学習通信070523
◎われわれはまず全体の姿を見る……

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サルもクルミを割るということ
−分析と総合−

 エンゲルスは、サルがクルミを割ることを分析のはたらきといい、ずるがしこいキツネが入口と出口の二つ穴をほることを総合のはたらきであると述べている。概念をもち弁証法的思考をいとなむことのできる人間は、けだものたちよりも、分析と総合のはたらきをいっそう活発にせねば恥ずかしいことだ。

 幼児が、はじめはばくぜんととらえていた周囲のおとなたちについて、やがてそれぞれを区別してとらえるようになるとき、まえよりもいっそうおとなたちと自分との関係を総合して理解するようになる。ここにも、分析と総合のはたらきが見てとれるのである。

 「分析」とは、かんたんにいえば「分ける」ということだ。化学においては、物質をさまざまな化学元素に分解することに、分析がしめされている。

 私たちが対象とするものは、つねにひとつの統一体として存在している。それを分析せずにとらえるときは、それらの外見的、りんかく的なすがたしかとらえていないことを意味する。それの内部に、本質にくいいろうとするときにとられる方法が分折、つまり、それを分解してとらえてみることだ。

 そこで、その分折についての二つの見本の例をあげてみることにしよう。
 その一。これは「分析」といっても、まったく先入見にもとづき、表面的な現象をあれこれと分けて、あたかもそれが本質問題かのように見せかける、エセ科学的な分析の見本である。

 資本主義社会には、だれの目にもとらえられる貧困があるわけだが、それをある観念論の立場に立つ心理学者は、つぎのように「分折」しながらその「本質的原因」をえがいて見せてく
れる。

 「……社会的貧乏、つまり被搾取階級に属するための貧乏というようなことも共産主義者の宣伝するほど大袈裟な決定的事実でもない。……人生はつねに流転交替して止まるところのないものである。決して悲観することはない。悲観してあきらめたり、憤激したりすることそれ自身が病的心理現象であると私は考える。それゆえに、私はあえていう、貧乏は心理現象であると」──これが、この学者の立場であり、貧乏にたいする先入見である。つづいて、それにもとづいて、つぎのように貧乏の「分析」をしめしている。

1 怠惰であれば貧乏になることは常識でもわかる(この怠惰には、道徳的に「横着」なためと、生理的な理由、風土的な──熱帯地方がとくにそうである──理由とがあると「分析」される)。

2 貧乏は被虐的(マゾヒスチック)な心理傾向のものにとっては、かえって気が楽で、好ましい。だから貧乏人は、たいてい気の弱い者におおい。そしてますます気が弱くなり、ますます浮かび上がれなくなる。

3 マゾヒズムにやや似ても少し精神的性格をおびたものには罪障感(自己非難)があって、貧乏を自分の罪にたいする懲罰と思い、貧乏を歓迎するもの。

4 罪障感にいささか似て、やはり違っているものに拒絶癖がある………うんぬん。

 これはあたかも貧困についての「分析」をくわえているかのようだが、なにほどかの科学的思考といえるしろものではない。「分析」的にことをえがいて「科学性」をよそおうたぐいである。サルがクルミを割るよりもはるかにおとる「分折」といわねばなるまい。

 その二。ここにくわしくは述べないが、資本主義社会の貧困についてのマルクス・エンゲルスの科学的分析がある。

 それは、資本主義社会の諸現象を分析して、私たちの思考を資本主義社会の根本的な構造ヘとむけさせ、貧困の本質的な原因の発見にみちびく分析である。剰余価値の把握からすすんで資本の蓄積と労働者階級の貧困の関係についてのマルクスの分析が、それをしめしている。

 分析する思考とは、ものごとのいっそうふかい把握にすすむものであり、そのような分析こそが、科学的であるわけだ。

 活動家は、たえず諸問題に直面する。そしてその解決を求められるのであるが、それを着実にすすめるには、どうしてもその問題、現象についての分析を必要とするのである。しかし、よく見うけられるのは分析作業をぬきにしたタイプだ。そこでは、問題のおおざっぱなとらえかた、「カン」のひらめき、「十把ひとからげ」といった考えかた、解決のしかたが特徴となっているのである。

 よく労働組合の活動上で問題になるのに、職制をどう見るかという問題がある。「十把ひとからげ」の分析ぬきの態度からは、職制を敵か味方かに一括してとりあつかうことになっている。一歩すすんだ、だが単純な分析では、せいぜい「いい職制かわるい職制か」の二つに分けるにとどまっている。

 ここで職制にたいする分析として、ある労働組合の方針を紹介してみよう。これが一般的にあてはまる結論とはいえない。だが分析につとめている例ではあろう。

 「経営者は(労働者と労働祖合が)たたかいによって獲得した労働条件を、あたかも、すべてが恩恵的にあたえたものであるかのように職制に思いこませ、たたかいにたえず水をささざるをえない役割をになわせている。

 職制といっても、その立場はさまざまである。第一は、その地位も意識も管理者そのもの であるもの、第二は、中堅層とそれ以下の技術者で、現場職制の地位にあるもの、第三は、管理者的機能をはたしているが、生活条件は組合の活動と成果に依存しているもの、第四に、古参労働者で末端職制にあるもの、にわけられる。

 このうち第一の、地位も意識も管理者そのものであるもの(非組合員)をのぞいて、ニ〜四の人たちはあきらかに労働者であり、統一行動できる人びとである。

 かれらのもつ二面性(労働者であることと、職制であること)によって、機械的に他の労働者と同一歩調をとることができないばあいがあるにせよ、このことによって、ただちに『テキよばわり』することはただしいことではない」。

 ここには、職制についての具体的な分析がある。職制を労働組織のうえでしめる地位、職制のもっている意識の側面、また、職制の労働組合にたいする関係の側面から分析しようとしている。このようなとらえかたをするならば、職制を一律に見ることにはならない。

 ところで、私たちが分析を重んじるのは、ひとつのものごとを個々に分解し、そのあれこれを形而上学的に切り離すためではない。分析は総合のためである。

 総合とは、「まとめる」ということである。ひとつのものごとを個々の要素、側面に分析するのは、そのものごとについての把握をふかめるためである以上、分析の結果を総合し、それが全体としてどのようなものであるかを概括せねばならない。そうしたときはじめて、はじめのそのものごとについての内面的な、概括的なとらえかたへとすすむことができるのである。

 エンゲルスが述べているように「思考は、相連関する諸要素を一つの統一に結合するものであるとともに、また意識の対象をその諸要素に分解するものでもある。分析がなければ総合もない」(『反デューリング論』)のである。もちろん、総合といっても、それができるのは、存在するそのものに、ひとつのものとしてのつながりが存在しているからなされるのであって、「靴ブラシを哺乳類という統一のもとに総括してみても、そのために靴ブラシに乳腺ができてくるわけではけっしてない」(前掲書)ように、やみくもに「総合」することがただしいのではない。分析のうえに総合しなければならないのである。

 ものごとをおおざっぱに、ひとまとめにとりあつかわず、かならず分析をくわえるということ、また、分析したものをバラバラにとりあつかわず、かならず総合するということ、「分析と総合との結合──個々の部分の分解とこれらの部分の総体、総計」(レーニン『哲学ノート』)──これは弁証法的な思考のたいせつなはたらかせかたである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p136-143)

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職場問題学習・交流講座への報告
幹部会委員長 志位 和夫

──以上略

 第二は、非正規労働者をどう結集するかという問題です。

 非正規労働者の異常に劣悪な労働条件は、その大多数が違法・無法を土台にしているだけに、何よりもここに着目してたたかいを組織・前進させる――職場から無法を一掃するたたかいが大切であります。

 NHKテレビが毎朝放映している「生活ほっとモーニング」という番組があります。この番組では、二月と四月の二回にわたって「年収二百万円で暮らす・広がる格差社会」という特集を放映しました。そのなかで、年収百八十万円で契約社員として働く若い女性の深刻な生活実態が、紹介されました。この女性は、大学を卒業し、ドイツ語も身につけ、旅行代理店で働いている。しかし異常な低賃金のため、住む部屋は風呂なし、トイレなしの六畳一間。光熱費を抑えるために部屋には暖房器具は一つもありません。友人からもらった服を着込んで寒さをしのいでいるという生活です。

 しかしこの女性は一人ぼっちではない。首都圏青年ユニオンに参加しているという場面がつぎに出てきます。そしてその活動に注目し、こう紹介していました。「正社員、非正社員をとわず、どんな雇用形態でも、どんな職種でも個人で加入できる組合です。組合には年間百五十件ほどの相談がよせられます。……残業代が支払われない、有給休暇がとれないなど、あきらかな法律違反が数多くあります。去年一年間では四十四社と団体交渉をおこない、90%以上待遇改善をかちとってきました」。

 二月の番組には大きな反響がよせられ、四月には第二弾の番組が放映されたとのことでした。職場の無法を一掃するたたかいに、青年たちが自らたちあがっている。私は、この運動には大きな未来があると確信するものです。

 この問題では、正規労働者から非正規労働者への働きかけが大切であります。聞き取り調査でも、正規労働者が中心の職場支部が、非正規労働者の悩みに心をよせて、現状打開のとりくみをともにすすめている経験が、全国各地から報告されました。多くの非正規労働者は、不安定な雇用に置かれているために、会社、職場で、不満があってもモノがいえない状況があります。「いやならやめろ」「文句をいったら契約更新されない」というもとで、労働条件の改善はもとより、仕事の手順がおかしいと感じても、改善の提案すらできない。派遣労働者で、「上司より英語が上手だった」というだけで、雇い止めになったというひどいケースもあります。そのなかで、職場の党員が、「何かいいたいことがあったら、代わりに言うから何でもいっておいで」と話して、実際に、改善させ信頼をえている経験が生まれていることは、たいへん重要であります。

 兵庫の民間大企業の職場支部では、非正規雇用の青年労働者が「有休がとれない」「残業代が支払われない」と相談してきたのをとりあげ、職制労働者もふくめた正規労働者の多数が「技術の伝承にとって、この会社の労働条件が障害になっている。なんとかしないと製品の品質にもかかわる」と声をあげ、労働基準監督署に申告し、改善を実現しています。こうしたとりくみを全国ですすめたいと思います。

 そのさい、非正規労働者の労働条件の改善の問題を、職制もふくめた一致した職場要求にしていくことにしていく努力はきわめて重要であります。非正規労働者の労働条件をよくすることは、正規労働者の労働条件をよくすることに直接つながります。差別と格差をただすことは、職場の人間関係をよくしていくことになります。製品の品質をよくしていくうえでも、労働災害や事故をふせぐうえでも、職制労働者からも「派遣労働者を正規雇用にすべきだ」という要求が出されています。これらに注目して、職場ぐるみのたたかいにしていくことが大切だと思います。
──以下略

(「赤旗」2006425)

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 われわれが自然あるいは人間の歴史あるいはわれわれの精神活動を考察すると、まずわれわれの前にあらわれるのは、連関と相互作用が無限にからみ合った姿であり、この無限のからみ合いのなかでは、どんなものも、もとのままのもの、もとのままのところ、もとのままの状態にとどまっているものはなく、すべてのものは運動し、変化し、生成し、消滅している。

したがってわれわれはまず全体の姿を見るのであって、そのなかでは個々の事物は多かれ少なかれ後方にしりぞいている。

われわれは、運動し、移行し、連関しているものよりも、運動、移行、連関により多く注意をむける。

この原始的な、素朴な、しかし事柄の本質上正しい世界観が、古代ギリシア哲学の世界観であり、最初にヘラクレイトスによってつぎのようにはっきりとのべられている。

すなわち、万物は存在し、また存在しない。

なぜなら、万物は流動しており、不断に変化し、不断に生成し消滅しているからである。

しかしこの見解は、たとえ現象の全体の姿の全般的な性格を非常に正しくとらえているにしても、この全体の姿を構成している個々の事物を説明するには十分でない。

そしてわれわれがこれらの個々の事物を知らないかぎり、全体の姿もわれわれにとってあきらかではないのである。

これらの個々の事物を知るためには、われわれは、それらを自然的または歴史的連関からとりだし、それぞれ独立に、その性状、その特殊な原因と結果などにしたがって、それらを研究しなければならない。

このことは、なによりもまず自然科学と歴史研究の任務である。

これらの研究部門は、なによりもはじめにそのための材料を努力して集めなければならなかったというまことにもっともな理由によって、古典時代のギリシア人のあいだではただ従属的な地位しかしめていなかった。

自然的および歴史的材料がある程度まで集められたのちはじめて、批判的なふるいわけ、比較、あるいは綱、目種への分類にとりかかることができた。

だから、精密な自然研究はやっとアレクサンドリア時代のギリシア人のあいだではじまったのであり、のちに、中世にアラブ人によってさらに発展させられたが、ほんとうの自然科学はようやく15世紀の後半にはじまるのであり、その時以来、それは加速度的に進歩してきた。

自然をその個々の部分に分解すること、種々の自然過程と自然対象を一定の部類に分けること、生物体の内部をその多様な解剖学的形態にしたがって研究することは、最近400年間に自然を認識するうえでおこなわれた巨大な進歩の根本条件であった。

しかし、それは同時に、自然物や自然過程を個々ばらばらにして、大きな全体的連関の外でとらえる習慣、したがって、それらを運動しているものとしてでなく、静止しているものとして、本質的に変化するものとしてでなく、固定不変のものとして、生きているものとしてでなく、死んだものとしてとらえる習慣をのこした。

そして、ベーコンとロックによって、おこなわれたように、この見方が自然科学から哲学にうつされたことによって、それは最近数世紀に特有な偏狭さ、すなわち形而上学的な考え方をつくりだした。
(エンゲルス「空想から科学へ」P48-50)

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◎「そのものごとについての把握をふかめるためである以上、分析の結果を総合し、それが全体としてどのようなものであるかを概括せねばならない」「そうしたときはじめて、はじめのそのものごとについての内面的な、概括的なとらえかたへとすすむことができる」と。