学習通信070531
◎おっとまかせに喜んで……
■━━━━━
5月31日
トカゲ
トカゲというと、だれでも思うのは、夏の日ざかりに庭石などの上でおなかをヒクヒクさせ、ちょっとでも人の気配がしようものなら、チョロチョロ。と茂みの間にかくれてしまう、あのすばしこい爬虫類のことであるが、東京都西多摩郡から埼玉県の入間(いるま)郡にかけての地域には、あれをカマキリという人がいる。それではそういう人たちはカマキリを──あの敵が近づくとカマをふりあげて応戦する、勇ましい昆虫をなんというかというと、こっちの方をトカゲというのだから奇抜である。
どうしてこんな珍現象がおきたかというと、その少し東の地域の方言を調べてみるとわかる。すなわち、もと北多摩郡の農村地帯ではトカゲをカガミッチョといい、カマキリをカマギッチョといって、大変まぎらわしい。恐らく、以前は西多摩や入間でも、こういう区別をしていたのだろう。ところが、カガミッチョはトカゲで、カマギッチョはカマキリだ、と覚えているうちにいつのまにかとりちがえてしまった、というのが原因のようだ。
(金田一春彦著「ことばの歳時記」新潮文庫 p180)
■━━━━━
〈思い浮かぶことあれこれ〉
わたしはね、生まれてすぐに里子に出されてたんです。一乗寺に。わたしの里の家のおばあさんが、わたしが生まれる一週間前に亡くなったんです。ちょうまんいうたら、今でゆうたら癌ですにやなあ。ほで、うちの母がおばあさんは亡くなったし、子どもは上に二人いて、姉には乳が出んのでおんばをしたんですけど、おんばに男がいて会いに来てうるさいんですて。もうおんばはこりたさかいに、今度は里子に出したいゆうで……。
その時分はね、一乗寺のあたりはお公家さんの子たちを預かったりしてはったんですでな。八人ほど子があるとこへわたしがまた預けられて、そこで三つまでいたんですね。今でこそ一乗寺も都会ですけどね。自分の家に帰るときに、乳もろてた人がついてきはったんですけどね。父や母になじまへんのどすで。カカア、トトウ、ゆうんですて。今は田舎でもおとうさん、おかあさんて言いますけどね。そのくせ目上の人の前では腰もかけんお行儀のええ子で、言葉はトトウ、カカアで、(笑い)ちょっともなじまへん、こづら憎い子やったらしいです。父がね、子どもはやっぱり預けるもんやないて言いましたな。母親の愛がやっぱりのりませんて。田舎で育ってひがんでますの。
わたしの生まれた時分はまだ京言葉もありましたなあ。そないねぎやたらたこやたら、そんなよごいこといわんと、おねもじ、おたもじ、おすしはおすもじゆうでましたなあ。帯でもその時分はおもじていわはりました。あたしら子どもの時分、娘はみな外へ出るときはお伴つきでしたなあ。うちの女中さんはね、わたしの娘時分にアッパッパがはやってね、夏はアッパッパやったんです。
一着五〇銭くらいでしたかね。私の父は臭いのがきらいですの。頭は日本髪がきらいでね。洋服買えゆうてもそら無理や、ゆうて自分で二着ずつ買うて渡しますの。ほしたら着るやろゆうて。その時分にしたら進んでますのどっせ。裏に工場があって、女の子らが糸くってるんですけど、父は字イかくのが好きで、心得が書いで貼ったアる。中にね、爪を切る、爪をのばしてはいけません、と書いてあってお医者さんにほめられた。なかなかね、女の子にはよろしおしたん。(笑い)
父は普請が好きで、今喫茶店になってる所に、みなが西陣御殿とゆうとくりやす家が建ってましたんですねん。敷地は三百坪ぐらいおしたやろか。隣買うたとこは潰してみな庭にしてしもてね。ちょっと大きい庭先で、松がね、枝がここだけしゅーっと出てね……。わたしとこは隣に入ったんですけどね、子どもが大きゅうなりまして、店のもんもおりますし、長男には所帯持たさんならんうちが普請するゆうたら、父はおっとまかせに喜んで、(笑い)朝早うから監督にきますの。父がくると朝寝してられしません。顔も洗わんとエプロンだけかけて、前から起きてるような顔して「お父さん早いですね」ゆうて。(笑い)
わたしはね、女中さん使うてます時分でもね、少々横着な子の方が好きでした。ちょっとゆうたらすぐ泣き出して、陰気な子はきらいでした。みんな永う続いて、今でもきてくれはります。おばあさんわずろうたらいったげる、ゆうてましたけど、そないわけにもいかず、ね。山口県からきてた子が、感心なことにね、母親が眼がみえんようになって、それを世話してね。ててごが残しとった地所に二間建てて、うちに来てる時分に他の坊のお稽古にやってまして、お花のすじがええのですわ。教授の看板もろてかえって、お弟子さん二五人ほどもってね、きばってはります。
病気はね、若い時分はよう病院入ってたんです。年いってからはね、おかげで丈夫なんですわ。所帯をもちまして、生活がすっかりかわりまして急性肋膜になりました。風邪ひいてまして、お産の後やったんです。「そうめいざい」ゆうのがありました。それを飲んだらええていわれて飲んでましたらね、風邪を追いこんだんでっしやろね。長男の次、女の子産んだときでした。お便所いって、ふっと気がついたら庭でこけてますの。今やったらおおごとですな。縁先おりて、廊下みたいなとこいきますなあ、そこのお便所ですの。ろうそく灯していかんならん、昔のことで。ふっと気がついたら、ろうそくがこけてんの。
その時はね、産婆さんの措置が悪うて赤ん坊のへその緒から血が出てましたん。それで看護婦さんにきてもろてましたん。どうしはったんです。今こけてまして。そらいきませんね、おしっことったげましょてゆうたはったのに、あくる朝またいったんですね。ほたらもうそれっきり全然わからへんのです、こけてしもて。
眼ェあいたら大騒ぎですね。わたしのお医者さんは内科へ入れたらええ、もう一人のお医者さんは、お産したんやから産科へ入れたらええ、いわれて、結局のところ大学病院の産科へ入ったんです。それがね、カゴでいったんですね。自動車あらへんさかい。大正のはじめでした。御所ぬけてね。熱が高うてね、はじめに眼ェあいたら御所の中で、次に眼ェあけたら抱いてもろて寝台へのせてもろてるときでした。
そのときの赤ん坊は、わたしの乳が飲ませへんさかいに外のおんばに頼んでたんですけど、腸炎起こして死んだんです。それわたし知りませんね。退院したら里へ帰されて、ここの方がゆっくり養生できるちゅうて。かくすために。大分ようなってから知らされました……。そのあと垂水へ養生にいったんです。漁師の離れを借リて、一〇銭も出したら鰯でもぎょうさんくれましたで。おかあさんと長男とわたしと三人、しばらくのんびりと暮らしました。
津やさんの話は、聞いて飽くことがなかった。きわめて具体的で、いきいきした話しぶり。とうてい彼女の戸籍上の年齢を感じさせないたのしい話には、京女としての充実感が溢れていた。男性のような、表立った派手派手しい目にあざやかな仕事ではなかろう。しかし、何と確実で、生活感に溢れた世界が彼女のロから展開してゆくことであろうか。
ことばとしてみるとき、私は意外に共通語的な要素が入っていることに気がついた。こしらえられた観光用のべたべたした京都弁とは大分違うと言わねばならない。
すっきりとして、しかも要所要所に京ことばが入る風情は、案外織屋を支える西陣の女の機能的なことばという気がするではないか。誇り高き京都の人間も、明治以後は東京文化と折れあって暮らしてゆかねばならなかったであろうことが、否応なしに共通語の侵略を許したと言ってもよいであろう。とにかく、こういう形で、東と西のことばは手をつないだのである。
(寿岳章子著「暮らしの京ことば」朝日選書 p59-63)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「ところが、カガミッチョはトカゲで、カマギッチョはカマキリだ、と覚えているうちにいつのまにかとりちがえてしまった」と。