学習通信070516
◎サル以上のカラス……
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潮流
愛鳥週間はきょうで終わりです。毎年、五月十日から十六日までと決まっています
▼春、鳥たちは、卵を産みひなを育てます。大切な繁殖期に、害虫を捕ったり人の心をなぐさめる小鳥たちを保護しようというので、愛鳥週間が定められました。始まりは一九四七年の「バードデー」ですから、日本国憲法と同い年です。ことしで六十年です
▼ことしの愛鳥週間に、カラスが話題にのぼりました。脳の知的活動をつかさどる領域がサルなみに大きい、というのです。猛禽類で害鳥あつかいされがちなカラスは、「愛鳥」には似合わないかもしれません。しかし、鳥は鳥です
▼慶応大の渡辺茂教授らは、世界初のカラスの脳地図をつくりました。体重に占める脳の重さがサル以上のカラス。視覚や聴覚の情報をまとめあげて処理する領域がとても発達している、と分かりました
▼カラスの賢さは、日々見聞きしているところです。ある実験によると、動物のえさを売る自動販売機のそばに硬貨を置いておいたら、ちゃんと投入してえさを取り出したそうです。人間が自動販売機を利用するようすをみていて、なるほど。よーし、おれも……≠ニなったのでしょうか。カラスの大脳の研究は、ヒトの知性がどこからきたかを知るのに役立つ、といいます。カラスをみる目も変わります
▼ちなみにバードデーは、連合国軍総司令部(GHQ)の提案をうけて始まりました。安倍首相がきらいな、日本国憲法を頂点とする「戦後レジーム(体制)」の産物です。
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5月12日
鳥の名
バードウィーク、野に山に自然の大気を吸いにいく都会の人がふえたのはけっこうだが、鳥たちの姿が段々少なくなるのは悲しいことだ。日本はもともと鳥の国で、鳥の名も豊富である。カラスの語源は、「黒し」のことだというのが新井白石の説であるが、恐らく、カラが鳴き声の模写、スはカケスやホトトギスなどのスで鳥という意味だろう。カラスとクロシが関係のないことは、英語のクロウがクロシと関係のないのと同じである。また、したがってカケスのカケも鳴き声の模写、ホトトギスのホトトギというところも鳴き声の模写であろう。
一般に鳥の名には、鳴き声をもとにしたものが多い。スズメ・ツバメ・カモメなどメのつくものは、その上の部分が鳴き声の模写にちがいない。ヒヨドリのヒヨ、チドリのチもそうであろうし、シジュウカラのシジュウも同類と見られる。カッコウ・ジュウイチが鳴き声ズバリの名であること言うまでもないが、中西悟堂氏は、ヒバリも、鳴き声がもとの名かと言われる。
(金田一春彦著「ことばの歳時記」新潮文庫 p161)
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●──文化の成立とその意義
ところで、おもしろいことがあります。この温泉浴だって、海水浴だって、はじめは一ぴきのサルの発明だったんでしょう。ところが、やがてそれが仲間のなかにひろがっていくんですね。そうしてそれがいつのまにか、ムレ全体に共有されるようになり、世代から世代へと伝えられていくようになる。「文化」の誕生です。
ここで「文化」というのは、集団全体に共有され、世代から世代へと伝えられていく行動様式、あるいは生活の知恵、というふうに定義することができます。
じつは、鳥類にも文化のめばえはあるんですね。たとえば、ウルリッヒ・クレバーという人の『動物のことば入門』(どうぶつ社)という本を見ると、カラスの「方言」の話が出てきます。カラスはただ「カア、カア」としかなかないわけではなく、いろんななきわけをしており、それも無意味にないているわけではなく、ちゃんと一つひとつちがった意味をもっていて、「カアーア」といえば「気をつけろよォ」ということ、「クラッ、クラッ、クラッ、クラッ、カアー」といえば「緊急事態発生! 緊急事態発生!」ということ、「クラー、クラー、カッカッカッカッ」といえば「全体、まわれ右!」とうこと、というぐあいだそうですが、どんななき声をどんな合図につかうかということは、ムレごとにちがいがある。これが「カラスの方言」で、一定の地域から出たことのないムレは、一〇〇キロ先のカラスのムレのコトバをもう理解しないそうです。
たとえば、ある地方のカラスは「とびたつぞォ」という合図に「ガッ、ガッ、ガッ」となくけれども、別の地方の力ラスにはそれがつうじない。その地方のカラスにとっては「カア、カア、カア」というのが「とびたつぞォ」という合図なんですから。これはつまり「文化がちがう」ということですね。
文化の成立ということは、動物の生活にとって、すこぶる大きな意味をもちます。なぜなら、先に述べたような「学習」は、すべて個体の生後の「発明」によるものです。だから、その発明しうる範囲は、一つひとつの個体の生活経験の枠のなかにかぎられていますし、そんなにたくさんのことが発明できるわけでもありません。
しかし、ある個体の発明が文化として集団に共有されるようになると、話がちがってきます。あとの世代は、まえの世代の学習の成果を「学習」し、そこから出発することができるのですから。人間の進歩は、ひとえに文化を基礎として、そのうえになりたってきたといえるでしょう。
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカリチャーブック p36-38)
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◎「一定の地域から出たことのないムレは、一〇〇キロ先のカラスのムレのコトバをもう理解しない」と。