学習通信070622
◎一体どこの誰がその判断を下したのか……

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摩文仁(まぶに)の丘

 六月は忙しい月になった。三日から六日まで、五十六年前の日米決戦の焦点だったミッドウェー諸島へ出かけた。ハワイのホノルルから北西へ約二千キロの距離、美しいバリアリーフ(堡礁=ほしょう)のなかにかつて米軍基地のあった島々はある。

 「ミッドウェー海戦? 聞いたことはあるけれど……。うーん」

 今年大学を出たジャーナリストの青年の率直な反応。その海戦で日米相互にどれだけの戦死者が出たのか。人数の確認だけでなく、階級、所属、出身、いちばん近い親族、既婚・未婚の別、なかでも死亡時の年齢をたずねて、長い困難な仕事をした人間のことはご存じない。

 自然保護区になり、鳥たちの楽園になっている島へ、日本から最初のグループ旅行に加わって行ってきた。唯一、人の住むサンド島の食堂で、アメリカから来た旅行者に戦死者の弟がいると知ってさっそく会う。戦死者の名前を聞き、持参した『記録・ミッドウェー海戦』中の名簿をたどって、海兵隊少尉二十一歳、未婚、戦闘機パイロットの資料をすぐに示すことができた。

 誰にも認められなくても、忘れられた死者たちのためにと思い、前記の資料編と『滄海よ(うみ)よ眠れ』(文巻文庫・三分冊)、『家族の森』の三部作を書いた。調査をはじめたのは十七年前のことだ。

 ミッドウェーから帰り、疲れのとれないまま沖縄へもどった。六月二十三日は日本軍の組織的抵抗がおわった日で、慰霊の日と呼ばれるこの日、沖縄は休日になる。

 その四、五日前から風邪気味で熱感がとれなくなった。人工弁の入った人間は感染に抵抗力が乏しく、肺炎がこわい。そして静かに寝ていることのできないいくつもの約束に縛られてもいた。

 慰霊の日を沖縄で迎えるのははじめて。早朝から南部の激戦地摩文仁の丘に建てられた「平和の礎」へ行った。ここへ来るたびに思うことを、この朝、とくに強く感じたのでそれを書く。

 敵と味方、日米双方の全戦死者(日本側は戦争にまきこまれて死んだ市民をふくめる)、さらには英国、中国、台湾、韓国、朝鮮民主主義人民共和国出身の戦闘員・非戦闘員をもふくむ記念の銘碑群。それはわたしの知る限りで、世界でただ一つのものである。

 中国人やかつて「日本人」として義務を強制され、死後には放置された死者。その遺族が、ここに名前を刻まれることを拒んでいる戦後の日本の歴史経過はある。沖縄だけが背負うべき問題ではない。

 県の内外を問わぬ沖縄戦の死者(沖縄県出身者は満州事変以後の戦死者)たちが、ふるさとの町村名別に、五十音順に並ぶ。ゆかりのある人であろうか。さまざまな年齢の人たちが、花や、水もしくは泡盛などの小瓶を手に、小さな子供づれで訪ねてきていた。

 この二十三万人を超すという名前に、生年月日と死亡年月日を刻んでほしかったとわたしは思う。

 戦争体験者にとって、この五十三年間は長すぎ、人生からの退場者はあいつぐ。そして戦争体験の風化が憂えられているけれど、「礎」をさらに生きつづける資料、生きた記念碑とする工夫を試みるべきではないだろうか。

 すべての人は想像力をもっている。目の前に刻まれた名前が、九十歳だったり、五歳あるいは三ヵ月弱という年齢であると気づくとき、また、自分と同じ十四歳であることを知るとき、想像力をかきたてられずにはいない。それが人間の心のはたらき方であるとわたしは考えている。名前はいのちあるもののようにたちあがってくる。それをきっかけに追体験という知的な作業が可能になり、それこそが、歴史体験の風化を許さない有効な方法の一つであると思っている。

 灼熱の太陽、蝉の声しきりの摩文仁の丘での感想である。(98・6・29)
(澤地久枝著「私のかかげる小さな旗」講談社文庫 p229-231)

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「集団自決」削れとは
[教科書検定]文科省要求に接して
 神山 征二郎

犠牲、痛みの大きさに
想像の至らない者たち

 仕事がら、ロケハン、撮影、キャンペーンなどで地方に出向く機会が多くあります。

 先日、十四日から三日間、沖縄の名護市に行きました。全国フィルム・コミッション連絡協議会の年に一度の総会に日本映画監督協会の理事として参加しました。

 梅雨明けの前でしたが、ぬけるような青空に天空を突き破らんばかりの積乱雲が立ち昇っていました。十三年前、結婚前の後藤久美子さんや沢口靖子さんたちの出演で作った「ひめゆりの塔」の日々があざやかに私の脳裏によみがえりました。

 「戦争の痛みを描こう」の一心で過ごした沖繩ロケの思い出は私の中に大事にしまってあるのです。

一体どこの
誰の判断か

 地方出張をした時は地方紙を読むようにしています。普段東京にいては目に出来ない事柄、それを扱った記事に出合えるからです。

 一泊した翌朝、沖縄タイムスに目を通しました。一面の大きな横見出しが目に留まったからです。

 「文科省が削除要求──『集団自決』修正」、──というものです。続くリード記事には、「来年度から使用される高校の歴史教科書から沖縄戦の『集団自決(強制集団死)』に関し日本軍の関与を示す記述が検定で削除された問題で、文部科学省が、出版社から申請された教科書を審査する『教科用図書検定調査審議会』に、『沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である』と、日本軍の関与を示す記述の削除を求めた意見を出していたことが分かった──」というものでした。

 私は目を疑いました。一体どこの誰がその判断を下したのかと。

軍の命令に
逆らえない

 同じ新聞のシリーズ記事に「命語い」の連載がありました。編集委員・謝花直美さんの記名入りのレポートです。全文の引用はできませんが、戦争末期の一九四四年九月に突如日本軍一千名ほどが小島渡嘉敷島に上陸してきた時の様子を役場職員だった吉川勇助(七八)さんの記憶から聞き取ったものです。

 「おい、村長を呼べ」と憲兵と上等兵がやってきたのが事の始まりで、矢つぎ早に軍命令が下されて、「軍の命令には逆らえないとたたきこまれた」までをレポートしているのです。抑制のある語り口で、短い文章の中で戦争を感じとることのできる記事でした。

 若い将校たちは酒に酔って「おれが死んだら三途の川で」と放吟していたといいます。兵土たちも助からない命、その日が明曰くるかも知れないことにおびえていたのでしょう。

 私は沖縄県の人々が語り継ぐように、沖縄戦の大悲劇の中に、とりわけ島々で軍命、もしくは、少なくとも滞在していた日本軍将兵の強制のもとに集団自決はあったと信じて疑いません。この痛みの大きさに想像の至らない者たちが国政の場や官省の中に在るとしたら悲しい。犠牲となった沖縄県民、戦没した日本軍将兵、それは私たちの父や兄や叔父のことですが、死して、もう一度痛苦と侮辱を受けることになるのです。
 (こうやま せいじろう・映画監督)
(「赤旗」20070622)

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◎「痛みの大きさに想像の至らない者たちが国政の場や官省の中に在るとしたら……犠牲となった沖縄県民、戦没した日本軍将兵、それは私たちの父や兄や叔父のこと……死して、もう一度痛苦と侮辱を受ける」と。