学習通信070611
◎原則というもの……
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きびしさとやさしさを区別する
天候には晴あり雨ありです。静穏もあれば嵐もある。雨ふってこそ、晴の季節の実りはゆたかに、嵐あれて静穏の日の味わいは深くなります。
人間のからだにも健康あり病気ありです。
病気のときのしつけには、つぎのような点を考えてほしいものです。
病気のときには、病気であるという意識(自覚)をはっきりもたせたい。病気になったんだから、『まだ外であばれてはいけない』『おふろに入らないで、はやく寝なさい』、お腹をこわしているんだから『まだこういうものを食べてはいけない』……などのけじめをきちんとさせることです。こういう面でのあまやかしやルーズは絶対にいけません。
病気はまわりのものに、心配や迷惑をかけるし、自分もつまらない。病気になったら何はさておき、なおすことが自分のつとめだと気づくようにしむけます。
それでこそ子どもは医者の診察、投薬、注射、指示を受け入れるようになります。いろいろきゅうくつな条件にも従う意志を育てることができます。
また、このためには子どもにこまごまといってきかせるだけでなく、親自身がきびしくそういう(病気をなおすことが当面の課題との)姿勢を見せなければなりません。茶棚の隅に残っていた、古い薬を、いい加減な目見当で『これでものんでおいてみるか』と与え、よいっぱり(夜遅くまでおきている)は見のがす、不消化なものも泣かれれば与える、などは最低です。だらしのないやり方を身につけてやるようなものです。将来の知的な発達の基礎をほりくずしていることにもなります。
そんなことでは、その子が大きくなって、自分の身体に異常をおぼえたとき我流な考えで製薬会社の広告を追いかけたとしても、親には叱ったり、注意したりする資格があるでしょうか。
一方、病気は人の心を弱気にしやすいものです。それはおとなでも子どもでも同じことです。
ですからそういう面では、子どもにふだんよりやさしくしてやらなければなりません。
外出先からはつとめてはやく帰ってきてやるとか、お腹の病気でなければ、好きなお菓子を、読書のできる子だったら好きそうな本を、あるいはレコードをおみやげに買ってきてやったりします。『病気なんだから、お見舞い買ってきてあげるか、何がいい?』というようなことも、その子が成人して友人の病気にいたわりをもつ、ひとつの要素となるはずです。
要するに、病気のとき、きびしくする面とやさしくする面とは正しくしわけることです。そうすれば病気の経験は、その子の健康時にも、ほかの面にも、よいものを残すのです。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p126-127)
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巻尺と遠視・近視
──原則性と柔軟性の統一──
「あいつは原則居士だからなあ」ということばをきくことがある。これは、どういうことであろうか。
二とおりの場合があると思う。一つには、どんなばあいにも原則的な観点をゆるがせにしないということである。これはいうまでもなくたいせつなことだ。私たちはこのような意味での「原則居士」でなければならない。
しかし、もう一つのばあいというのは、なにごとにつけても一般的な原則をもちだすだけで、そのものごとの特殊な条件をすこしも分析しようとしないといったような態度である。こういった「原則居士」にはなってはならない。
原則というものをものさしにたとえてみよう。ものさしはものを側るためのものだ。やたらに伸びたりちぢんだりしてはつかいものにならない。それでは、目盛りがくるって側りようがないのである。この点でしっかりした金属のものさしは信頼できる。やたらに伸びたりちぢんだりしない。おしてもひいてもビクともしない。ただしい意味での原則性とは、このような剛直でくずれを知らぬ姿勢のことであろう。
しかし、ここでそのものさしで側られるものはどんなものかを考えてみよう。まっすぐなものばかりとはかぎるまい。くねくね曲がったものもあるだろう。そしてまさに、そのくねくねとした全体の距離を側ることが必要とされることがあるだろう。そんなとき、金属製のものさしではどうにもならない。お手あげである。これは、あるい意味での「原則居士」がもののやくにたたないということ、教条主義ではだめだということだ。
曲がったものを側るには、柔軟に曲がることのできるものさしでなければならない。
しかし、柔軟に曲がることができても、同時に目盛りが伸びたりちぢんだりするゴムテープのようなものであっては、ものさしとしてのやくをはたさない。くわえられた力しだいで目盛りがいくらでも「修正」されるから、これを修正主義という。目盛りは断じて伸びちぢみせず、しかも柔軟に屈曲自在な巻尺のようなものが必要なのである。これは、教条主義と修正主義のどちらにもおちいらぬ、原則性と柔軟性の統一ということだ。
巻尺には、もう一つの特徴がある。何十メートルもの距離を一度に測ることができる能力をもっていながら、へいぜいはクルクルと巻きおさめて、目だたぬふうにしてどこへでももってあるけるということである。金属のものさしはそうはいかない。たかだか一メートルのものさしだって、もってあるくにはたいへんである。しかし、世のなかには、一〇メートルほどもの金属製のものさしを自慢そうにもちあるき、電車のなかへまでもちこんで(まさか!)まわりの人に迷惑をかける人もいる。まるで愛剣「物千竿」を背負った佐々木小次郎のように。これを「原則ひけらかし屋」という。巻尺が私たちには必要だ。
原則的な人は遠くを見ることができる。原則というものは、ものごとの普遍的、必然的な傾向をとらえているものだからである。
しかし「千里眼=極端な遠視。日常生活にきわめて不便」とからかわれるような「原則居士」もいる。この種の原則居士のもっともてっていしたタイプは、つねに何十年さき、何百年さきのことしか口にしない。「社会主義は必ずや地球上のすみずみまでいきわたるであろう」といったたぐいのことである。そして、こうしたことにかんしては、おそろしくはっきりと、一〇〇パーセントの確信をもって断言する。──かれの千里眼はたしかに的中するであろう。そして、目さきのことに一喜一憂せず、どんな場合にもかわることなく、こうした見とおしをもてるのは、けっして小さなことではない。
しかし、それだけでは困るのである。何十年さき、何百年さきは見えても、きょうあすのことがさっばり見えないでは、予言者としてなら通用するかもしれぬが、活動家としてはやくにたたない。スモッグにも嵐にもさまたげられず、どんなに遠方をただしく見とおせていても、足もとでつまづいたのでは活動家としての任務ははたせない。活動家の任務はまさしく、その遠くの目標へむかって確実な道を一歩、二歩ときりひらいていくことであるからだ。
これとは反対に、近視眼の人もいる。目さきのことはよく見えるが、すこしはなれたものはぼんやりとしか見えない。ずっと遠方となると、まったく見えない。こうした人もまた、活動家としての任務をはたすことができないのである。
こういう人は、当面の問題でひどくつまづくことはすくない。石をさけ、茂みをさけ、流れを迂回してあゆんでいく。しかし、遠くが見えないために、いつしか方向を見失いがちである。右に迂回したならそのうち左に曲がればいい、南東にそれたらそのうち北西にむかえばいいと勘定しながらクネクネと曲がり曲がっていくうちに、わけがわからなくなってしまう。
これは、原則性と結びつかない「柔軟性」のおちこむ道である。
遠くを見、しかも近くを見ることができねばならない。足もとを見、しかも遠くを見ることができねばならない。
これは、片目が遠視、片目が近視であればよいということではない。そんな「統一」はありえない。そのような機械的な「統一」の結果はたぶん乱視であろう。
原則性とは一般性(普遍性)、必然性をしっかりととらえる能力、本質的なものをしっかりととらえる能力である。柔軟性とは特殊性、偶然性、現象的なものを的確にとらえ、これに対応してこれを消化していく能力である。私たちが生活の過程、活動の過程でぶつかる事物はすべて千差万別の個別的なものであるが、それはすべて、一般性と特殊性、必然性と偶然性、本質と現象との統一なのである。したがって原則性と柔軟性とを統一した態度なしには、私たちは、これらの個別的な事物をただしく処理していくことができないであろう。すなわち、ただしく活動をすすめることはできないであろう。
私たちはつねにこの統一を完全なものとしてもつことはできない。しかし、つねにそれをめざして努力することができるし、努力することが必要なのである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p170-175)
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◎「原則性と柔軟性とを統一した態度なしには、私たちは、これらの個別的な事物をただしく処理していくことができない」と。