学習通信070604
◎原則的にはまったくそのとおりだ。しかしボクのところは特殊だよ
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ここがロドスだ、ここでとベ
──個別と一般──
「原則的にはまったくそのとおりだ。しかしボクのところは特殊だよ。君のところはいいな」「いや、ウチも特殊だよ」
こういった会話をよくきかないだろうか。ここで間題になっているのは、哲学的にとらえれば、個別と一般というカテゴリーの間題である。
「特殊」ということをいいたてるならば、どんな職場におけるどんな活動もみな特殊なのである。うちのポチと、となりのブチとはちがう。おむかいのシロはまたちがう。そして、現実に存在するのは、このように一つ一つちがい(特殊性)をもったポチ、プチ、シロ……といったような個別のものだけである。しかし、これらのポチ、ブチ、シロ……には共通しているある特徴がある。この共通性をとらえて、ポチもブチもシロもみな一般に犬だという。すなわち、個別のもののなかに一般的なものが存するのである。
「原則」とは、こうした一般性をとらえてなりたつものである。だから、個別の職場や活動の「特殊性」をいいたてて、そこに一般的なものがやどっていることを否定し、それを原則の適用範囲外だと考えることは、あたかもポチはブチやシロとはちがうから犬ではないというようなものである。こうした見かたに立つならば、地上どこにも犬などいないということになるだろう。同様に、原則なるものはなにかの書物のなかか、「指導者」のデスクの上くらいにしか存在しないということになるだろう。「あらゆる個別的なものは、(なんらかのしかたで)普遍的〔=一般的〕なものである。」(レーニン『哲学ノート』)。
逆からいうならば、犬はポチとかブチとかシロとかいう個別のものにおいてのほか、現実に存在することはできない。一般的な原則は、さまざまな特殊性をもった個別の職場、個別の活動をつらぬくものであり、だからこそ一般的な原則なのであって、そうした個別のものにおいてのほか、どこにも存在するものではないのである。
クダモノ屋にいって「おばさん、クダモノをおくれ」と君がいう。おばさんはいうだろう、
「なににしますか。イチゴですか、ナツミカンですか、それともサクランボにしましょうか。メロンもだいぶ安くなりましたよ。」そこで君が「いや、イチゴやナツミカンやサクランボやメロンじゃない。クダモノがほしいんだ」といったとする。おばさんはなんと考えるだろうか。きっと「まあ、この人は若いのに、アタマがおかしくなってるんだわ、かわいそうに」と考えるだろう。これがものの道理である。
「ウチは特殊」「ウチも特殊」、だから原則はあてはまらない、というのは、これとおなじ考えかたではなかろうか。もし、ほんとうにあてはまらないとすれば、それはもともと原則などではなかったのである。
もちろん、このようにいうことは、原則だけですべてがわりきれるということではない。「プチは犬だ」というだけでは、プチのすべてをとらえたことにはならない。わが家のポチけテリヤだから、抱きあげて子供のまえにさしだせばよろこんで頭をなでるだろうが、となりのブチはブルドックなのである。抱きあげるのもむつかしいが、なんとか無事抱きあげて子供のまえにさしだしたら、子供は火のついたように泣きだすかもしれない。
個別のものは一般性と特殊性の結合である。「あらゆる普遍的なもの〔=一般的なもの〕は、個別的なもの(の一部分、あるいは一側面、あるいは本質)である。あらゆる普遍的なものは、すべての個別的な事物をただ近似的に包括するだけである。あらゆる個別的なものは、完全には普遍的なもののうちにはいらない」(レーニン、前掲書)。原則さえつかんでいれば、どんな間題にたいしてもただそれだけで十分だなどと考えることができないことはあきらかだ。この間題については、別の項(「原則性と柔軟性」)でまたふれょう。
ところで、つぎのような人がいたとしたらどうだろう。たとえば、メロンこそがクダモノだ、と主張するような人である。クダモノ屋のおばさんは、また新手のおかしな人がきたと思うにちがいない。
ところが、そうしたおかしな人がいるのである。つぎの文章を読んでいただきたい。
「戦前には普遍というようなものについて、われわれが問題にするとすれば、日本人は残念ながら、普遍というものから大分はなれている──地理的にも極東≠ナすから──そこで英語を勉強し、ドイツ語を勉強した。とにかく、ヨーローパのことばを勉強して、普遍的なものに近づこうとした。ロシアにレーニンという偉人があらわれてからは、ロシア語も普遍に近づく道になった。ところが、戦後中華人民共和国が成立して、毛沢東という偉人がわれわれの前にはっきりあらわれてくるにつれて、こんどは、中国語を学ぶ、原語で中国語の本を読むということが普遍にいたる一つの道、あるいは唯一の道になりつつある。ところがそのことを中国研究者があまり意識していない。中国を昔ながらに特殊≠ネものとみている」(新島淳良「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」)。
これは、語学のたとえをかりて、中国革命の経験、とくに文化大革命の経験が中国の特殊なものではなく、まさに普遍そのものであるということを主張しているのである。かつてはナツミカンやサクランボをくうことがクダモノをあじわう道であったけれども、いまはメロンをくうことがクダモノをあじわう唯一の道だというのだ。メロンを昔ながらに、ナツミカンやサクランボと同列のクダモノの一種と見てはならない、メロンだけがクダモノそのものだ、というのだ。
かつての毛沢東はそんなふうにはいわなかった。かれは「数十年来、おおくの留学生にはこうした欠陥があった。かれらは欧米や日本から帰ってくると、外国のものをうけ売りすることしか知らなかった」(「われわれの学習を改革しよう」)と述べているが、これはとりもなおさず、欧米や日本を「普遍そのもの」とみる見かたのあやまりを批判しているのである。かれは「マルクス・レーニン主義の普遍的な真理を中国革命の具体的実践に結合する」(前掲書)ことの必要を力説した。この態度が中国革命の偉大な勝利をもたらしたのである。
「日本人は残念ながら、普遍というものから大分はなれている──地理的にも極東≠ナすから」とは、なにごとであろうか。いったいこの極東≠ニいうのは、どこを基準としてのいいかたなのか。また、「普遍というものから大分はなれている」とはどういうことか。「ポチは犬というものから大分はなれている」「サクランボはクダモノというものから大分はなれている」──こうしたいいかたは、まともな理性からは「大分はなれている」ようだ。
イソップ物語のなかにつぎのような話がある。
あるホラ吹きが「オレはロドス島でものすごい跳躍をやってのけたよ。ちゃんと証人だっている」といって自慢した。すると、きいていた一人がいった、「それがほんとうの話なら、証人なんていらないから、ここをロドスだと思って、ひとつ、とんでみせてくれ」。
そのとおり! ここがロドスだ、ここでとべ。自分の持ち場をはなれて、どこにも普遍などはない。自分の持ち場でとべないものは、たとえロドス島でとんでみたところでとべはしない。
「あたしがアルジェリアにうまれていたら、すごい闘士になったろうと思うんだけどなあ」──渋谷の喫茶店で、となりのテーブルからそんな声がきこえてきたことがある。映画「アルジェの反乱」を見ての感想らしかった。そんな闘志≠ヘアルジェリアでもおことわりにちがいない。もちろん、日本でもおことわりだ。きくともなしにきいていると、どうやら彼女はご三派系≠フ闘志≠轤オかった。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p163-169)
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形式論理学は、こうした抽象的概念を種差によって普遍・特殊・個別の諸概念に分類し、それらの内包・外延関係を考察しましたが、それらがヘーゲルの目に、真の概念から特殊や個別のモメントを捨象した、たんなる抽象的普遍の概念とうつったのはとうぜんです。
ヘーゲルの概念は、そのうちに特殊や個別のモメントを内包する具体的普遍、胚の概念です。
普遍・特殊・個別は概念そのものの三つのモメントであって、たがいにきりはなせない不可分の関係にあります。それらはまったく新しい見地からみなおされます。
▼普遍
まず普遍とは、事物が特殊な諸規定、諸形態、諸段階をとりながら、そのなかでつねに自分自身であることをやめない、そのものの自己関係、自己同一性のことです。これには二つの意味があります。
一方では、社会や自然の事物にせよ、ものはすべて、同時的ないし構造的にみると、特殊な諸側面、諸要素からなりたっていますが、たんにそれらの雑多な集合にすぎないものではありません。そこにはかならず、それらを統一し、そのものをそのものたらしめているものがあります。それは、事物の全側面、全要素を統一し、それらを一つの全体にまとめているものです。これが普遍の一つの意味です。
また他方では、時間的ないし歴史的にみても、ものは特殊な諸形態、諸段階をとって運動し発展しますが、その諸形態、諸段階ごとに別のものになるわけでなく、一定の限界内ではどこまでも自己同一性をたもって存続します。胚から成長する植物はいくつもの特殊な諸形態、諸段階をとりますが、それはその植物が自分自身を胚から展開する過程にすぎません。その胚に相当するもの、これが普遍のいま一つの意味です。
普遍はこのように、前の意味では事物の有機性を、後の意味ではその発展性をさす概念です。どちらの意味でも、特殊な規定のなかにありながらたもたれる、事物の生きた自己同一性のことです。だからそれは、特殊性を捨象してえられるただの共通性、抽象的普遍ではありません。むしろ、特殊なものを統一し自分のうちにふくむもの、また特殊なものを自分のうちからうみだすもの、構造的にも歴史的にも事物の胚をなすものにほかなりません。これが生きた普遍、具体的普遍です。
▼特殊
つぎに特殊とは、たんに普遍的なものと区別される特殊的なものでなく、それ自身、普遍的なものであるような特殊的なもの、普遍のあらわれである特殊、あるいは特殊化された普遍のことです。これにも構造的な意味と歴史的な意味とがあります。
ものは構造的にみると、特殊な諸側面、諸要素の有機的統一ですが、それらを統一して一つのものたらしめているものを、さきには普遍といいました。だが、そうした普遍は、その諸側面、諸要素と別の他のなにものかではなく、それらのうちの一つ、それ自身、一つの特殊な側面、特殊な要素にすぎません。こうみてはじめて、事物の有機性は、そのもの自身からとらえられることになります。
機械論的ないし生気論的見地にたつ生命論、有機体論の限界は、事物の普遍をその特殊な諸側面、諸要素とは別に、それらをこえでた第三者、第一原因や神や魂にみるところにあります。特殊として現存する普遍、こうした特殊についての理解なしに、事物の有機性はつかめません。
また、ものは歴史的にみると、特殊な諸形態、諸段階をとって発展しますが、それがおなじものの自己発展であるのは、そこにそのものの自己同一性、普遍的なものがつらぬいているからです。特殊な諸形態、諸段階が、そのまま同一の普遍のあらわれだからです。また、それがただ自己同一をたもつだけでなく、同時に新しい形態、新しい段階への発展であるのは、普遍的なものが自分を特殊化するからにほかなりません。たとえば、一つの胚や細胞が増殖し分化して、諸器官の全体をうみだすようにです。
諸形態、諸段階をたがいに比較し相対的にみて、一方がより普遍的、他方がより特殊的、というのではありません。胚は潜在的に植物全体であり、植物全体は顕在化した胚です。自分を特殊化しながら自己同一をたもつ生きた普遍は、潜在的にも顕在的にも、その諸形態、諸段階の全体です。普遍は潜在的に特殊であり、それをふくんでいます。発展はその特殊の顕在化であり、同時に普遍の実現です。普遍として現存する特殊、こうした特殊についての理解なしにも、事物の発展性をつかむことはできません。
▼個別
おわりに個別とは、普遍と特殊の関係を統一的にみたものです。だが、もともと二つは不可分のものですから、普遍や特殊をみたさいに、すでに個別とはなにかがしめされているのです。
あらためていえば、有機的統一をたもって自己発展する主体としての事物、これが個別です。自分の存立や発展の条件を、自分いがいの他のものにでなく、自分自身のうちにもつものです。自分の存立の条件を自分からうみだすもの、自分の発展の条件を自分からつくりだすもの、これこそ、すべてのものの有機性と発展性の原理をなすものです。植物や動物のような生命体も社会や国家のような有機体も、すべてこうした主体、自己産出の機構をもっています。だから相対的にせよ、ものは一定の自立性をもって存在し、一定の発展をとげもするのです。
普遍についても特殊についても、いわばうらはらのかたちで両者の同一性があきらかにされるのは、主体としての事物を、たがいに不可分なその両面からみたからです。特殊をふくむ普遍、普遍をふくむ特殊、これが個別であり、事物の概念そのものです。
(鰺坂真・有尾善繁・鈴木茂編「ヘーゲル論理学入門」有斐閣新書 p120-124)
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しかし、なによりもだいじなことは、どんな愛国主義的排外主義の発生をも許さず、どの国民によってなされたものであろうと、プロレタリア運動の新しい一歩一歩を喜びをもって迎える真に国際的な精神を保つことである。
もしドイツの労働者がこのようにして前進してゆくなら、彼らは、必ずしも運動の先頭に立ってすすむとはかぎらないが──どれか一つの国の労働者が運動の先頭に立ってすすむことは、けっしてこの運動の利益にはならない──、しかし戦列に名誉ある持ち場を占めるであろうし、また、思いがけない重大な試練なり大事件なりが起こって、彼らがいっそう大きな勇気、いつそう大きな決意と実行力を必要とされるときには、戦備をととのえて持ち場に立つであろう。
ロンドン、一八七四年七月一日
フリードリヒ・エンゲルス
(エンゲルス著「『「ドイツ農民戦争」第2版および第3版』への序文」マルクス・エンゲルス8巻選集 第4巻 p200)
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◎「特殊をふくむ普遍、普遍をふくむ特殊、これが個別であり、事物の概念そのもの」と。