学習通信070528
◎「やばい」とは「やば」の形容詞化……

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ゆうPress
味が、やばい 全然イイ!
この日本語は変!? OK!?
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 最近、雑誌やテレビなどで見聞きする「こだわりの一品」「こだわりの味」。従来は否定的な意味で使われてきた「こだわり」ですが、肯定的にも使われるようになってきました。「若者言葉はわからない」「日本語がおかしい」という声も聞こえます。日本語にちょっとこだわってみました。NHKアナウンサーの「ことばおじさん」こと梅津正樹さんにも話を聞きました。(伊藤悠希)
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 「このラーメン、やばくない?」「あの子、マジやばいよ」―と聞いて、意味がわかりますか?
 本来なら、「やばい」とは「やば」の形容詞化で、危険や不都合が予測されるさまを言い、危ないという意味です(日本国語大辞典第二版)が…。
 東京都出身の社会人、池川友一さん(22)は、ラーメン屋に行けば「この味玉(味付け卵)やばい」と表現します。「すごくおいしい」という意味で使っています。
 池川さんは高校生のときバレー部でした。試合のとき、相手チームにすごいスパイクを打つ人がいると「あいつやばい」と言っていました。「すごいの上、ずるすぎるというニュアンスで使っていました」

◆対象の変化
 『ことばおじさんの気になることば』(NHKアナウンス室ことば班編)によれば、どうでしょう。「すごい」という意味の用法は、「やばい」という対象が「外的に存在する人・物」から「内的な自分の心情」へと変化したことによって生まれたものだと分析します。気持ちが激しく突き動かされたことが重要なのだそうです。

 佐賀県出身の大学生大宅咲子さん(21)は「やばい」を本来の意味で使うことが多いと話します。しかし、「すごい」という意味で使われても違和感はないと言います。NHKの分析には、「そうかもしれない。気持ちが揺れ動くときって興奮しているときかな。気持ちを強調したいのかも」と共感していました。

 「全然大丈夫」「全然いいよ」という使い方は、どうですか。大宅さんは「小学生のとき先生から間違っていると指摘されたけど、周りの人が使うので使っていた」と話します。

 池川さんも「否定、肯定両方の意味で意識なく使っています」。

◆語尾上げる
 「あれ、それ違くない?」「おいしくない?」と語尾を上げて表現することについて、大宅さんは「同じ意見を共有したいから使っている」と言います。「自分の意見を主張して会話を終えるより、語尾を上げた方が一人よがりでない感じがするんです。ワンクッション置けるから。柔らかい雰囲気を保ちたい気持ちがあるんだと思います」

 ただし、こうした言葉を池川さんも大宅さんも誰にでも使っているわけではありません。池川さんは仲間うちや親に使うと言います。「同年代には親しみを持ってほしいので積極的に使います」

 大宅さんは同年代か中高生くらいまでに使います。小学生などには使いません。「変な言葉を使っちゃいけないと思う」のが理由です。

 大宅さんが同年代に使う理由は、「柔らかい言葉を使いたいから。ニュアンスがぎゅっと詰まっているんですよ。だから、直したいんじゃなくて使いたいんです」。

古代、「おまえ」は尊敬語
 NHK「ことばおじさん」梅津正樹さん語る
 相手に不快感を与えない、理解してもらえる話し言葉はどうあるべきでしょうか。

 言葉は時代によって変わります。今は初対面の人に「おまえ」と言えば失礼ですが、古代は「御前(おんまえ)」という尊敬語でした。いつの時代の言葉を正しいとするのかが問題なんですね。

 年配の方は、「全然」という言葉には否定の意味が続くという認識があります。しかし、若い人は肯定の意味で使います。調べると、戦前は肯定の方が多かった時期もあるんです。「全然」は「まったくしかり」と書きます。どこにも否定の意味はないんですね。戦後の学校教育で全然の後には否定がくると教えるようになったんです。

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 言葉は生活に密着しているものです。食べ物に関しては、使わなくなった言葉がたくさんあります。「こりこり食べる」とはあまり言わなくなりました。今は柔らかいものが多く、そう表現する機会がないんですね。

 若い人たちは「鳥肌が立つ」を感動したときに使います。鳥肌が立つような恐怖や寒さを感じたことがないんでしょう。実験したら感動したときにも鳥肌は立ちました。科学的に考えると間違いではないんです。本来の使い方ではないといって否定していいんでしょうか。

 今は、言葉に関して世代間のギャップを感じる時代にあたります。私が若いときは、それほどギャップは感じませんでした。今の若者は全然違う環境のなかで生まれ育っているので、使う言葉は当然違います。

 私たち以上の世代が正しいと思ってきた言葉は書き言葉が規範になっています。若い人にとっての言葉は話し言葉なんです。だからギャップは生まれるんです。

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 私は、若い人の言葉を否定しない立場をとっています。

 例えば、若い人は「おいしい」気持ちを伝える場合も、語尾を微妙に変化させて断定しませんよね。自分に自信がないからだという人もいますが、そんな単純なものではないと思います。絶対とは言いきれない、押しつけがましくも言いたくない、複雑な気持ちから、あいまいな表現が生まれるんでしょう。

 書き言葉では表現できない話し言葉をわれわれの世代より上手に使っているんですね。これは若い人たちの力だと思います。新しい話し言葉が作られているんだと思うのです。
(「赤旗」2007528)

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コトバの枠をやぶるコトバの力

 だから、コトバを育てるということは、たいへん微妙なことなんですね。一方では、それは、すでにあるコトバを、すでにあるそのつかい方を与える、ということでなければなりませんが、同時にそれは、その枠のなかに子どもたちを閉じこめるということであってはならないのです。反対に、従来の枠をふみ越えていくだけの力を与えるということでなければならない。そう思うのです。

 ゆたかなコトバなしにはゆたかな感性は育たない、という趣旨のことを、これまで私は強調してきました。コトバは感性のあり方を規定する力をもつ、といってもいいと思います。さて、ところで、つぎの高村光太郎のコトバをあなたはどう思いますか。

 「……むしろ言葉に左右されて思想までが或る限定をうけ、その言葉のはたらきの埓外へうまく出られない場合が多い。人間の心情にはもっと深い、こまかい、無限の色合があるのに、言葉はそれを言葉そのものの流儀にしか通訳してくれない。言葉は人間に作られたものでありながら、独立したもののように勝手に動いて、人間の表現力を掣肘(せいちゅう)し監督して、これにお仕着せをきせる」

 コトバが感性のあり方を規定する力をもつということは、こういうことでもあるんですね。だから、コトバなんてないほうがいいんだ、ということになるかといえば、断じてならない。そういう制約から感性を解放するのもまた、コトバの力なんですから。現に、大川さんのつくりだした「とれれ とれれ……」ということバは、「どんどんひやらら……」の枠から私の感性を解放してくれたんですから。

 高いところにあがって手をのばすと、指が天井につく、というのは、私たちの常識的な表現であり感覚ですね。ところで、中川李枝子さんの『いやいやえん』(福音館書店)を見ると、ちゆーりっぷほいくえんにかよっている四歳のしげるちやんが、三つ重ねた机の上に立って、ひとさしゆびをなめて、天井をこすって、つぎのようにいうところがでてきます。「えへへ……てんじょうがゆびについちやった」

 すばらしい感覚、すばらしいコトバのつかい方だと思いませんか?

 つぎは、やはり四歳児のじっさいの発言の記録です。(「用例集・幼児の用語』)クーラーがはいっているまえで、その子が「クーラークベツ」というコトバをつかったらしいん ですね。「なあに、それ?」ときくと──

「クベツガ ツイテルノ。アノネ アカ オスト トマッチャッテネ ソノツギノ シロオストネ スコシ ツヨクッテネ ソノツギノネ シロ オストネ ウントネ イチバンヨワイノ。イチバン イチバンノ ヨワサ テストシテ ミタノ。ダカラ ダイジョウブヨ」

 「クーラークベツ」にかわる適切なコトバ、あなたの頭にすぐに浮かんできますか?

●──貧しい感情と貧しいコトバ

 もう一度念をおしておきますが、「人間の心情にはもっと深い、こまかい、無限の色合いがあるのに、言葉はそれを言葉そのものの流儀にしか通訳してくれない」ということは、たしかにあるんですね。たとえば、もうだいぶ前になりましたが、「いやな感じ」という コトバが流行したことがありました。先生に叱られても「いやな感じ」雨にぬれても「いやな感じ」なんでもかんでも「いやな感じ」──すべての不快感が「いやな感じ」の一語におきかえられちゃうんですね、そのなかにはピンからキリまで「無限の色合い」があるはずなのに。まるで、セミもイナゴもバッタも区別なしにロウカストの一語でとらえちゃうみたいに。

毎度引用する『用例集・幼児の用語』は、一九六一年から六六年にわたってNHK学校放送部が行なった録音観察による追跡調査の資料にもとづいて編まれたものですが、そこにも、大工さんのかんなにたいして「イヤナカンジ」といった三歳児の発言が記録されています。

 いまの若者の流行語は──「ナウい」と「ダサイ」でしょうか。「ダサイ」とほぼ同義 語として「イモ」「イモっぽい」というのもあるようです。それから「アタマにくる」「ムカツク」

 すべてを「ナウい」と「ダサイ」の二分法で処理するというのは、まずその価値基準に 大きな間題があると思います。が、これは事柄の性質上もあって、幼児の世界にまではあまり浸透してきていないと思いますから、ここではこれ以上ふれないとして、気になるのは「アタマにくる」「ムカツク」です。「いやな感じ」がかつて三歳児にまで浸透したように、「アタマにくる」「ムカツク」は、今日幼児の世界にまで浸透してきていないでしょうか。これは「いやな感じ」よりもっと深刻な間題をふくんでいると思います。というのは、「いやな感じ」というだけでは、すぐなぐりかかったりすることになりそうもありませんが、「アタマにくる」「ムカツク」となると、ただちになぐりかかったり、刺したり、ということになりそうな感じがあるからです。

 「アタマにくる」とか「ムカツク」とかいっても、そのなかにはピンからキリまで「無限 の色合い」があるはずなのに、それが区別されることなしに、十把ひとからげに「アタマ にくる」とか「ムカツク」という最上級の表現のレッテルのついた大箱のなかに投げこまれてしまうわけです。四歳児でさえ「クーラークベツ」を知っているのに! それを知っていれば、「ダカラ ダイジョウブヨ」といえるわけだけれど、それを知らないとなると──その区別がないとなると、これはあぶない。たいしたことでなくとも、すぐに剌したりしてしまう、なんてことになってしまいかねないのです。

 ゆたかな感覚のためにゆたかなコトバを──それと同様、ゆたかな感情のためにゆたかなコトバを! これが、ここで私がいいたかったことです。
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカルチャーブックス p115-120)

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◎「コトバを育てるということは、……一方では、それは、すでにあるコトバを、すでにあるそのつかい方を与える……同時にそれは、その枠のなかに子どもたちを閉じこめるということであってはならない……反対に、従来の枠をふみ越えていくだけの力を与える」ということ。