学習通信070608
◎これほど詳細に自衛隊に監視されていた……

■━━━━━

憲兵と特高

 戦時中、はじめは「勝った、勝った」というニュースが続きましたが、「勝ちいくさがそれほど長くはつづかないだろう。日本が敗ける」──それが父の見とおしでした。

 そして、自分たちが特高警察から、次第に目をつけられるようになりそうだと用心していました。

 親せきの人に送る手紙に切手を貼るにも、まっすぐに貼るように、かたむけて貼ると、それがなにかの合図と受けとめられることにもなりかねない、と注意していました。

 母は造り酒屋の娘でした。食べ物のすくない時期でしたから、その親せきからもらう白糠や、酒かすなどは有難いものでした。

 私は、ある日、その酒かすを火鉢で焼いて食べていましたが、何枚もつづけて食べているうちに、酔いがまわってきて鼻うたをはじめましたが、ふとこれは面白いと思いついて大きな声で歌いました。

 それは、小学校の一年生か二年生の頃に歌わされたものです。
「鳴った 鳴った
ポーポ
サイレン サイレン
夜明けの鐘まで
天皇陛下
  およろこび」

 その頃は、だんだん米軍の本土空襲が多くなり、空襲を知らせるサイレンがしばしば鳴っていた時期ですから、「サイレンが鳴って天皇陛下およろこび」といえば、おだやかではありません。

 うたそのものは、天皇に男の子、皇太子が生まれてサイレンが鳴った。天皇陛下およろこび、というもので、すきな歌ではありませんが、私は皮肉をこめて、酔ったいきおいで大きな声を出したのでした。

 障子をへだてた外にいた父に、それがまともに聞こえたものですから、すぐにどなり返されました。部屋に入ってきてから、また「用心せんといけんぞ」、とあらためてしかられました。

 憲兵や特高警察の訪問がはじまったのは、それからまもない頃だったでしょう。

 父の「用心」は、決して思いすごしではありませんでした。
 憲兵伍長の名刺が一枚、特高刑事と特高係の名刺がそれぞれ二枚、司法刑事の名刺が一枚のこっていますので、こういう連中がいれかわりながら、すくなくとも六回は来ていたことになります。

泥棒の置き手紙

 兄肇から送られてきた原稿を、朝食のあと、父が母タヅのために声を出して読むことが幾度かありました。

 それは、「自叙伝」の原稿で、ひとくぎりまとまるごとに、その都度送られてきました。河上肇が亡くなったのは終戦の翌年、一九四六年(昭和二十一年)一月でしたから、その原稿が届けられていたのは、まだ戦争中のことだったでしょう。

 長い間、肇の身の上を心配してきたタヅにしてみれば、それは、ある程度心の安らぐときだったかもしれません。

 タヅは、息子の肇が亡くなってから、さらに二年五ヵ月生きのびており、その間に、かつては国賊のようにいわれてきた河上肇の見直しがおこなわれ、「自叙伝」などの著作がぼつぼつ発表されるのを、その目でたしかめることができました。

 そのときはじめて、長年の苦労がむくわれたことと思います。
 そのタヅが亡くなったのは一九四八年(昭和二十三年)六月二十九日でした。

 それから間もない頃のことだったと思います。
 朝起きて気がつくと、裏の部屋が見事に荒されていました。
 縁側や、敷居がびしょびしょにぬれているのを不思議に思いましたが、それは、手なれた泥棒の手口なのでした。
 竿に干してあった姉の下着をはずして、井戸端で水にひたし、それを敷居の上でしぼって敷居に水を流し、障子の紙をしめらせて音がしないように破って掛金をはずし、水の上をすべらすように障子をあけて入ったのでした。

 みんなで、片づけはじめたとき、小さな紙に鉛筆で書かれた置き手紙が見つかりました。
 「汗が出たからハンカチだけもらって行く 悪かった 御免なさい
 せっかく入ったけど 河上博士の生家だと気がついたから盗らない」

 河上肇は泥棒の味方だ──とまでは思わないにしても、すくなくとも、貧乏人の味方、庶民の味方と思っていたことは間違いないでしょう。

 働く者のための社会の実現を主張して河上肇は抑圧され攻撃されましたが、多くの人々から、自分たちの味方として好意を寄せられたのでした。

鎔古鋳今

 河上肇は、まがりくねった道を歩き、いろいろ多くの間違いも重ね、日本共産党の活動に加わって逮捕されたとき、「実践から身をひく」と声明して党から除名されました。

 一九四五年、戦争が終わり、日本共産党が活動しはじめた頃、河上肇はかなり衰弱していました。

 十月十五日、党中央委員会の黒木重徳さんが彼を訪問したときのことを、小林栄三さんは次のように書かれています。

 「河上肇は身をおこして正座し、『獄中独語』を発表するなど、終始弱い態度しか取り得ざりしものにて、諸君に対し面目なし=i晩年の生活記録抄より)と、かつての転向を恥とし、反省をこめて謙虚にのべました。これに対して黒木重徳は、党が河上肇を党員として認めることを伝え、河上肇は大いに感激し、その日の日記に『隠居の老人、しかも垂死の老竃人、もし何等かの役に立つべき仕事あらば本望と謂ふべきなり』と記しました」(「河上肇と日本共産党」)。

 その三ヵ月半あとの一月三十日、河上肇は栄養失調に肺炎を併発して京都で亡くなりました。

 戦後、党員として認められたとはいえ、かつての転向は、本人だけでなく私たちをもふくめてはずかしいことです。

 しかし、そういうことがありながらも、河上肇の影響は、私たちには計りしれない大きいものでした。

 私の家に「鎔古鋳今(ようこうちゅうこん)」という額がかかっています。それは、安政六年(一八五九年)、いまから百三十四年前に書かれたものだそうですが、「鎔古鋳今」とは、古いものを否定しながらも、それを現代に生かして新しいものを、創造的に創りあげるということでしょうか。社会変革の思想を示しているようです。

 しかし、父も私も、この「鎔古鋳今」にさからうかのように、性格はよく似てすこぶる保守的でした。それが科学的社会主義の立場にたつようになったのは、河上肇の大きな影響でした。

 それは、彼が多くの人々にささえられ、はげまされながらたどりついたものであり、私たちには、生涯にかかわる最高の贈り物となりました。

補稿 「特高」、七歳児の動静をさぐる

 小学校の一年と二年のとき、私の受持ちは戸川芳枝先生でした。
 度の強いめがねをかけ、私の母より二つ年下の先生で、したしみ深い、いつまでも生きていてほしい方でしたが、昨年(一九九七年)十二月十四日、九十九歳で亡くなりました。

 小学校の一、二年生といえば、私は七歳ぐらいですが、その頃、戸川先生のところに警察官がきて、私のことをいろいろ聞いていたことが、この度遺族の方からはじめてあきらかにされました。

 先生は、私の成績や性格などについて話されたそうで、「あれが特高警察だったのでしょうね。それにしても、小さい子どもに何がわかるというのでしょうか」と、遺族の方とはなしあわれたということです。

 五年前、「河上肇の周辺を語る」のなかで、私の家に「憲兵伍長の名刺が一枚、特高刑事と特高価の名刺がそれぞれ二枚、司法刑事の名刺が一枚のこっているので、こういう連中がいれかわりながら、すくなくとも六回は来ていたことになる」と書きましたが、実は、最近特高刑事の名刺がもう一枚出てきましたので、私の家に出入りした憲兵と特高などは、あわせて七人ということになります。

 憲兵や特高が私の家に現れるようになったのは一九四四年(昭和十九年)頃のことで、私は戦争の雲行きが悪くなったからだと思っていました。

 しかし、彼等はそれより八年前から私たちの身辺を調べていたのでした。

 「七歳の子ども」は先生のいわれることには素直で、「忠君愛国」が大事なことだと教えられて、私は犬の絵のついたノートの表紙に「忠君愛国」と書きとめました。

 「特高」はそういう素直な子供の動きをとおして、父や母の動向をつかもうとしていたのでした。

 その翌年、日中戦争がはじまった年、私は三年生でしたが、「壁に耳あり、間諜(スパイ)に注意せよ」というビラがくばられたとき、私は「私たちの家族に注意せよ」といわれているかのように感じました。

 父や母を「スパイ」と思ったことはありませんが、「時のながれを好ましく思っていないらしい」こと、そして祭日に門口に立てる「日の丸」にたいしても快く思っていないことなどを感じとっていたのです。

 父や母は周囲の人々ばかりでなく、私たち子どもにたいしても用心深く接して、自分たちの意思をあかしませんでしたが、私たちには「何かをかくしている」こと、世間とは違う考えをもっているらしいことが、それなりにわかっていたのです。
 「特高」は、それをつかもうとしていたのでした。

 犬の絵にならべて書きこんだ「忠君愛国」の四文宇をみたら「特高」も安心できたかもしれませんが、彼等がそれをみることはありませんでした。

 私たちの動静をさぐるために、特高の訪問をうけ、不愉快なおもいをされたのは戸川先生だけではなかったでしょう。

 彼等の動きは、私たちの想像をはるかにこえたもので、知ることが出来たのは水山の一角にすぎないようです。
 父や母の用心は、決して無駄ではありませんでした。
(河上荘吾著「河上肇と左京」かもがわ出版社 p23-31)

■━━━━━

社説
自衛隊 市民の自由を尊重せよ

 陸上自衛隊の情報保全隊が、イラクへの部隊派遣に反対する市民活動を監視していた。言論や思想信条の自由に対する圧力と受け取られても仕方ない。政治的中立の立場に徹すべきだ。

 自由な意見を表明する市民らの行動が、これほど詳細に自衛隊に監視されていたのかと驚かされる。

 高校生らが「イラク派兵おかしいよ」と題して二〇〇三年十一月、東京都新宿区で開催した集会も、同じころ愛知県の航空自衛隊小牧基地に派遣中止の申し入れ書を届けた九人の訪問も、大規模デモと並べて記録されていた。

 共産党が入手した「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」という文書には、街頭行動などの主催団体、実施日、場所、参加者数、発言内容といった情報が細かく整理されている。抗議行動の参加者に丸印をつけた記録写真や、運動の形態や規模などで分類した集計も添付されている。編集に関与した組織として情報保全隊などの名があり、自衛隊の内部文書だとされる。

 集会に参加した市民らが閲覧すれば無言の圧力を感じるだろう。「自衛隊が情報を収集して分析することは悪いことではない」という久間章生防衛相の説明は、表現の自由や人権に対する配慮が欠如している。

 文書によると、自衛隊は市民団体のほか報道機関や労働組合、政治家などを幅広く監視していた。自衛隊のイラク派遣に反対すればただちに“反自衛隊”と警戒して情報収集していたのなら、あまりに短絡的だ。その多くは、平和憲法下の自衛隊の役割を理解したうえで派遣に反対した行動、意見表明だったからだ。

 実力組織の自衛隊は政治的中立を厳守すべきであり、特定の人物や団体を色眼鏡で監視すれば立場や権限の逸脱につながる。思想の自由が保障されなかった時代に軍部が市民活動を抑圧した記憶も刺激される。

 かつて自衛隊への接近を企てたオウム真理教のような危険団体を警戒するというのなら、市民と社会の安全を守る任務として理解も得られよう。しかし、小さな集会まで監視する活動は、自衛隊が何から何を守ろうとしているのか、市民らに疑いを抱かせかねない。イージス艦の能力に関する秘密が流出していた事件などをみると、市民より隊内を先に監視すべきだとさえ思える。

 防衛省と自衛隊は、まず今回の文書の目的、根拠、運用の状況を明らかにして、人権の尊重を確認してもらいたい。過剰な監視活動については組織内の責任を検証し、再発防止策を講じねばならない。
(「東京新聞」20070608)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「彼等の動きは、私たちの想像をはるかにこえたもので、知ることが出来たのは水山の一角にすぎない……父や母の用心は、決して無駄ではありません」と。