学習通信070524
◎政府にいいなりの人づくり……

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《潮流》

関所の番人が頼みました。「先生はこれから隠遁なさるおつもりですね。それならわたくしのためにぜひご本を書き残してくださいませ」▼すると、「老子は、上下二篇の書物を書いて、道徳の意義をわずか五千余語で述べつくしてからたちさった」。そして、「だれも彼の最期を知っているものはない」。古代の中国。司馬遷が、『史記』の中にえがく老子です(貝塚茂樹・川勝義雄訳『司馬遷』から)

▼政府の教育再生会議が、「道徳の時間」を小学校から高校までの正式教科にするといいだし、波紋をひろげました。思わずうなずいたのが、道徳についての老子の説を引いた作家・玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんの話です(『毎日』四月十六日付夕刊)

▼玄侑さんによれば、「道徳」とは老子の『道徳経』にもとづく言葉。老子は次のように説いた、といいます。真に徳のある人は、徳を得ようと意識することがないところに徳がある。徳を得ようなどとするところには徳はない

▼学校で道徳の成績を評価し、子どもたちが、「道徳についてよく知っている」とか「いい点をとった」「ほめられたい」などと競い合う。そんなものは真の徳といえず、かえって「徳から離れてしまう」(玄侑さん)というのです

▼「愛国心」の教育の義務づけも、政府にいいなりの人づくりには都合がよくても、真の愛国心ははぐくめないでしょう。政府の仕事はまず、子どもたちがしぜんと愛着や誇りをもてるような国づくりです。その国の姿を、日本国憲法がしめします。
(「赤旗」20070517)

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 しかし道徳は人間を正しく生かす為にあるので、人間をいじけさす為にあるのではない。又他人を支配する為にあるのではなく、自己を支配する為にあるのだ。各人が自己を支配する為にあるので、他人を制裁する為にあるのとはちがう。

 不徳漢はもとより非難されるのはやむを得ないが、不徳漢でない人間は、事実滅多に居ないのだから、他人を責めすぎる者は、多く無反省の不徳漢である。反省力のある不徳漢は他人より自分の方が罪の重いことを知る。そして自分を少しでもよくしたいと思うのだ。自分の心がけをなおすのだ。生活の改善を心がけるのだ。他人に親切 にしよう、自分の怠け心に打ち克とう。自分の虫のいい考をやめよう。他人に迷惑をかけたり、不快な目にあわすのをよそう。そして自分の心がけをよくし、少しずつでも立派な人間にしよう。世の中に役に立つことをしよう。悪いことは出来るだけさけて、善事をするように心がけよう。

 自分のことは棚に上げて他人のことばかり非難するものは、自己の生命に不忠実なものである。自分に託された一つの生命さえもてあまして、他人に任された一つの生命の世話をやくのは、道徳的だとは言えない。道徳の力は内心的に働くもので、他人に気がつかれなければいいというものではない。

 もとより他人の不道徳を増長させたり、他人の不道徳を弁護したりする必要はない。それは勿論よくないことで、不道徳なところは反省させるのはいい。しかしその不道徳が他の人に害を及ぼさない時は、知らん顔する方がいい時がある。見るに見兼ねるということもある。しかしその見かねた原因に、嫉みの心があってはよくない。自分の心に賤しいところがあって、他人を非難したところが、それは他人に不快を与えるにすぎない。本当にその人の本来の生命を愛して、自分に疚しいところがなく注意すべきことを注意するのはいい。しかし無為にして化するのが、徳の徳たるところであることを忘れることは面白くない。

 道徳は相手が尤もだと思った時、効が上るのだ。悪かったと思った時、ききめがあるのだ。刑罰で制裁しても、相手が本当に自分が悪かった、この位の罰を受けるのは当然だと思った時、その人は道徳的に反省した時で、再生することが出来るが、罰を恐れていやいや屈従したのでは、その人は道徳的に救われたとは言えない。だからそういう時、その人の心は清まらない。

 現在の社会は、道徳的な社会ではない。だから現代の所謂成功者は道徳的の成功者ではない。金もうけのうまい人間、出世の名人、運のいい人間にすぎない。人間の値打を高めることは反って今の世では成功しない場合も少なくない。

 しかしそういう時でも、本当に道徳に支配される者は、何処かに権威をもち、接する人を高め、生き甲斐を感じさせるであろう。

 真の道徳心は、我等の生命を正しく生かす為に与えられているものだから、それに従って生きる者は自ずと人々の心を正しきところに導く力をもっている。

 嘘はよくない、他人をいじめるのはよくない。利己的になるのはいけない、欲望を病的にのさばらすのはいけない。他人の生命を尊重することが大事だ。等々。

 つまり道徳はすべての人が大調和を得て、正しく生長してゆくことに必要な道で、それからはみ出すと、誰か犠牲者を出さなければならない。又恐ろしいことが起る危険性があるのだ。

 だから、心がけもよく、生活もよかったら、自然はその人の生命をその瞬間は肯定する。其処でその人も自然、自分の生命を肯定するのである。

 自然に肯定されないのに、自分免許で自分の生命を肯定しようと思ってもそれは無理である。
(武者小路実篤「人生論・愛について」新潮社文庫 p126-129)

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道徳と哲学

 マルクスはプルードンを「矛盾の化身」として特徴づけた。この評価は、トルストイにたいするレーニソの特徴づけを思いださせる。しかし、プルードンは芸術家として活動したわけではなかった。彼が哲学者として登場したかぎり、マルクスが彼に投げつけた言葉は「哲学の貧困」というのであった。

 プルードンは、社会主義の説教者としてあらわれた。プルードンにおける「哲学の貧困」は、この面では彼に何をもたらしたか。マルクスは「矛盾の化身」としてあらわれるのが小ブルジョアー般の特徴であることを指摘しながら、つぎのようにのべている。

「彼〔小ブルジョア〕は矛盾の化身です。もし彼が、そのうえブルードンのように才気のある人間であれば、じきに彼自身の矛盾をもてあそぶことをおぼえ、そのときどきの事情しだいで、あるいはめざましい、あるいはそうぞうしい、ときにはいまわしい、ときには輝かしい逆説に、それをしたてあげるでしょう。

科学におけるほらふきと政治における日和見とは、こういう立場とは切っても切れないものです。残されている動機はただ一つ、当の人物の虚栄心だけです。そして、すべて虚栄家の場合にそうであるように、目先の成功、つかのまの評判だけがかんじんなのです。こうして、単純な道徳的節度は当然に消えうせてしまいます」

 すなわち、哲学の貧困は道徳における節操の貧困につながる、ということである。「道徳的な節操」と「認識の首尾一貫、認識の節操」とは一体のものだ、と戸坂潤も書いている。「科学的認識の上での論理の欠乏は、道徳意識の上での節操の欠乏に対応する」と。

 そうならざるをえないのである。なぜなら、哲学は世界観であり、そして「もともと世界観というものは、そのひろがりからみれば、この世界にぞくするすべてのものについての見かたである」のだから、それは「たとえば恋愛説や結婚説や女性観、それから教育観や宗教説や芸術観、さらにまた国家説や戦争観や歴史観や自然観など」をその内容としてふくむことになるのだが、これらの「……観」相互のあいだに首尾一貫性が欠けている場合、

たとえば政治観、社会観一般においては民主主義的でありながら、異性観、恋愛観、結婚観、家庭観(あるいは「観」以前の生活スタイル)においては非民主主義的であったり、あるいは異性観、恋愛観、結婚観、家庭観等々において一般論としては十分に民主主義的でありながら、具体的な自分の恋人観、夫観、妻観、子供観等々となるとすこぶる非民主主義的であったり、といった場合、とりもなおさずそれは道徳的な首尾一貫性の欠如ということにほかならないからだ。

 このように、世界観における首尾一貫性の欠如と道徳的な首尾一貫性の欠如とは表裏一体の関係にある。倫理学が伝統的に哲学の重要な一領域、一側面としての地位をしめてきたゆえんである。
(高田求著「人間の未来への哲学」青木現代叢書 p8-10)

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道徳的論理と科学的品行

 世間では道徳というと、何か倫理学か道徳学の対象だと思っている。甚だしい場合になると道学者のお説教にしかならないものと考えている。その位い現代の日本では実際に道徳というものが変なものになっているのである。

 そのくせ本当は、道徳位い世間が拘泥しているものはないのだ。自分の社会的な立場が行きづまると、すぐに明鏡止水と云ったような心境道徳を示すことによって問題を紛らせようとするし、そうかと思うと他人の私的行動に一々お節介をしないではいられない道徳癖が日本人の持病である。自分の長男を米国風に教育しようという意見を発表すると、忽ち某方面から苦情が出て、次男以下には国粋教育を施さねばならなくなる。と思っていると、思想上の節操(即ち党派性)を惜しげもなくなげ捨てることが、却って良心的なことにもなっている。

 私は嘗て、道徳に習慣風俗という側面と良心意識という側面とがあるという極めて判り切った事実を述べたことがあるが、現代ではこの両側面が実は完全にバラバラに分裂していて、道徳的な統一が成り立ち得ず、従って道徳が壊れたままで未だに出来上らないのだが、それにも拘らず、事実上、この二つの側面が妙な様式で密通している。習慣風俗は自然的にそれに相応した良心意識を生み出す代りに、却って単に良心意識を強要することがその機能になっているし、良心意識の方は習慣風俗を批判する代りに、習慣風俗におもねる事がその義務になっている。

 要するに現代では、社会の認識(之は無論科学的でなければならない筈だ)を、直覚的な形で代表するという意味での、本当の道徳意識は存在しないのであって、従って道徳というと、何かお説教じみた不真面目な内容のものだとしか考えられないのである。

 普通、道徳は品行間題と結びつけられて世間の興味を惹いている。或る尺八の名手の婦人関係は、彼の品行に関係するが故に非常にセンセーショナルな道徳間題となったが、之に反して文士の賭博は直接彼等の品行とは無関係なので、道徳上の問題としてはあまり厳粛に取り上げられない。笑って済ませる事件だと考えられているのが事実である。

 だが、此の事実には相当の真理があるので、之は道徳が要するに節操に帰着するという一つの知識を示しているものに他ならない。尤も節操というものをウッカリ考えると、つまる処男女の肉体関係以外の問題ではなくなるのだが、之は実は節操のカリケチュアに過ぎないということは誰でも知っているのであって、節操とは本当は、道徳的な首尾一貫のこと以外のものではなかった筈だ。

 処で道徳上の首尾一貫と云っても、古来の因習を固執するというのでは頑迷以外の何ものでもないわけで、認識の怠慢を示すものに他ならないが、そういうものでは元来節操でも何でもないことになる。で、どうしても、道徳上の首尾一貫ということは、認識の首尾一貫をば直覚的な形で代表する処のもの以外にはない、ということになる。道徳的な節操とは、認識の首尾一貫、認識の節操ということだ。

 認識の節操などというと、言葉は甚だ作文的で、従って無責任に聞えるかも知れないが、それなら認識の論理的統一という平凡な言葉で置きかえても構わない。

 併しここから私は一つの社会科学的な公式を導き出すことが出来るのである。即ち、科学的認識の上での論理の欠乏は、道徳意識の上での節操の欠乏に対応する、という公式である。例えて云えば哲学があるかないかが、彼が転向するかしないかという品行を決定するのだ。で哲学者福本一夫などは、恐らくこういう原因から簡単には、転向出来ないのではないかと思う。
(戸坂潤著「思想と風俗」戸坂全集C p302-303)

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◎「科学的認識の上での論理の欠乏は、道徳意識の上での節操の欠乏に対応する」と。