学習通信070601
◎誰が着るか食べるかは……

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人間の結びつきについて
 ──なお、本当の発見とはどんなものか──

 コペル君。
 君の発見を、世界中の誰よりも先に、僕に打明けてくれて、どうもありがとう。早速返事をあげたいけれど、あした君のうちに行くことになっているから、そのとき会って話すことにしよう。だがその前に、あの手紙を読んで考えたことを、僕は、このノートに書きつけておくことにする。そうすれば、いつか君がこのノートを読むとき、君は、もう一度、今度の発見を思い出し、僕の言葉を考えて見るだろうから。

 僕はあの手紙を読んで、お世辞でなく、本当に感心した。自分であれだけ考えていったのは、たしかに偉いことだと思った。僕なんか、君ぐらいの年には、あんなことは思っても見なかった。君が発見したようなことを、はっきりと考えるようになったのは、僕が高等学校にはいってからで、それも本を読んで教えられたからだった。

 しかし、あれを読んで、君に考えてもらいたいと思ったことが、いろいろある。それを一つ二つ、コペル先生に申しあげておこう。

 君は、「人間分子の関係、網目の法則」という名前より、もっといい名があったら言ってくれ、と手紙に書いたね。僕はいい名前を一つ知っている。それは、僕が考え出したのではなくて、いま、経済学や社会学で使っている名前なんだ。実は、コペル君、君が気がついた「人間分子の関係」というのは、学者たちが「生産関係」と呼んでいるものなんだよ。──人間は生きてゆくのに、いろいろなものが必要だ。

そのために、自然界にあるいろいろな材料を使って、いろいろなものを作り出さなければならない。自然界にあるものを取って来て、そのまま着たり食べたりするにしても、やっぱり、狩をしたり、漁をしたり、山を掘ったり、何かしら働かなければならない。ごくごく未開の時代から、人間はお互いに協同して働いたり、分業で手分けをして働いたり、絶えずこの働きをつづけて来た。こればかりは、よすわけにいかないからね。ところで、人間同志のこういう関係を、学者は生産関係と呼んでいるんだ。

 最初、人間は地球の上の方々に、ごく少数のかたまりを作って生きていたから、こういう協同や分業も、その狭い範囲の中だけで行われていた。その時代には、自分たちの食べたり着たりする物が出来あがるのに、どういう人が骨を折ってくれたか、すっかり見通しだ。恐らく、みんなが顔見知りの間柄だったろうし、作る品物だって簡単なものばかりだったろうし、第一、狩をしたり漁をしたりするときには、みんな総がかりでやったに違いないから、自分の食べる物や着る物が、どういう人のおかげで出来たのかなどということは、考えて見ないでもわかっていただろうと思う。

 ところが、そのうちに、そういう小さな集り同志の間に、品物の交換が行われたり、縁組がはじまったりして、だんだん人問の共同生活が広くなって来た。人間の集りも大きなものになって来て、とうとう国というものを作るようになった。

もうこの頃になると、協同や分業もだいぶ大規模となり、その関係が複雑になって、自分たちの食べる物や着る物を見たって、いったい誰と誰とがこのために働いたんだか、一々知るわけにはいかない。作る方だって、自分の作ったものを、誰が食べたり着たりするんだか、見当はつかない。ただ、働いていろいろなものを作り出し、その代り、自分や自分の家族に必要なものをもらうとか、さもなければ、そういう必要品を買うための金をもらうとか、それが目あてで作り出すんだから、誰が着るか食べるかは、その人たちには問題じゃあない。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p88-91)

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 社会内部の分業、およびこれに照応する特殊な職業領域への個人の拘束は、マニュファクチュア内部の分業と同じく、相対立する出発点から発展する。

一家族の内部で、さらに発展すると一部族の内部で、自然発生的な分業が、性や年齢の相違にもとづいて、すなわち純粋に生理学的な基礎の上で発生するが、この分業は、共同体の拡大、人口の増加、およびとくに異なる部族間の衝突や一部族による他部族の征服とともに、その材料を拡大する。

他方、前述したように、異なる諸家族・諸部族・諸共同体が接触する諸地点で、生産物交換が発生する。

というのは、文化の初期には、私的個人ではなく、家族、部族などが自立的に相対するからである。

異なる共同体は、それぞれの自然環境のなかに、異なる生産手段や異なる生活手段を見いだす。

それゆえ、これら共同体の生産様式、生活様式、および生産物は異なっている。

この自然発生的な相違こそが、諸共同体の接触のさいに、相互の生産物の交換を、それゆえこれら生産物の商品へのゆるやかな転化を、引き起こす。

交換は、諸生産部面の区別をつくり出すのではなく、異なる生産部面を関連させ、こうしてそれらを、一つの社会的総生産の多かれ少なかれ相互に依存し合う諸部門に転化させるのである。

この場合、社会的分業は、本来異なっていて互いに独立している諸生産部面間の交換によって成立する。

生理的分業が出発点となっているところでは、直接の結びつきでつくられている一全体の特殊な諸器官が、相互に分解し、分裂し──この分裂過程にたいして、他の共同体との商品交換が主要な衝撃を与える──、自立化して、異なる労働の連関が商品としての諸生産物の交換によって媒介されるまでになる。

一方の場合には、以前に自立していたものの非自立化であり、他方の場合には、以前には非自立的であったものの自立化である。
(マルクス「資本論」新日本新書B p611-612)

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 現代の経済、つまり資本主義経済ではモノを生産するのは企業である。そのモノは、中に自分の所で使ってしまうものも無いことはないが、大体みんな売るためのものである。つまり商品である。資本主義経済ではモノは企業によって商品として生産される。
(大槻久志著「やさしい日本経済の話」新日本出版社 p41)

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 しかし、労働力を働かせること、労働は、労働者自身の生命の働きであり、彼自身の生命のあらわれである。

そして、この生命の働きを、彼は必要な生活手段を自分に確保するために、第三者に売るのである。

だから、彼の生命の働きは、彼にとってはただ生存しうるための一つの手段にすぎない。生きるために、彼は働くのである。

彼は、労働を彼の生活のなかに数えいれることさえしない。労働はむしろ彼の生活の犠牲である。

それは、彼が第三者に売りわたした一つの商品である。

したがって、彼の活動の生産物もまた、彼の活動の目的ではない。

彼が自分自身のために生産するものは、彼が織る絹織物でもなく、彼が鉱山から掘りだす金でもなく、彼が建てる大邸宅でもない。彼が自分自身のために生産するものは、労賃である。
(マルクス著「賃労働と資本」新日本出版社 p35-36)

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◎「したがって、彼の活動の生産物もまた、彼の活動の目的ではない」と。