学習通信070529
◎おくれた層は、過去の状態を代表……

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組合員をふやす活動

 組合員(加入者)をふやす活動をはじめる前に、きめておかなければならないことは、どの範囲まで組合員の対象にするかです。この場合なによりも大切なことは、なるべく多くの労働者(パートや、臨時工もふくめて)が、労働組合に入れるようにすることです。しかし、注意しなければならないのは労働組合法第二条で、次のような人が加入している労働組合は、労働組合ではないとされていることです。すなわち、「会社の役員」「雇入・解雇・昇進または異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者」「使用者の労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項に接し、そのためにその職務上の義務と責任とがその労働組合の組合員としての誠意と責任とに直接てい触する監督的地位にある労働者」「その他使用者の利益を代表するもの」など。

 次に、いよいよ組合員拡大の活動をはじめるのですが、誰からでもいいからつぎつぎと組合に入ってもらえばよいと、めくらめっぽうにやったのでは、なかなかうまくいかないし、会社にすぐにわかってしまいます。

 まず、会社の大きな地図──一つひとつの機械や机を書いたもの──をつくって、誰がどの機械、どの机で仕事をしているかが、ひと目でわかるように全労働者の名前を記入します。その時、管理職にはしるしをつけておきます。そして、すでに、誰が誰に加入の説得をしているかが、すぐにわかるようにします。

 同時に、この地図とは別に、会社のなかの人と人との関係を全部書き出します。誰と誰は夫婦だとか、兄弟だとか、野球部は誰と誰とか、誰と誰はボーリング仲間だとか、誰と誰は同じ中学で同じクラスだったとか、というようなことです。

 そして、職場ごとに、集団ごとに、誠実で仲間から信頼されており、口がかたくて会社側にうっかりしゃべってしまわないような仲間をえらびだして、その人たちから組合加入をすすめます。すなわち、その人たちが組合に入れば、その職場や集団の仲間に、その人をつうじて組合加入をすすめることが可能な人をさがし、組合に入ってもらうことからはじめます。

 この際大切なことは、人によって評価もさまざまですから、準備会で全員で慎重に討論することです。とくに、勤務年数が長く、仕事もでき、みんなに信頼されているが、社長に結婚の仲人をやってもらって、社長の家に時どき出入しており、しばしば「組合があるといいナー」と話をしている人などは、すごく評価がわかれることと思います。

 そして、誰と誰に組合加入をすすめるかをきめたら、次に、誰には誰が、いつ、どこで話をするかを、きめこまかく全員で相談してきめます。

 その結果を次の準備会で報告しあいます。組合に入ってもらうのに成功したら、その人に具体的に何をやってもらうかを相談してきめます。

 組合に加入してもらえなかった場合は、再度話をしにいくか、それとも保留にしておくかを相談してきめます。
(中森謹重・後藤耕三著「労働組合づくりの基礎知識」学習の友社 p48-51)

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仲間たちは一色では」ない

 さらに,みなさんの仲間を組織していくうえで重要な点ですが、仲間はまったく同じ水準なのではなくて、基本的には三つの層に分かれていることを知っていなければなりません。一つは先進的な層です。もう一つは、中間層と呼ばれる層です。もう一つは、おくれた層です。

 中間層は最も大きくて、先進層とおくれた層は小さい、そこで、大衆の三つの層というものを頭におきながら、先進的な部分に依拠、中間層を引きつけながら、おくれた層をも含めて進むこ、とを考えなくてはいけない訳です。先進的な部分というのは、物事のあしたの状態を示している訳です。中間層は現在の状態を代表している。おくれた層は、過去の状態を代表しています。だから、現実という瞬間を切ってみると過去、現在、未来が同居しているわけです。

大衆活動の分野でも同じことが言えます。したがって私たちの活動態度というのは、物事のあしたの状態をおしひろげようとして活動している訳ですが、この先進層を指導の根幹として、この根幹の力を借りて仲間をおしあげる、そしておくれた層も含めて前へ進めていぐということなんです。

 ところで,このような運動の発展の過程でたえず根幹の部分が補充されてくるという状態がいるわけです。そして、たえず根幹の部分が拡大していくことが重要なんです。
(有田光雄著「組織活動の根本問題と幹部活動家の役割」京都労働者学習協議会 p50-51)

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運動は「ひしがた」ですすむ
−先進・中間・後進の関係−

 大衆運動というのは、じつにさまざまな人たちが参加してはじめて、おもしろさもわいてくるし、運動のていをなす。それこそ千差万別の人たちがあつまってはじめて、運動に大衆的な性格が刻まれるのである。

 ところで私たちは、その大衆的な運動がどんなふうにすすむのを「理想」としているだろうか。なかには、その千差万別の人たちが、一枚の板を横にしたように横隊にならび、同じように考え、同じような足どりで前進するのがのぞましいと考えている人もいるのではないだろうか。これは、考えてみればはっきりするように「理想」ではなく、「幻想」にひとしいといいうる。

もし、運動はそうあるべきだと考え、隊列が横にきちんとならばないことにイライラし、おくれがちな人に「ムチ」でもあたえようとしたら、ますます隊列は乱れてしまうだろう。そういう失敗の経験もないわけではない。そこで「えい! 面倒だ。なん人でもよいからどんどん進め!」となってしまい、大衆運動が少衆運動に変わってしまいそうになるということもないわけではない。

 労働組合運動の経験のなかから「一人が百歩すすむより、百人が一歩すすもう」といった合いことばが生まれてきたのは、そうした経験に根ざしていたのだろう。ところで、この合いことばも、正確につかまえないで「百人があゆむまではだれもあゆみだすな」というようにあつかわれると、これまた「おくれた線」に人びとをひきとめ、「おくれた線」の横隊をつくることにもなりかねないのではないか。事実、そういう意味にねじ曲げて、この合いことばを先進的な活動家にたいする非難としてつかった労働組合のある幹部もいたという。

 どのようにもせよ千差万別の人びとが同じレベルに一列にならんでこそ、いや、ならばせてこそ、運動がすすんでいると見るのは、形而上学的なものの見かただ。それでは大衆的性格の運動が、うまくすすむわけはない。

 私たちは、労働組合をはじめ大衆運動は、「ひしがた」のかたちをとって進むのが理想であると見なければならない。それが千差万別の人たちの集まった大衆的運動の法則にかなったありかたなのだ。「ひしがた」の左側の先端に位置するのが、自覚した活動家であり、右側の後端に位置するのが、おくれた仲間たちであり、その中間に位置するのが、まさに中間的な仲間たちであるというように、それぞれが客観的に位置しているのが大衆的組織であり、大衆運動である。

 さてそこで、運動をすすめるには、どうしても仲間たちの、その運動のなかで位置しているところを正確につかまなければならない。

 いうまでもないことだが、私たちが活動をすすめるとき、けっして自分ひとりや少数の仲間だけの力ですすめてはならない。職場・地域の広はんな人びとをうごかし、その力でことにあたらなければ、なにごとも解決しようがないのだ。その人たちが、どんな思想感情の持ち主であっても、どんな認識の持ち主であっても、客観的に敵と対立している同じ階級の仲間、同じはたらく仲間であるならば、味方としていっそうしっかり団結すべきだ。

 その仲間たちをとらえるとき、どのような見かたが必要なのだろうか。まずなによりもその要求、気分、不満をよくつかむことであることはいうまでもない。だが、もっとふかく仲間たちをつかみ、その組織と運動のなかで位置するところをあきらかにするには、その仲間のもつ思想感情の側面と認識上の側面との二つをきっちり見ることが必要である。この二つの側面は、しばしば区別されず混同されがちだ。そのために仲間にたいする見かた、評価が、ぐらぐらすることになっている。

 思想感情とは、その仲間の生活環境(ひろくは階級的生活にふくまれる)のなかでつちかわれてきた、気分、感情、心理などの側面をさす。これには、おおきく分けて労働者的なもの、小ブルジョア的(このなかにも農民的なものと市民的、インテリ的なものが分けられる)なもの、ブルジョア的なものとに区別できる。

たとえば、労働者的な思想感情のいくつかの特徴をあげてみると、透きとおるような率直さ、かげりのない明るさ、仲間にたいする私心のない親切さ、素朴さ、集団的雰囲気をよろこび、約束にたいする誠実さをもつなどの風格をみることができる。

農民的なそれは、労働者的なものに共通している要素をもち、素朴さ、親切さ、苦労をいとわないなどの特徴をそなえているが、また、特有の狭さ、「近視眼」、かたさなどが見られるのである。その他のばあいのそれぞれの特徴は、おおよそ実生活のなかで判別しうるといえよう。

 また、認識上の側面というのは、社会的諸問題についての比較的まとまった、理性的なとらえかたとしてもっているものをさし、それは、ものごとについて科学的な、すすんだ認識をそなえているか、あるいは非科学的で、おくれた認識、すなわち支配階級によってあたえられた認識をもっているのかという間題である。

 この二つの側面は、かならずしも一致しているとはいえない。つまり、認識のうえでおくれた内容をおおくもってはいても、思想感情のうえでは、労働者的といえる仲間がいるし、またぎゃくに、認識のうえでは一定のすすんだものを表明してはいても、思想感情の面では、小ブルジョア的、ブルジョア的な要素を多くもっている仲間がいるといったようにである。一般的にいって、活動家が重視しなければならないのは、たとえ認識のうえでおくれていても思想感情のうえで労働者的なものをもっている仲間たちでなければならない。

なぜなら、思想感情のうえで階級的な要素をもつ労働者は、いまのところ認識があやまっておくれてはいても、かならず科学的な、すすんだ認識をただしく吸収する方向にすすみうるからである。

また、認識のうえですすんだ内容を一定の程度もっているが、思想感情のうえで労働者的な要素に弱い仲間は、ある程度まで積極的であっても途中で活動や成長がストップしたり、決定的なときに「まよい」におちいるといったような弱さをもちやすいことに注意をはらい、ねばりづよい援助が必要である。

 ところで、大衆的な運動の「ひしがた」のそれぞれの位置には、どのような役割と作用があたえられるのだろうか。それは、「たよる部分」「ひきつける部分」「ひっぱっていく部分」とでもいうことができよう。

 「たよる部分」とは、その大衆的な運動のなかの、先進的活動家の集団だ。それは、階級的な目的をもち、認識と思想感情のうえで労働者階級としての内容、風格をそなえており、積極的に行動する部分である。この部分こそが、大衆的組織と運動にとってかけがえのない宝であり、中核だ。もし、この部分がその大衆的な組織や運動の一般的水準より一歩すすんだ自覚、決意、行動力、戦闘性をそなえていなければ、その運動はけっして前進し発展することがないであろう。

 ところで、「たよる部分」は、どの程度の比率をもつことが必要なのだろうか。それは客観的な状況や大衆的成長そのもののなかで一様にみることはできないが、おおよそ一割程度の人数をもっているとき、それは量的にけっしてすくないとはいえない。活動家の量がたとえ少数であっても、それは「悲観」する材料たりえないのである。問題は、その先進部分が、つぎのような二つの条件をそなえているかどうかである。

一つは、ただしい目標とそれにむかってすすむ方法、形態を知っていることであり、二つには、それらの人びとが、他の二つの部分の仲間たちと気分、感情、生活習慣のうえでしっかり「とけあっている」ほどに結びついていることである。これらが、そなわっていさえすれば、たとえ少数であってもそれは先進部分としての役割を十分にはたしうるのである。

 私たちは、事実としても、こうした条件や風格をもった先進的な部分の活動家たちが、積極的に行動したたかうことによって、けっして孤立はせず、全体の仲間たちをひっぱっていく牽引車、機関車としての役割をりっばにはたしたというすぐれた経験をおおくもっている。少数の第一組合員が、第二組合員をまきこんだたたかいを成功させえた経験などが、そうである。

 「ひきつける力」の部分とは、量的にもっとも多数を占めているといえよう。この部分は、労働者的な思想感情をもってはいるが認識のうえでまだおくれている仲間、一定のすすんだ認識はもっているが思想感情のうえで非労働者的なものをもっているために積極的になれず、動揺している仲間などがふくまれる。これらの仲間たちが、運動やたたかいに加わるかどうかによって、その運動やたたかいに大衆的な性格がかたちづくられるかどうかがおおきく左右されるといえよう。団結というときの具体的な対象もまた、これらの人たちになる。したがって、どうしてもこの部分の仲間たちと手をつなぎ、共同して行動できるように心をくばり、運動やたたかいの形態にも、これらの部分の人たちが参加しやすいように十分な配慮をせねばならないのである。

 先進的部分の人たちは、つねにこの部分の仲間たちの考えや意見に注意をはらうことがたいせつである。なぜなら、この部分の仲間たちは、先進的な部分に対立する存在ではないし、先進的部分を「支援する」心情や認識にたちつつも、先進的部分のなかにありうる一面性や「すすみすぎ」について敏感に感じとったばあいは、一定の善意の批判をもっているからだ。またそれと同時に、この部分に注意をむけるとき、「おくれた部分=ひっぱっていく部分」にある、消極的な、批判的な、反対者的な要素の反映もとらえることができるからだ。

 率直にいって、この部分の人たちは、先進的な部分がはっきりとした展望と確信をもち、ぴったりした要求をかかげ、運動やたたかいに的確な形態をそなえているときには、先進的な部分にひきつけられるが、先進的な部分に魅力を感ぜず「たよるべき部分」がたよりにならないと感じたときには、「おくれた部分」にひきつけられるという傾向をもっているといえよう。

 大衆的な運動やたたかいの高揚の時期には、これらの層の積極的な参加がえられるが、困難なとき、後退の時期には、これらの部分が運動やたたかいから「退却」しはじめるのがめだつのである。こうして、これらの部分の仲間たちの動向は、大衆的な運動やたたかいにとって、ひとつのバロメーターとなると見てさしつかえないのである。

 さいごに「ひっぱっていく部分=おくれた部分」とは、現実にどのような大衆的組織のなかにも、一定の量をしめて存在する。この部分の特徴は、一般的にいって、ブルジヨア的な思想感情をつよくもち、まちがった認識をふかくもっており、損得勘定から出発してとらえ、なかなか大衆的な運動やたたかいに加わろうとせず、ときにはたたかいに反対し「水をかける」ような役割をはたすのである。また「堕落した労働者」もこの部分にはふくまれている。

 こうしたために、これらの層は、ともすれば支配者や資本のがわに利用されやすく、全体の運動にたいして「ブレーキ」の役割あるいはマイナスの役割をえんじやすい。

 だが、私たちは、この部分の仲間たちを「相手にせず」とか「敵のがわにおいやる」という態度、見かたをとってはならないのだ。なぜなら、この部分が、いちおう運動に批判や不満をもちつつもくっついているか、ないしは「中立的」であるとすると、中間的な「ひきつける部分」も運動に加わりやすい条件がっくりあげられるからである。

 私たちは、こうした三つの部分を固定的に、絶対的にとりあつかってはならない。情勢、時期、問題によって、これらの三つの部分のあいだには、さまざまな変化が生まれる。たいせつなことは、先進的部分のただしい機関車としての役割がはたされ、全体が切り離しがたく結びついて「ひしがた」ですすみ、その結果、その「ひしがた」が全体として、まえの地点よりはるかに進んだところに立つようになるような変化をおこすようにすることである。

 こうして私たちは、けっして大衆的運動やたたかいを、おおざっばにつかんですすめてはならないといえる。また、運動とたたかいをおしすすめるとき、たえず全体を前進させるようにせねばならないということを忘れてはならない。

 レーニンが「闘争がはじめて被搾取者を教育する。闘争がはじめてかれらにかれらの力の度合をしめし、かれらの視野をひろめ、かれらの能力をたかめ、かれらの知力を啓発し、かれらの意志をきたえる」(『一九〇五年の革命についての報告』)と述べているように、闘争することが忘れられて、これら三つの部分のそれぞれの変化、「ひしがた」全体の前進をのぞむことはできないのである。

 私たちは、先進的部分のたいせつな役割をはっきりと肯定し、それが全体をみちびいていくために欠けてはならない諸条件をあきらかにしていかなければならない。先進部分が「自分だけ切り離れてひとりあるきをする」こと、また反対に「おくれた部分のあとについていく」こと──これはなんとしてもさけなければならないのだ。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p152-162)

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◎「仲間たちは一色では」ない」と。