学習通信070605
◎やむを得ない社会現象のように……

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大気汚染・水俣解決迫る
公害総行動 国・企業に抗議、交渉

 「世界環境デー」(五日)をひかえた四日、全国から集まったぜんそくなどの公害被害者やその家族、支援者ら約二千人が、公害根絶と被害救済を訴える第三十二回全国公害被害者総行動を東京・霞が関の官庁街でとりくみました。日比谷公園霞門から環境省、農水省前をデモ行進して、「きれいな空気を。戦争は最大の環境破壊」などとアピール。関係各省庁と交渉し、東京大気汚染公害裁判で加害責任が問われている自動車メーカーのトヨタ東京本社前で、被害補償を求めて抗議行動をくりひろげました。

 この日午前、ノーモア・ミナマタ国賠訴訟と東京大気汚染公害裁判の原告らが、若林正俊環境相と面談して、すべての被害者救済と水俣病・大気汚染公害の早期全面解決を要請。全国公害患者の会連合会の松光子代表委員らが、ディーゼル排ガスなどの微小粒子(PM2・5)の環境基準制定、新たな医療費補償制度の創設、すべての水俣病患者の救済のための不知火海沿岸四十七万人の健康診断実施や認定基準の見直しなどを要望。「いまも多くの被害者が苦しんでいる。一日も早い救済を」と訴えました。

 約五万四千人分の公害根絶署名を受け取った若林環境相は「水俣病の拡大を防止できなかったことをおわびします」と語り、東京大気汚染公害裁判の早期解決を約束しました。

 同日夜、日比谷公会堂で全国の公害被害者が集まり、総決起集会を開き、水俣病公害被害者らが長年にわたる運動を交流しました。
(「赤旗」200765)

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レイチェル・カーソン生誕100年
プロフィール

 環境問題の古典「沈黙の春」の著者として知られるレイチェル・カーソンは、1907年5月27日、ペンシルヴァニア州のスプリングデールで生まれ、1964年4月14日、ワシントンの郊外シルヴァースプリングで死去しました。
 彼女は、幼いときから将来は作家になることを夢見ていましたが、大学時代に生物学などにふれるなかで進路をかえることになりました。

 そして、大学院の夏期研修でウッズホール海洋生物研究所であこがれの海と出会い、海に生きる生物たちと強い絆で結ばれ、海洋生物学者としての研究生活をはじめたのです。

 やがて、父親の死という事態のなかで、彼女は連邦漁業局の公務員に就職することになります。彼女は、海を題材にした放送番組の台本を書いたり、政府広報物に自然保護地域のレポートを書いたりするなかで、たまたま書いた「われらをめぐる海」という作品がベストセラーになり、海の作家としての才能がみとめられ、ベストセラー作家として文筆業に専念するにいたるのです。

 彼女は生涯のうちに、「潮風の下で」(1941)、「われらをめぐる海」(1951)、「海辺」(1955)、「沈黙の春」(1962)、「センス・オブ・ワンダー」(1965)という作品をのこしました。これらの作品はいずれも、彼女の、科学者としての目と作家としての豊かな感性をいかしたものでした。

 さて、よく知られるように、彼女は、1958年1月、一通の手紙をうけとったことから「沈黙の春」を書かざるをえないことになりました。当時、アメリカでは、化学物質がつぎつぎと開発され、実用化されていましたが、その危険性についてはあまりにも知られることなく、大量生産、大量使用されるという状況にありました。なかでもDDTなどの殺虫剤が空中散布されるなど乱暴な使用実態がありました。「沈黙の春」は、このような実態を告発するものでした。

 「沈黙の春」は、1962年に出版されるやただちにアメリカ社会をゆりうごかすことになりました。そして、危険な殺虫剤の使用に歯止めをかけることになるのです。

 この「沈黙の春」は、おおきくいって4つのことを柱に構成されています。

 第一は、「おそるべき力」ということです。
「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、二十世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」

 これは「沈黙の春」第二章の冒頭の一節ですが、ここでいわれる「おそるべき力」というのは、原子力と化学物質のことです。いずれも第二次世界大戦のなかで「化学戦のおとし子」として世に出たものですが、人間ははたしてこれらの「おそるべき力」をうまくコントロールしていけるのか、これからむかえる21世紀においても基本的な課題となっているといってよいでしょう。

 第二は、「生命の連鎖が毒の連鎖にかわる」ということです。
自然の生態系のなかには「食物連鎖」と「生物濃縮」という「自然の摂理」がはたらいています。彼女は、この「食物連鎖」と「生物濃縮」をへて環境汚染がジワリジワリとすすむことを警告しているのです。

 「静かに水をたたえる池に石を投げこんだときのように輪を描いてひろがってゆく毒の波――石を投げこんだ者はだれか。死の連鎖をひき起こした者はだれなのか。」
 彼女の問いかけは実に鋭いのです。

 第三に、化学物質の汚染の影響は人間にまで及ぶのです。「さいごは人間!」ということになるのです。

 「人間は自然界の動物と違う、といくら言い張ってみても、人間も自然の一部にすぎない。私たちの世界は、すみずみまで汚染している。人間だけ安全地帯へ逃げ込めるだろうか。」というわけです。

 とくに重大なことは、個体としての人間が汚染されるのにとどまらず、遺伝子の損傷により人類そのものの未来が危機に瀕することになりかねないのです。

 「いまでは人工的に遺伝そのものがゆがめられてしまう。まさに現代の脅威といっていい。<私たちの文明をおびやかす最後にして最大の危険>なのだ」というのです。

 そこで、第四に「べつの道」ということが問題になるのです。
 「私たちは、いまや分れ道にいる。――長いあいだ旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり破滅だ。もう一つの道は、あまり<人も行かない>が、この分れ道を行くときにこそ、私たちの住んでいるこの地球を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。」

 これは最終章の冒頭の一節です。彼女がここでいう「べつの道」というのは、直接的には殺虫剤の大量使用などによる化学的防除から天敵などの利用などによる生物学的防除、非化学的防除への転換ということをいっているのですが、よく考えてみると現代のわたしたちの文明全般についての問いかけでもあることに気がつくはずです。

 彼女は「沈黙の春」の著者として名前をのこしましたが、同時に「センス・オブ・ワンダー」の著者としても名前を残していくにちがいあいません。

 「センス・オブ・ワンダー」は、最初はある雑誌に掲載されたものですが、彼女の死後、あらためて出版されたものです。いわば彼女の最後のメッセージというべきものです。

 この作品は、姪の子どもであったロジャーをひきとり養育していくことになった彼女が、ロジャーとメインの森や海を舞台に自然体験をともにしたことをエッセー風にまとめたものです。

 「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。」
 「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはないでしょう。」
 このようにかたられるセンス・オブ・ワンダーという感性は、自然教育や環境教育にとどまらず、幼児教育をはじめさまざまな分野で注目され、時にふれ強調されるものとなっています。
(「レイチェル・カーソン日本協会」ホームページから)

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水俣病患者新たに70人
 民医連大阪の集団検診で判明

 大阪府や和歌山県などに水俣病被害者が新たに七十人いることが四日、全日本民主医療機関連合会(民医連)の集団検診で分かった。

 民医連によると、国より幅広く水俣病患者を認定した二〇〇四年の最高裁判決を考慮し、医師や大学教授らのグループが新たに作った基準で診断した。

 集団検診は潜在化した被害者救済のため、昨年九月から今年三月まで、大阪市と堺市で計三回実施。熊本県や鹿児島県などから移住してきた計九十五人が受診し、うち大阪府(五十一人)、和歌山県(九人)、兵庫県(四人)、愛知県(三人)、三重県(一人)、埼玉県(一人)ら計七十人が四肢末端の感覚障害などで水俣病と診断された。

 七十人のうち二十人は水俣病の認定を申請する意向で、残り五十人は医療費全額支給となる保健手帳の交付を申請するという。
(「日経新聞」20070604)

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たたかってきた人たちの話

 環境問題に比べて、公害は局地的・地域的であり、そこに住んでいる住民の生活や健康、地域の自然環境などに深刻な影響を及ぼします。したがって歴史的には近年問題になっている環境問題よりも、公害被害に対する住民や労働組合の運動がはじまりました。

1 公害と住民運動

@田中正造翁と谷中村民の足尾鉱毒とのたたかい

 公害問題に対する住民運動のさきがけとして、足尾鉱毒事件と谷中村民のたたかいを紹介します。現在の栃木県上都賀郡足尾町にあった足尾銅山の煙害によって周辺の山々の森林が破壊され洪水が多発しました。さらに製錬所から流れ出た高濃度の銅や鉛、カドミウムなどが流域の渡良瀬川を汚染し、漁業や農業に壊滅的な被害を与えた事件が「足尾鉱毒事件」です。

 1877年に古河財閥を興した古河市兵衛氏が足尾銅山を経営しはじめて、明治政府の殖産興業の国策に乗って急速に発展しました。 1878年ごろから渡良瀬川の魚が大量に死亡する事件が発生し、1880年には栃木県令(知事)が河川の漁業を禁止しました。さらに流域の田園地帯の稲が枯死するなど農作物に被害が広がりました。引き続いて、流域の農民や漁民を中心とする住民に病気や流産などが多発し、被害民は30万人ともいわれました。

 被害民は鉱毒の対策を求めて政府に請願書を提出、地元・佐野出身の田中正造・衆議院議員は被害の実態と対策を帝国議会で取り上げ、天皇にも直訴しました。しかし、古河財閥と癒着した政府はこれを原因不明とし、古河側は示談合で決着を図りました。うち続く鉱毒被害にたまりかねた農漁民は、田中翁を中心に政府に陳情をするために「押し出し」(集団で上京しての請願行動)を繰り返しましたが、警官隊や憲兵などに弾圧されました。運動の拠点であった谷中村は、鉱毒を沈殿貯水する遠水地として強制廃村させられ、歴史から抹殺されました。田中翁は没前年の1912年に「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と記しています。
 はだかとなった足尾の山々の植林は、現在も続けられています。

A住民運動を切り開いた三島・沼津石油コンビナート誘致反対闘争

 1963〜1964年の三島・沼津・清水2市1町の石油コンビナート誘致反対運動は、住民運動の新たな到達を開いたものとして評価されています。

 静岡県が計画した石油コンビナート誘致に対して、地元の住民は、すでに石油コンビナート被害で苦しんだ経験をもつ「四日市の二の舞はするな」をスローガンに反対運動を起こしました。住民たちは大勢でバスを連ねて四日市を訪ね、自分たちの目で実情を調査しました。住民運動の強さは、歩いた距離に比例するという貴重な教訓も引き出しました。

 煙害や自然環境に及ぼす影響などの科学的な学習には、地元の三島や沼津の高等学校の教員が立ち上がりました。学習会・講演会は500回から1000回にもおよび、4万人以上の市民が参加したといわれています。1964年9月、有権者の3分の1に相当する2万5000人が参加した総決起集会で反対決議を採択し、三島・沼津の両市長も反対声明を発表するにおよんで、コンビナート誘致は中止されました。

 住民の保健衛生や自然景観の保全など、住民生活への配慮を欠いた従来の工業開発一辺倒の考え方に対して、当時の社会が変化しつつあったことも運動の後押しとなりました。

 この三島・沼津の運動は、住民が初めて行政を動かして開発計画を中止させ、住民運動勝利のさきがけとなった教訓的な運動といわれています。

2 労働組合と公害とのかかわり

 日本の四大公害裁判と呼ばれる「新潟水俣病」(昭和電工鹿瀬工場から排出されたメチル水銀による新潟県・阿賀野川流域住民の有機水銀中毒:1967年)、「四日市喘息」(三重県四日市市の石油コンビナート排煙による喘息:1967年)「イタイイタイ病」(三井金属鉱業神岡鉱山から排出されたカドミウムによる富山県神通川流域住民の骨代謝障害:1968年)、「水俣病」(チッソ水俣工場から排出されたメチル水銀排出による熊本県水俣湾・不知大海漁民や住民の有機水銀中毒:1969年)訴訟事件は、労働組合とのかかわりを見るうえでも重要な教訓を残しました。ここでは、熊本・水俣病闘争と四日市公害訴訟について取り上げます。

@熊本水俣病での企業内組合の限界と地域の労働組合の役割

 水俣病の原因はメチル水銀です。熊本県水俣市の日本窒素肥料株式会社(戦後、新日本窒素となり、現在はチッソ)水俣工場が1932年からアセトアルデヒドや塩化ビニールの生産に用いる触媒の水銀を、これらの生産が中止される1968年まで、無処理のまま、450トンともいわれるほど大量に、水俣湾や不知大海に放出し続けました。メチル水銀に汚染された魚介類を食べた漁民や家族、住民には有機水銀中毒が発生しました。

 水俣市は、チッソ水俣工場の企業城下町でした。そのような特殊な事情のもとで、被害の救済と補償を求めた漁民、患者や支後者は、チッソの企業だけでなく、チッソの労働組合、関連企業や出入り業者、利害関係をもつ市民、行政当局などとの対立を余儀なくされました。汚染源であるチッソの労働組合が、会社と一体となって、水俣工場や新たな移転先の千葉県・五井工場で被害漁民や患者・支後者と敵対して排除や弾圧にまわりました。一方、会社派でなかった企業内の労働組合や、地元の労働組合である熊本や鹿児島などの地区労、市町村の職員で構成される労働組合の自治労、教職員組合や、不当な差別や解雇などとたたかう争議団や東京を中心とする全国各地の多くの労働組合が、物心両面で患者や被害住民の運動を支援し、解決に大きな力となりました。

 水俣病患者は、発生以来50年以上たった今も被害に苦しんでいます。2004年10月、最高裁判所は、未認定患者の救済を求めた「水俣病関西訴訟」上告審判決で、現行の国の認定基準よりも緩やかな判定基準を示し、国と熊本県に損害賠償を命じました。しかし、新たな認定基準や財政負担をめぐって、解決はまだ先延ばしになっています。

A四日市公害闘争と自治体・教職員労働者のたたかい

 1959年、三重県四日市市に当時わが国最大の石油コンビナートが本格的に稼動し、昭和四日市石油、三菱消化、三菱モンサント化成(現・三菱化学)、三菱化成、中部電力、石原産業などが操業しました。コンビナートの操業に伴って、漁民は伊勢湾沿岸の漁場汚染による異臭魚被害で打撃を受け、住民は排煙によるさまざまな異臭に悩まされました。燃料として用いられた硫黄分の高い石油から排出される亜硫酸ガスによって、子どもや老人を中心に喘息患者が多発し、「四日市喘息」と呼ばれました。

 被害住民は、自治会や住民・患者でつくる対策協議会などをとおして市に対策を求めましたが、被害は増え続け、自殺者を出すまでに至りました。公害反対運動には四日市地域の自治労、教職員組合や石油コンビナート企業労働組合が主力の三重県化学労働組合協議会(三化協)が加盟する三泗地区労が「公害反対センター」の役割を果たしていました。

 1967年、被害の補償と対策を求めて患者が裁判にふみきりました。公害対策協議会の訴訟方針に対して、三化協が中立・不支持方針をとるようになり、1968年の定期大会で運動方針を転換し、事実上公害反対運動から離れてしまいました。この影響で、公害反対運動は一時困難に直面しましたが、地元の自治体の労働組合である四日市市職労や三重県教職員組合が中心となって住民運動をたてなおしました。

 1972年、津・地方裁判所四日市支部の「人の生命・身体に危険のあることを知り得る汚染物質の排出については、企業は、経済性を度外視して、世界最高の技術知識を動員して防止措置を講ずべきである」という判決(米本裁判長が下したもので「米本判決」といわれています)をきっかけに、三重県は「公害事前審査会条例」を制定し、環境アセスメントという概念のさきがけとなりました。

 熊本水俣病や四日市公害問題のいずれの場合にも、汚染源企業の労働組合が、「企業が一番大事」という方針から抜け出せませんでした。そして、企業の意向をうけて公害隠しに加担したり、住民や患者、支援者などを排除、弾圧したり、あるいは反対運動から離脱して運動を後退させるなど、企業内労働組合運動の限界をさらけだしたのです。一方で、社会的弱者を守り、権利を擁護するという労働組合の本来のあり方を守って、企業から独立してたたかう少数派の企業内労働組合や争議団、住民や子どもの安全、いのちと健康、安心して住む権利を求めてたたかった自治体労働組合や教職員組合の役割は、会社と一体となった労働組合の姿勢とは対照的です。
(「地球環境の基礎知識」編集委員会編「地球環境の基礎知識 はじめてみる? 環境のこと」学習の友社 p38-42)

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■「公害」と「環境」という用語

 廃棄物や汚染物質の放出によって、直接人々の暮らしや健康に悪影響を引き起こす、あるいは自然や社会が影響を受け、それを通じて間接的に人々に悪影響を引き起こす、このことを広い意味で環境汚染といいます。この場合公害も同じ意味といえ、日本では当初は公害という用語が使われていました。

 戦後、水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病などのように悲惨な疾病をもたらす激甚な汚染が発生、放置されました。しかもそれを公害だとして被害住民や研究者たちが指摘しても、汚染を引き起こした企業らは原因を否定し責任を取ろうとせす、被害住民らが裁判に訴える事態が全国に広がりました。これが公害裁判と呼ばれて大きな社会問題となり、ようやく公害が社会的に認識され、企業ら汚染者の責任も裁判などを通じて断罪されました。 1967年には公害対策基本法が制定されて行政による公害対策も進められるようになりました。

 こうして激甚な汚染は次第に解消されていきましたが、一方で環境アセスメントなどの導入・普及とともに環境影響という用語が広がりはじめたこともあって、産業界や国は公害という用語を避け、環境問題とか環境汚染とかいう用語に置き換えはじめました。公害対策基本法も1993年に環境基本法に替えられました。

 企業らが公害でなく環境問題という用語を使いたがるのは、次のような事情が働いています。

 公害という用語には、日本の公害問題の経過からわかるように、環境汚染で被害が生じた時、それには汚染原因者がいて、その汚染者が被害への補償責任をとるとともに、汚染解消の義務がある、そうでなければ汚染は解決しないという意味が込められています。これに対して環境問題とか環境汚染という用語は、環境汚染は経済の発展とか都市化とか便利さの追求とか、なにか文明の発展に伴って生じる、やむを得ない社会現象のようにとらえ、責任や解決の課題を曖昧にするといった雰囲気があります。国民みんなの責任ということになってしまう危険があるのです。

 最近は公害という言葉が使われる機会は少なくなっていますが、公害の意味を消さないという意味で、現在でも公害・環境問題といった表現が使われる場合もあります。

 以上は環境汚染と被害者、被害の補償、汚染の解消など環境問題を、社会問題としてみる視点からの見方ですが、公害と環境汚染という用語にそれぞれ異なる意味をもたせるとらえ方もあります。たとえば、公害環境問題で長年活動してこられた林智氏は、「悪影響が健康被害など人権侵害を引き起こすほど深刻な環境汚染を公害という」と指摘しています。
(「地球環境の基礎知識」編集委員会編「地球環境の基礎知識 はじめてみる? 環境のこと」学習の友社 p55)

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◎「きれいな空気を。戦争は最大の環境破壊」と。