学習通信070626
◎魅力はむしろ……

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■書評
シェイクスピアの人間学
 小田島雄志著
  
評者 井上やすし 作家・劇作家

愉快な勉強、
中身はすこぶる高度

 さっぱりとしてきれいな小型の、ポケットにも楽に入るような本だが、内容は地球が丸ごと、すっぽり入るくらい広くて深い。

 まず、シェイクスピアという偉大な劇詩人の生涯がわかりやすくまとめられている上に、その全作品(三十七作)の粗筋と、それぞれの山場や名台詞が、そして英国史のさわりが、知らないうちに頭に入る。これは愉快な勉強だ。

 特筆すべきことがまだまだあって、たとえば小田島先生(わたしは尊敬を込めて「先生」と呼んでいる)の生い立ちも、明治以降の日本人がどのようにシェイクスピアを受け入れてきたかも詳しく書いてあって、このあたりは先生の自伝であり日本演劇史でもあって、とてもおもしろい。

 さらにいえば、読みやすいけれども中身はすこぶる高度で、例を引くなら、〈……全作品に通底する人生観、人間観は、人生には幸福もあれば不幸もある、人間には表もあれば裏もある≠ニいうことです。/その人間観のテーマを、シェイクスピア学者たちは「アピアランス(見せかけ)とリアリティ(真実)の問題」と呼びます。〉(五十六頁)

 あるいは、「ハムレット」の中には二つの時間が流れていて、一つはハムレットの時間、一方は他の登場人物たちの上に流れる時間で、〈……このような時間の流れ、「ダブルタイム」と言いますが、こういうことはしょっちゅうあります。〉(八十一頁)という指摘は、芝居を書いている私などにも大いに参考になる。

 シェイクスピアの全作品をたった一人で翻訳なさった先生の力がどの頁にもみなぎっていて、〈世界中の人がみんな「シェイクスピア好き」になったら、この世界から戦争が消えるでしょう。〉という祈りが、ひしひしと身に迫ってくる。

 これは値段が何十倍にもふえて戻ってくる本だ。とくに本紙の読者には、マルクスがシェイクスビアをどう考えていたかについて書かれたV章は必読である。
(「赤旗」20070617)

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はじめに

 「世界中の人がみんなシェイクスピア好き≠ノなったら、この世界から戦争が消えるでしよう」

 という言葉が、私の唇から、いや、もしかしたら腹の底から飛び出した瞬間、そうだ、いままではっきり言葉にしたことはなかったけれど、ずっとそう思い続けていたのだ、と気づきました。それまで無意識、ないし半意識の状態であった思いが、いきなり白日のもとに引っぱり出されたのです。それは、「シェイクスピアの人間学」という演題でしやべったあと、質疑応答の時間になり、ある質問に答えているときのことでした。

 数日後。電話が鳴りました。「……あのときの言葉を聞いて、先生の講演をふくらませて本にしたい、と思ったのです。私、新日本出版社の久野通広といいます」

 「人間学」という言葉は、「神学」に対する語です。シェイクスピアはルネサンスの人です。当時の人々は、中世の文化を支配していたキリスト教神学を飛び越えて、ギリシヤ・ローマを学ぶことによって人間性を育成しようとしました。そして「古典学」のことを「ヒューマニズム」と呼びました。いまの人道主義とは別の意味を帯びたその語を、私は「人間学」と訳したわけです。

 ただ、シェイクスピアを見る(読む)とき、ほんとうは「学」という字を使いたくありません。なにしろ彼は、例えば「恋の骨折り損」に登場するビローンに、

 学問はわれわれ人間に仕える従者にすぎない、

 と言わせており、私もまったく同感するのですから。しかし、シェイクスピアはキリスト教神学にとらわれない目で人間をどのように見たか、という意味を一語であらわすことは私にはできなかったので、本書のタイトルにも人間学を使わせていただきます。

 シェイクスピアってむずかしいんじやないの、と錯覚している人がいまだに時々いるようです。だがむずかしいなら、なぜ、いつの時代どこの国でも、彼の劇がたえず上演されて、老若男女あらゆる観客を楽しませているのでしょう?

 シェイクスピアは人間を描きました。人間が好きで、人間にこだわって、人間の生きている姿を描きました。人問とは、このように愛したり憎んだり、笑ったり泣いたり、悩んだり決断したりして、生きていくものなのだなあ、と感じさせてくれるのが彼の劇なのです。

 たしかに彼の作品には、悲劇喜劇を問わず、かならずと言っていいほど、裏切りや忘恩、中傷や欺瞞などにふれる台詞やエピソードが出てきます。きっと彼も、実人生において、傷ついたり恨んだりした経験が多かったのだろうなあ、と思われるほどです。だがそれでもなお、人間にはそれを上まわるぐらい愛すべき点、称賛したくなる点、自分も人間であることを誇らしく思われるような点があることを、シェイクスピアは見せてくれます。だからこそ、やはり傷ついたりつらい思いをしたりしているわれわれも、彼によって慰められたり励まされたりするのです。

 シェイクスピアがいちばん嫌ったのは、机上の空論、観念のための観念、血の通っていない哲学だったろう、と思います。だからロミオは、

 哲学なんかくそくらえだ! 哲学でジュリエットが作れますか、
 と絶叫するし、「から騒ぎ」に登場するレオナートは、
 どんなにありがたい哲学を説くものでも
 歯の痛みをじっと辛抱できはしなかったはずだ、

 と喝破するのです。つまり彼は、哲学よりも生身のジユリエットのほうが好きだし、観念よりも歯の痛みに悩むのです。

 人間に関心のない人、生きることに怠惰な人は、シェイクスピアをむずかしいと思うかもしれません。だが、喜びや悲しみを味わいながら生活している人ならだれでも、彼の劇に、台詞に、共感できるものを見つけることができるはずです。本書がそのきっかけになるとすれば、私にとってはこの上ないしあわせです。
(小田島雄志著「シェイクスピアの人間学」新日本出版社 p1-4)

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(1)芸術の場合によく知られていることであるが、芸術のしかるべき最盛期は、けっして社会の一般的発展と歩調が合っていないし、したがってまた、物質的基礎の発展、いわば社会の組織の骨組みの発展とも歩調が合わない。

たとえば近代人と比較して見たギリシア人、あるいはまたシェイクスピア。

芸術の一定の諸形式、たとえば叙事詩について、次のことさえ認められる。

すなわち、そのものとしての芸術制作が起きるようになるとすぐに、そうした形式は、世界史に時代を画するような、その典型的な姿では、けっして生産されえないということ、こうして芸術そのものの領域内部では、芸術のある一定の卓越した諸制作は、芸術的発展のある未発達な段階においてのみ可能であるということである。

もしもこのことが芸術そのものの領域内部で、さまざまな芸術分野の関係にあてはまることだとすれば、芸術の全領域が社会の一般的発展にたいしてもつ関係においてもそうだということは、いまではさほど奇異なことではない。

困難は、こうした諸矛盾の一般的把握にあるだけである。諸矛盾がそれぞれ個々に明らかにされるならば、それはすでに解明されていることになる。

 たとえば、現代にたいするギリシア芸術の、さらにはシェイクスピアの関係を取りあげてみよう。

ギリシア神話がギリシア芸術の武器庫であっただけでなくその土壌でもあったことは、周知である。

ギリシア人の想像力の基礎をなし、したがってまたギリシア〔芸術〕の基礎をなしていた自然観や社会関係観は、自動精紡機や鉄道や機関車や電信とともに可能であろうか?

 ウルカヌスはロバーツ商会と張り合って、ユピテルは避雷針と張り合って、ヘルメスはクレディ・モビリエと張り合って、生き残れる場所がどこにあるだろうか?

 すべての神話は、想像のなかで、また想像によって、自然諸力に打ちかち、これを支配し、これをかたどるのであって、したがってそれらは、自然諸力を実際に支配するようになるにつれて消え失せる。

ファーマはプリンティングハウス・スクウェアとならんではどうなるか?

 ギリシア芸術はギリシア神話を前提とする。すなわち、自然と社会的諸形態それ自身が、すでに民族的空想によって無意識に芸術的な仕方で加工されていることを前提とする。これがギリシア芸術の村料である。

どんな任意の神話でもよいというわけではない、すなわち自然(ここではそのなかにすべての対象的なもの、したがって社会も含まれる)を無意識のうちに芸術的に加工したものであれば、どんな任意のものでもよいのではない。

エジプト神話は、けっしてギリシア芸術の土壌や母胎になることはできなかった。

しかし、いずれにしても一つの神話ではあった。つまり、それは、あらゆる神話的な自然との関係、すなわち神話を生みだすようなあらゆる自然との関係を排除するような社会発展ではけっしてなかったし、したがって、芸術家には神話に頼らない想像力を期待するような社会発展ではなかったのである。

 これを別の面から言えば、火薬や弾丸を駆使するなどというアキレスが考えられるだろうか? あるいは、およそ『イーリアス』が、印刷機や、まして高速印刷機械とともに考えられるだろうか? 歌謡や物語やミューズの神は、印刷器具の出現とともにいやおうなく消え去り、したがって叙事詩の必須の諸条件は消滅するのではなかろうか?

 しかしながら困難は、ギリシアの芸術や叙事詩が、社会のある発展諸形態と結びついているということを理解する点にあるのではない。

困難は、それらがわれわれにいまなお芸術の楽しみを与え、またある点では規範として、および到達できない模範として、その意義をもっているということを理解する点にある。

 おとなは二度と子供になることはできず、できるとすれば子供じみた姿になるだけのことである。とはいえ子供の天真爛漫は、おとなを喜ばせはしないだろうか?

 そしておとなが、自分たち自身でこんどはより高次の段階において子供のもつ素直さを再生産することに努力してはならないだろうか?

 子供の性質には、いつの時代にもその時代独自の性格がその自然にあるがままの素直さでよみがえるのではないだろうか?

 なぜに、人類のもっとも美しく花開いた歴史上の幼年時代が、二度と帰らぬ一段階として、永遠の魅力を発揮してはならないだろうか?

 ぶしつけな子供もいれば、ませた子供もいる。古代諸民族の多くがこうした部類にはいる。そのうちでも正常な子供だったのがギリシア人であった。

われわれにとって彼らの芸術の魅力は、それが生まれ育った社会段階が未発達であったことと矛盾するものではない。

魅力は、むしろそのような社会段階の結果にあるのであって、魅力はむしろ、その芸術を生んだ、また唯一生みだすことのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびもどってくることはけっしてありえないということと、わかちがたく結びついている。
(マルクス著「『経済学批判』への序言・序説」新日本出版社 p80-83)
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◎〈世界中の人がみんな「シェイクスピア好き」になったら、この世界から戦争が消えるでしょう。〉と。