学習通信070606
◎人民支配のための道具としての性格……

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「消えた年金」問題――社保庁解体すれば国の責任も宙に浮く
 ――「消えた年金」問題をどんなふうに整理されていますか。

 志位 まず五千万件という宙に浮いた年金記録、つまり持ち主不明の年金記録があるわけです。そのことによって給付が減ってしまうんですね。国民が納めた保険料にふさわしい給付がやられないというのは国家による詐欺ですから、これは絶対に許されない大問題です。

 原因と責任ですが、一九九六年に基礎年金番号制度の設計がされ、九七年に実施された。この時期以降の歴代の厚生労働大臣が共同の責任を負っているというのが重大なところです。ですから、(自公と民主は)お互いに責任のなすり合い、泥仕合をやるのではなく、そろって国民に謝った上で、真剣な対策をおこなうことが大事です。

 ――社会保険庁民営化という話ですが。

 志位 これも大問題です。社保庁の改革はもちろん必要ですが、国の機構である社保庁を解体してしまったら、国の責任が宙に浮いてしまう。年金記録が宙に浮いた上に、解決する責任も宙に浮いてしまって、放り投げるということになります。「消えた年金」問題は解決するまで国できちんと責任を負うということをはっきりさせ、社保庁解体・民営化法案はいったん白紙に戻す、年金問題の解決のめどと方策がきちんと立つまでは白紙に戻すということが必要です。

 ――自民党は社保庁の労働者の怠慢が大きな原因といっています。

 志位 これは成り立ちません。「親方日の丸」体質といいますが、問題は「親方」にあります。厚生省(当時)の記録を読みますと、すでに一九八〇年代末の段階で、厚生年金、国民年金で持ち主不明の年金記録があるという記載が出ています。ですから、当時から厚生省は知っていた。しかし国民には明らかにしてこなかった。基礎年金番号に統合するということになったら、宙に浮いた年金が膨大な規模で生まれるとわかっていたはずです。ですから制度設計をやる段階で宙に浮いた年金をどう処理するのかということも組み入れるべきで、やらなかったのは設計者の責任です。もちろん執行者の責任は重い。トップである大臣に責任があり、それを現場労働者に押し付けるのは筋違いです。
──以下略

社会保険庁解体・「公務員改革」・イラク派兵延長
CS放送「各党はいま」 志位委員長が語る(要旨)から
(「赤旗」200766)

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日本の年金の成り立ち

 子どもが生まれる。成長して労働者になる。民間企業だったら、資本主義社会である以上、不況、倒産などで失業するときもある。病気やけが、そして障害者になったり、不幸にして死亡することだってある。年を取って定年で仕事をやめたり、働けなくなる、寝たきりになる。そして死亡する。

 人間の一生にはいろいろなことが起きます。私たちは、それを「社会的事故」と呼んでいます。個人の責任と負担でまかなう事故と区別しているわけです。あたりまえのことですが、たとえばお年寄りになるということは個人の責任ではないからです。

 「社会的事故」は、人間の生活にいろいろな波紋を投げかけます。とりわけストレートにあらわれるのが、結果としての「収入(賃金)」の喪失問題です。収入がゼロになる。または一部しか入らなくなる。つまり、そのままだと生活できなくなります。その不足する分を「社会的」負担で補って「生活」を保障するのが社会保障制度です。

 社会保障制度の大きな柱である年金制度も、当然、そうした発想にもとづいて創設されました。ただ、年金制度には多額なお金が必要とされます。したがって、どこの国でも、それは国の経済政策、国家予算に組みこまれる主要な財政政策の一環として運営されることになります。ですから国の政治、経済、財政政策のちがいによって、年金制度の成り立ちも微妙なちがいを示すことになります。

 そうした意味で、日本の年金制度は、諸外国にくらべて、きわめて特異なスタートを切りました。

 ──日本の年金制度の発足は、軍人と高級官僚の「恩給」がルーツです。明治維新と同時にスタートする軍国主義日本の主役は、侵略戦争遂行のための陸海軍人と、人民支配のための諸立法を司どる高級官僚でした。まず、この主役たちの「年金」が生まれます。すなわち一八七五(明治八)年に海軍将官の恩給令、翌七六(明治九)年には陸軍恩給令、そして八四(明治一七)年に官吏恩給令が生まれます。

 明治時代から大正時代にかけて、一般の官民労働者には、「年金」はなかったといってよいでしょう。官吏以下の雇員とよばれる公務員労働者は、この恩給をまねてつくられた共済組合にとり入れられていく経過をたどって、第二次世界大戦を迎えます。

 一方、民間企業に働く労働者に、日本の歴史のなかで、はじめて公的年金がつくられるのは一九三九(昭和一四)年です。それも海国日本、侵略戦争の主要な戦力と目された海上労働者(船員)の船員保険法というかたちで創設されます。ひきつづき、第二次世界大戦ぼっ発の一九四一年、軍事費調達を目的として労働者年金保険法(のちに厚生年金となる)が生まれます。

 農民や自営業者の年金は、この時点でまったく見捨てられ、敗戦後、それも敗戦から一五年もたった一九五九(昭和三四)年に、やっと国民年金が生まれるという経過になっています。

 こうしてみてきますと、日本の年金制度成立の歴史的特質は、まず第一に、戦争政策遂行のための軍事費調達、第二に、人民支配の歯車であった高級官僚の労務管理の道具としての役割、第三にお国のため、天皇のために尊い生命を黙って捨ててもらう兵隊のための見せ金という役割をはたさせたということができるでしょう。

 どこの先進資本主義国でも、年金制度のスタートには大なり小なり、そうした人民支配のための道具としての性格をもりこんでいたといえましょうが、日本ほど極端で、本性むきだしという制度発足は例をみません。

 こうした制度発足の特徴が、さまざまな企業間、官庁間、労働者と自営業者の年金間の「ちがい」を長期にわたって存続させ、国の責任と負担は少なく、労働者・国民に際限のない負担増を強要する構図を保持させている元凶といえましょう。
(年金者組合全国準備会「年金組合」学習の友社 p24-28)

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国民皆保険・皆年金をめぐる闘い

 病気になっても費用の心配なしに安心してまともな医療を受けることができ、また老後や障害、稼ぎ手死亡などによる所得の減少・喪失などの場合もまともな生活が送れるような年金を受けることができるようにとは、すべての勤労人民の要求である。一九五〇年代から六〇年代初頭にかけて「国民皆保険・皆年金」のスローガンのもとにつくられた国民健康保険法や国民年金法は、このような人々の要求や要求実現の運動とどうかかわったものであろうか。

二本建て健保

 一九五〇年の社会保障制度審議会勧告は医療保険を全国民に適用するとともに、医療保険を統合して被用者保険と一般国民の保険との二本建てとすることとしたが、ただちには政府のいれるところとならなかった。被用者保険である健康保険からは、五人未満零細事業の労働者が適用から排除され、戦前からの旧国民健康保険も一九五〇年当時、これを設立していたのは全市町村の約六割にすぎず、医療保険未適用者は全国民の三三・七%、約三〇〇〇万人とつたえられている。「皆医療保険」の早期実現は国民の強く要望するところとなっていた。

とくに一九五三、四年頃からの健康保険赤字を理由とする健康保険法改正案とそれへの反対闘争が、五五〜五七年と展開され、未適用者間題が強調されるなかで、五五年六月川崎秀二厚生大臣は、「健康保険・国民健康保険を基礎に国民医療保険制度の早急実現を図る、国民年金制度の確立を準備する」といった社会保障長期構想を明らかにした。

また五七年二月岸信介首相も就任施政方針演説で「国民皆保険の早期実現」を公約した。こうして五八年一二月、全市町村(東京の特別区を含む)を保険者とし、被用者保険の被保険者とその被扶養者を除く住民を被保険者とする、新しい国民健康保険法が成立し、六一年四月、いわゆる「国民皆医療保険」制度が達成された。

 しかし当初その内容は不十分であり、すでに五八年九月五日発足したばかりの中央社会保障推進協議会(中央社保協)は同月二八日の第一回総会で「国民健康保険の給付率を七割以上に引き上げ、療養給付は治るまで認めて下さい。この費用は被保険者の負担とせず、三割以上の国庫負担を実現して下さい」と決議した。

川崎市では岡田久医師などが医師会ぐるみで対市交渉をかさね、五八年一〇月「五割給付、三年間」の壁を破って「世帯主七割・家族五割、転帰(病気の経過の帰趨、すなわちなおるか、死亡するかなどをいう)まで」をかちとり、これを突破口に東京では中央社保協が総評・東京地評、区労協などと「よりよい国民健康保険」にする闘いを展開し、都原案を大幅に川崎市なみに修正させて五九年一二月から実施させることにした。

これに励まされて大阪でも五九年末から大規模な国保闘争が安保闘争とからめて進められ、六〇年二月「世帯主八割・家族五割」が実現され、「国保改善闘争」はさらに他の都市などへひろがった(社会保障運動史編集委員会編『社会保障運動全史』、労働旬報社、一九八二年による)。

国民年金闘争

 一方、政府は、国民皆(医療)保険と並んで国民の深刻な老後不安に乗じて、国民うけのする「国民皆保険」の名のもと膨大な保険料の徴収とその積立金で財政投融資の源資をふやし、高度成長政策に寄与することを意図して国民年金法案を立案した。同法案は、五九年二月国会に提出され、一部修正のうえ同年四月成立した。無拠出制の福祉年金の支給は、同年一一月から開始するとともに、六一年四月から拠出制年金について保険料の徴収を開始することとされた。

中央社保協はその第一回総会で「大衆収奪を意図する政府の国民年金案には反対します。私たちは民主的な資金運用と最低生活を維持しうる年金額をもった国民年金の完全実施を要求します」と決議した。

しかし本格的国民年金闘争は、六〇年四月中央社保協第二一回運営委員会で、@大幅な大衆収奪を狙う拠出制年金に反対する立場を堅持し、六一年四月の拠出制年金制度実施までにこの原則的立場に立った啓蒙宣伝を強め必要な改善措置をとらせる行動をおこす、A四月までに改善がいれられなければ保険料の不払い運動を起こし、実施を阻止するため抵抗するという基本方針にもとづいて進められた。

年金対象者調査の拒否、届出拒否、年金手帳の受領拒否、保険料不払いなどそれぞれの段階における闘いは安保闘争と結合しつつ、中央社保協が中心となって全国的規模の制度闘争として進められた。運動は、当初は全建総連と全日自労が主体となって展開されたがとりくみのすすむなかで多くの労働組合、民主団体、社・共両党のまきこみ、さらに進んだところでは地域住民、農民、商工業者、婦人層も参加する国民規模の制度闘争ともなり、各地方、地域で集会、研究会、説明会、座談会が多くもたれ、国民年金の収奪性、欺瞞性の暴露、戦争と社会保障が両立しないこと、年金は国と資本家の責任と負担で充実すべしとの「社会保障原則」のアピールが行なわれた。

 さらに、闘いの前進にともなって、死亡した時は一時金としてかえすことで保険料掛捨てを防ぐ、希望により六〇歳から減額年金を支給する、加入強制や保険料滞納者に対する差押えなどはしない、年金福祉事業団をつくり積立金を還元融資するなどの譲歩を政府から引き出すなどの成果をあげた。しかし、このように若干でも譲歩をかちとった最終段階でなお保険料不払いで闘い続けるか、国民年金制度に加人し、そのなかで改善闘争にとりくむのか、十分に意思統一がはかられず、それぞれの団体の事情、判断にまかすということになったが、その後の経過では、制度に加入し、そのなかで改善闘争にとりくむという方向に変わってきたとされる(国民年金闘争に関しては、前掲『社会保障運動全史』による)。(小川政亮)

(「事典 日本労働組合運動史」大月書店 p280-282)
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◎「大衆収奪を意図する政府の国民年金案には反対し……民主的な資金運用と最低生活を維持しうる年金額をもった国民年金の完全実施を要求」と。