学習通信070510
◎所有のないところに不正はあり得ない……

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池宮彰一朗氏を悼む
偽善嫌った戦中派
 文芸評論家
  縄田 一男

 池宮彰一郎氏の訃報に接し、先日の城山三郎氏に続き、筋金入りの戦中派作家がまた一人、逝ってしまった、という感が強い。

 池宮氏は、大正十二年(一九二三年)、東京生まれ。作家以前に本名の池上金男で脚本家として活躍し、京都市民映画祭脚本賞を受賞した、いわゆる集団抗争時代劇の名作である「十三人の刺客」「大殺陣」や、渡哲也をスターダムに押し上げた「無頼」シリーズなどを手がけた。

 小説に挑んだのは、とうに還暦を過ぎてからであり、平成四年(九二年)、書き下し刊行された『四十七人の刺客』は、忠臣蔵を謀略戦として捉えて話題を呼び、第十二回新田次郎文学賞を受賞した。が、作品の根底には、従来の美談としての忠臣蔵を否定、自身の戦争体験による、侍は美しく死なせてもらえない、という思いがあった。

 戦争体験と戦場体験は違うというのが口癖で、池宮氏のそれは、三千人が、二十三、四人になってしまったペレリュー島の逆上陸作戦にはじまり、よくぞ生き残った、という凄まじいもの。続いて刊行された『最後の忠臣蔵』では、寺坂吉右衛門が大石内蔵助から、事件の生き証人として、また浪土たちの遺族のために生き残るよう命じられて惑乱する。そこには、八月十五日は誰もが寺坂だった、という気持ちが込められているのではないか。

 その後も、第十二回柴田錬三郎賞受賞の『島津奔る』等で旺盛な筆力を示し、続く『本能寺』『平家』等で、主人公が闘ったのは、世にはびこる既得権に対してである。史上最悪の拝金主義を生み出したバブル崩壊後の日本経済を再生させるには、ルソーが『人間不平等起源論』で引いたロックの言葉、「所有のないところに不正はあり得ない」という時点までさかのぼるしかない、との考えがあった。そして再び戦中派の肉声に思いをはせれば、恐らく俺はこんな国を作るために戦争で人を殺してきたのではないという思いも──。

 その肉声を作品に求めれば、『四十七人の刺客』での「人のいのちは何ものより尊い。なぜならかけがえがないからだ。だが人は死ぬ、いつかは必ず死ぬ、永遠の生命はない。永遠に続くのはこの社会、この文化だけである。限りあるいのちを使うのは、この社会の維持向上をおいてほかにない。/──人には、いのちより大切なものがある」という文章になろうか。

 今この文章を思い起こせば、これは人のいのちは地球より重い≠ネどという似非ヒューマニズムを最も嫌った氏の遺言めく。心から御冥福をお祈りする次第である。
(「日経」20070510)

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 人間たちがお互いに相手を評価しはじめ、尊敬という観念が彼らの精神のなかに形成されはじめるやいなや、だれもがその権利を主張した。そしてだれに対してもそれを欠けば、そのままではすまなくなったのである。ここから礼儀作法の最初の義務が、未開人たちのあいだにおいてさえも起こった。

そしてまたその結果、いっさいの故意の不正は侮辱(ぶじょく)となった。というのはその不正から起こってくる被害とともに、侮辱された人間は自分個人に対する軽蔑を見たからであり、それはしばしば被害そのものよりも我慢ならなかったからである。

そのようなわけで、おのおの自分に対して示された軽蔑を、みずから自分を尊重する程度に応じて罰したので、仕返しは猛烈になり、人間は血を好み、残忍になった。

われわれに知られている大部分の未開な民族は、まさにこの段階に達していたのである。

そしてさまざまな観念を十分に区別せず、またこれらの民族がすでに自然の最初の状態からいかに離れているかに気がつかなかったため、若干の人たちは、人間が本来残忍なものであって、それを和らげるためには取締りが必要であると、あわてて結論を下した。

ところが一方、原始状態における人間ほど穏やかなものはなく、自然によって、けだものの愚かさと、社会人の不幸な知識の光とから、同じくらい離れた位置におかれ、等しく本能と理性とによって、自分を脅かす害悪から身を守るだけにとどまった人間は、自然のあわれみの情からどの人に対してもみずから危害を及ぼすのを押え、どんなことがあっても、たとえ危害を受けた後であっても、そのようなことをする気にはならないのである。その理由は賢明なるロックの格言によればこうである。「私有のないところに不正はありえないだろ」。
(ルソー著「不平等起源論」中公クラシックス p96-97)

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──〔たとえば〕「所有権のないところに不正義はない」は、エウクレイデスの〔『幾何学原本』の〕どの論証とも同じように絶対確実である。というのは、所有権の観念はある事物への権利であり、不正義という名まえの与えられる観念はこの権利の侵害ないし違反である。

したがって明白に、これらの観念がこのように確立され、これらの名まえがこれに結びつけられると、〔数学で〕三角形は二直角に等しい三つの角をもつというのと同じように、私はこの命題が絶対値実に真だと知ることができるのである。

さらに、「およそ統治は絶対の自由を容認しない」。統治の観念は一定の規則ないし法すなわちそれへの合致を要求する一定の規則ないし法にもとづく社会の確立であり、絶対の自由の観念はある人が自分の好きななんでもすることであるから、私は、数学のどの命題の真理とも同じように、この命題の真理を絶対確実とすることができるのである。
(ロック著「人間知性論 四」岩波文庫 p50)

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 共産主義者の当面の目的は、すべての他のプロレタリア的諸党の目的と同一である。すなわち、プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジー支配の転覆、プロレタリアートによる政治的権力の獲得である。

 共産主義者の理論的諸命題は、あれこれの社会改良家が発明または発見した諸理念、諸原則にもとづくものでは決してない。

 それらは、存在している階級闘争の、われわれの目の前で行なわれている歴史的運動の、事実的諸関係の、一般的な諸表現にすぎない。これまでの所有諸関係の廃止は、共産主義に固有の特色ではない。

 すべての所有諸関係は、絶え間のない歴史的交替、絶え間のない歴史的変化をこうむってきた。

 たとえばフランス革命は、ブルジョア的所有のために封建的所有を廃止した。

 共産主義の特徴は、所有一般の廃止ではなくて、ブルジョア的所有の廃止である。

 しかし、近代的なブルジョア的私的所有は、階級対立に、他人による人の搾取にもとづいた、生産物の生産および取得の、最後の、かつもっとも完成した表現である。

 この意味で、共産主義者は、自分の理論を一つの表現で総括することができる──私的所有の廃止。

 ひとは、われわれ共産主義者を非難して、われわれが、自身で獲得した、みずから労働して得た財産、すなわち自身のあらゆる自由、活動および独立の基礎をなしている財産を廃止しようと思っている、と言った。

 みずから労働して得た、獲得した、自分でもうけた財産をだと! 君たちは、ブルジョア的所有に先行した小ブルジョア的、小農民的所有のことを言っているのか? われわれはそれを廃止する必要はない。産業の発展がそれを廃止したし、日々に廃止している。

 それとも、諸君は近代的なブルジョア的私的所有のことを言っているのか?

 しかし、賃労働、プロレタリアの労働は、プロレタリアのために財産をつくりだすのか? 決してつくりだしはしない。それは資本を、すなわち賃労働を搾取する財産、新しい賃労働を生みだして、これを新たに搾取するという条件のもとでのみ増大しうる財産をつくりだす。こんにちの姿での財産は、資本と賃労働との対立のなかで動いている。この対立の両面を観察しよう。資本家であることは、純粋に自身に属する地位ではなくて、生産における社会的な地位を占めることを意味する。

 資本は、共同社会的な産物であって、社会の多くの成員の共同の活動によってのみ、それどころか、結局は社会のすべての成員の共同の活動によってのみ、運動させられることができる。

 だから、資本は、自身の力ではない。それは社会的な力である。

 それゆえ、資本が共同の所有に、社会のすべての成員に属する所有に転化されても、自身の所有が社会的所有に変わるのではない。所有の社会的性格だけが変わるのである。所有は、その階級的性格を失う。
(マルクス・エンゲルス「共産党宣言」新日本出版社 p72-74)

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◎「所有は、その階級的性格を失う」と。