変化、発展していく過程と見る、このような見かたが弁証法である。現実から出発するという唯物論の見かたは、弁証法とむすびつくことによってはじめて、本格的なものとなることができる。だから、私たちの世界観は、弁証法的唯物論と呼ばれるのだ。

 私たちにとって必要なことは、この革命的現実主義の観点を、私たちのひとつひとつの活動のなかに、具体的な方法としてつらぬくことだ。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p119-125)

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◎「格差・貧困の現実に立ち向かう、この道三十年近い保育土さん」と