学習通信070525
◎「定石通」といわれる……
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当時、私の働いていた職場には二〇〇人くらいの労働者がいた。私は、毎日、朝と正午の休憩時間を利用して職場をかけまわって、一人ひとりの仲間に、組合再建の必要をといてまわった。皆が、新しい制度の下で、労働強化や貸金の引下げのくるのをおそれていた。だが労働組合の再建のことになると、あんなだらしのない組合は有害無益だ。二〇銭の会費がおしいという人が多かった。
だが、組合なしで目の前にせまっている労働条件の改悪をどうふせぐというのか? たしかにいままでの組合はだらしのない組合だった。だが組合はわれわれが自分でつくるのだから、みんなの望むような強い組合に再建すればいいのではないか? いままでの単独組合、職場連合組合ではなく、民主的な統一された組合にして、全国的な組織に加盟するような方向で再建しょう、と熱心にといてまわった。
二ヵ月かかって、だいたい、職場の一人残らずの人びとが、そういう組合をつくるならば賛成するというところまでこぎつけた。私はこれで組合は再建されたと早合点した。そして、今月から組合費を出してもらいたいと切りだした。ところが、だれのところへいっても「みんなが出せばおれも出す」という返事だった。結局、だれも出さないのだ。これには閉口してしまった。どうしてここを突破するか?
私は、ここではじめて、労働者のもつ重要な特質の一つを学んだ。労働者は一人ひとりでは弱い。だから自分だけとびぬけて、同僚より先になにかの行動にでることをためらう。
これは労働者が自分を守る本能である。同時にこれは集団的に組織された労働生活によって身につけた連帯精神のあらわれでもある。「おれ一人ではいやだ。みんなといっしょならやる」という労働者の気持のなかに、じつは、労働組合に団結する精神的な土台があるのである。
そこで、正午に、みんなが集まって食事をしているところへいって、みんながそろって組合費を出すことを承諾してもらおうと考えた。それにしても私は十八歳の青年で勤続一年にしかならない。
この点に不安がある。私は、各組で、組長候補ぐらいの立場の人で、わりあいにものわかりのよい人びとのところへいって、私の考えを話して、昼食のときに私がいって、みなが同時に組合費をだすように提案するから、そのときひとこと「よかろう」と口を切ってくれるようにたのんだ。これはみごとに成功した。組合費はみんなが納めるようになった。
組合費の問題が解決したので、今後は組合員一〇名に一名の割合で職場幹事を選挙して組合の組織を確立する仕事にとりかかった。ここでも思いがけない困難にぶつかった。
当時は労働組合法もなく、労働組合にたいする資本家と政府の弾圧もひどかった。組合役員はまったく自腹を切って組合活動をしなければならなかった。だから、職場幹事の選挙でも、労働者は、なかなか皮肉なことをやって、ふだん会社におべっかをつかってみなから憎まれている男を最高点で当選させてしまうようなことがあった。
選ばれた男は「みんながおれを憎んで選挙したのだからいやだ」といっていくら説得しても承知しない。ここで、選挙のやりなおしをすれば、てんやわんやになってしまうおそれがある。
私はいろいろ考えたすえ、「選挙された者が辞退するようでは、せっかく、再建された組合がなりたたなくなる。組合の役員になれば、だれでも会社からにらまれるにきまっている。だれだって会社から特別ににらまれたくはないはずだ。だから、これまでは役員の任期は半年だったが、今後から一カ月にしよう。
一カ月たったら全部改選する。そのときは一度役員になった者は選挙されないことにする。そうすれば、一〇カ月たてば、職場の全員が職場幹事をしたことになるから会社としてもにらみようがないだろう」と提案した。この提案はよろこんで可決された。
職場幹事の仕事は組合費の徴収や機関親の配布、請負の単価の評定その他毎日職場でおこるこまごまとした問題の処理などで特別な知識や能力を必要としない性質のものが多い。それに月当番であっても一〇人に一人ずつ選ばれた二〇人の委員は、、大体において職場の健全な良識を代表する人びとが多数をしめるので万事さしつかえなくやってゆけた。
とくにみんなが交替で職場幹事をやるので、組合員の一人ひとりが自分の組合だという自覚が強くなって、全員が組合活動に積極的に参加するようになって組合を強化するうえで重要な役割をはたした。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 p28-31)
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「しょうぎ」と弁証法的な考えかた
変化にとんでいる「しょうぎ」は、けっして単純にはさせない。活動家のなかには、複雑なものごとを単純化する「達人」がいるが、そのようなものの見かたでは、「しょうぎ」もうまくさせないのではないだろうか。もちろん、「しょうぎ」が上手でさえあれば、活動もうまくいくということではないが。
ここで「しょうぎ」に例をとりながら、ものごとについての弁証法的なとらえかたを考えてみることににしよう。
まず、「しょうぎ」のます目は、八一画ある。しょうぎの名人といわれる人たちは、ひとつのコマをうごかすときにも、たえずその八一画全体の連関のなかで、コマのうごかしかたを考えるそうである。名人にいわせると、素人は、ひとつのコマをうごかすさいに、せいぜい九から十のます目のなかでしかさし手を考えていないという。これでは、しょうぎの「たたかい」に勝つわけはないはずだ。
ある名人にいわせると、しょうぎの基礎は読む≠アと──この一語につきるという。さて、この読む≠ニいうことであるが、これは、千変万化の変化のおきぐあいを、その棋盤のコマの連関のなかから思考によって見いだすことであるといえよう。これはまさに、弁証法的な思考である。ここでは、カンのはたらきといってはすませないもの、つまり弁証法的な頭脳のはたらきがすすめられるわけである。
「しょうぎ」の必勝法とは、「先を読む=v「相手よりたくさん読む=vということになるのだが、この読み≠ゥたにも弁証法があるのである。それは、自分のほうばかり、自分の都合よいように読む≠ニいうのは、読み≠ノはならないということだ。しょうぎの名人によるとこういう。相手の状況と自分の状況とを冷静に検討する。こうすれば相手が困るだろうというように考えて読む≠フが通常であるが、こうしたら相手がわが有利になるだろうということも読ま≠ネければならない。相手を有利にすることは自分を不利にすることだから、相手が有利になる手段をほりさげていけば、自分の打つ手に狂いがないし、自分を有利にすることにつうじる。だから「先方をたてて見る」──これが読み≠セと。これは、「対立物の統一」のなかで読む≠ニいうことにほかならない。
私たちの活動のなかに、こうした読み≠生かさなければならない。活動するときに、自分と相手の状況を読ま≠ネいで活動する。そうして思いがけない状況に直面すると「これはダメだ」というレッテルをはるのではだめだ。これでは「しょうぎ」をさしていて、相手のさし手をまえにし「あいつは、定石もなにも知らないやつだ。だからオレの力は発揮できないのだ」というたぐいである。
「しょうぎ」の愛好者のなかに「定石通」といわれる人がいる。定石をマル暗記しているわけである。その暗記していることが自分の力だと思いこんでいるからぐあいがわるい。こういう人が我流できたえた定石知らずの人と「しょうぎ」をさすとどうなるだろうか。相手は自由奔放である。こちらは「こういけば、こういうかたちになる」と考えていると、相手はまったく定石はずれにコマをさす。そのうち「定石通」は、ペースが狂い、見当もつかなくなり、相手にふりまわされて負けてしまうのである。「しょうぎ」さしにいわせると、定石は知らねばならないが、自分というものを失ってはいかんのだという。つまり、自分の頭で、そのとき、そのばでしっかり考えることを失ってはならない、定義と原則どおりにことはすすまないというわけである。そこでたいせつなのは、さきに述べた弁証法的な思考になるのである。
ここまでのことをまとめてみると、「しょうぎ」をしっかりさすのも、連関をあきらかにし全面的にものごとをとらえ、対立する二つの側面の状況を具体的に検討するということにほかならない。
さらに「しょうぎ」の弁証法には、コマのもつ性格の多様性と統一性をとらえるということがあげられる。これをただしくとらえないと、「しょうぎ」はうまくさせないはめにおちこむのである。
「しょうぎ」のコマには、それぞれ個性がある。ということは、それぞれ他から区別される持ち味があるということだ。
たとえば、歩は数もおおいために軽んじられやすく、ひとますしか前にすすめず、欠点のおおいコマである。しかし「しょうぎ」のなかでは、歩できまる勝負がおおいといわれる。棋聖のさす「しょうぎ」は、歩をたいせつにし、終局にさいしては、歩のハシからハシまであますところなくそのたたかいに参加させ、勝利のよろこびを全部のコマに味わわせているそうである。こうして、歩のもちいかたのいかんに、その人の力のほどがしめされるといわれる。
香車は、遠距離ランナーでしかもスピードがある。このコマは、静止し時期をうかがい、相手をけんせいするのに力がある。しかし、このコマが動いてあがっているのでは、なんの力にもならないようになるのである。
飛車も同様に、うしろから見ていて前のコマを助けねばならない。それが、自分だけで動きまわり、身うごきならないような目におちいって、せっかくの能力も役にたたなくなるばあいもおきる。
桂馬も、いざというときには他のコマにみられない貴重な役割をはたす。しかし、これもむやみに動くと「桂馬の高飛び歩の餌食」ということにおちいる。角は、もっともひと癖そなえたコマである。だが、これも他のコマにははたせないななめ飛びなどの貴重な能力をそなえている。……ざっとこういったぐあいである。
こうしてどのコマもひと癖あり、長所と短所をそなえている。「しょうぎ」をさすとき、欠点のあるコマを排斥し、使いやすいコマ(たとえば、金、銀)ばかりをもちいるようなさしかたであっては、「しょうぎ」に勝ち目がないのである。
わずか「しょうぎ」の二〇個のコマにしても、多様な個性をもつコマがそれぞれの力を発揮してはたらいているとき、他のどれにも見おとりしない輝きをはなつことになるのであり、また、じっさいにどれかが欠けると、それまでには貴重にも思えなかったコマが、なくてはならぬものにうつってくるのである。
さて私たちは、職場のおおくの仲間たちとともにたたかわねばならないのである。けっして、自分たちだけでたたかっても勝利はないし、同じようなタイプの仲間だけでたたかっても勝ち目はないのだ。いやおうなく、しかたなく、おおくの仲間たちとたたかうというのでもだめだ。たいせつなことは、どんなコマも、どんな仲間も、自分たちといっしょに、対立する相手がわにむかって存在しているという統一性を見つめ、そのうえに、それぞれの仲間のもつ個性を生かし発揮してたたかっていくという見地に立つことであろう。統一性をみ、同時に多様性をみること──これがたたかいにとって欠けてはならないのである。
また、「しょうぎ」の弁証法には、たたかいのすすめかたにも、きわめて示唆にとんだ内容がある。「しょうぎ」に勝つということは、王をおさえつけたときにえられることはだれもが知っている。しかし、そのことを念仏のようにくりかえしとなえたところで「しょうぎ」に勝つわけはない。だからといって一足飛びに「王手」という手もないのである。つまり、教条主義でも冒険主義でも、勝ち目はないわけだ。
そこで、なにが必要かといえば、いかに面倒でも、まわり道のようでも、目のまえにある相手のコマと着実にたたかいつつせめていくのが、勝利へのちか道にほかならないということであろう。だがそのばあいにも、たたかう相手を目のまえのコマとばかり思いこみ、あるコマをとってうちょう天になっているようでは、真の勝利につながらないのである。目のまえにあるコマとたたかいつつ、同時に、王にむかってせめていく方向、「王手」とつめていく道すじを、たえずあきらかにして進んでいかねばならないのだ。
レーニンは、労働者階級のたたかいのあるべきすがたについてこう述べている。「……個々の労働者が全労働者階級の一員であることを自覚するとき、また、個々の雇い主や個々の投入にたいするその日常の小さな闘争を、ブルジョアジー全体と政府全体とにたいする闘争と考えるようになるとき、そのときにはじめて彼の闘争は階級闘争となる」(『われわれの当面の任務』)。
ここには、日常の小さな闘争、企業の雇い主にたいする闘争をしっかりおしすすめること、しかもそのときなにを自覚し、なにを考えるようにせねばならないかが示されている。
私たちのおしすすめるたたかいも、そうでなければならないのではなかろうか。ともすれば、職場での、日常的な小さな闘争を軽視して、直接に「王手」として効き目のあるたたかいだけを好み、それにだけ熱中するというのでは、真の勝利はえられないのである。なぜなら、単発の「王手」は、王をおびやかしはするにしても、王をおさえつけるにはほどとおいからである。
またここからいえることは、日常の小さな闘争だけに目をうばわれ、企業の雇い主とのたたかいだけがすべてだと思いこんではならないのである。真の勝利は、日本の現状における支配勢力にたいする勝利のときにもたらされることをけっして見失ってはならないといえよう。
いま私たちが、とくに重視せねばならないのは、一歩一歩と確実に、日常の小さな闘争を職場からつよめていくことである。そこで、力をつよめねばならないのだ。
「しょうぎ」は、じつに変化にみちみちている。とった相手のコマは、味方に変えてもちいられ、戦力ははじめの出発点にプラスし、いくらでも強化できる。しかし、ぎゃくのばあいは、たんにこちらの戦力が弱まるばかりか、相方の力をつよめ、その差は倍となる。また、一定の段階をへるとなり金となって、質的に変わった力をそれぞれのコマは発揮するといったようにだ。
私たちは「しょうぎ」よりも幾層倍もいっそう複雑な対象や事情のもとで活動しているわけである。どんな職場でも「しょうぎ」より単純なことなどあるまい。とするならば、具体的に問題に対処するには、「しょうぎ」に熟達する以上に熟達した弁証法的な能力をそなえなければならないといえよう。いずれにしても、複雑な問題を単純化しないことが肝要である。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p143-151)
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◎「「しょうぎ」の弁証法には、コマのもつ性格の多様性と統一性をとらえるということがあげられる」と。