学習通信070628
◎彼女たちは軍用性奴隷……
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《潮流》
「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い……」。国連憲章の前文です
▼第二次大戦の連合国の代表が憲章に調印したのは、一九四五年の六月二十六日です。六十二年後の同じ六月二十六日、アメリカ下院の外交委員会は、旧日本軍の「従軍慰安婦」にかんする決議を採択
▼「従軍慰安婦」という「強制売春」は、「残酷さと規模の大きさで前例のない……二十世紀最大の人身売買事件になった」(決議)。国連憲章と重なります。「従軍慰安婦」は、戦争がもたらした「言語に絶する悲哀」でした
▼「日本政府が……あいまいさのないやり方で公式に認め、謝罪し、歴史上の責任を受け入れるべきである」と決議。対して安倍首相らは、「日米関係はゆるぎない」と平気を装います。しかし、決議からうかぶのは米議員の迷惑顔です
▼たとえば、決議はいいます。日米同盟はアジア太平洋地域の自由と人権など共同の利益と価値にもとづく=B日米同盟だって「人権」が建前だろう、と説いているかのようです。アメリカがアジアで利益を求める上で、同盟国日本が犯した人権侵害の過ちを認めないではやりにくい、と
▼国連憲章は、戦後の出発にあたり定めました。「人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認(する)」。軍国日本の栄光≠ノしがみつき、いまも元「慰安婦」たちを傷つける「靖国」派の人々。すっかり歴史の迷路にはまり込んでいます。
(「赤旗」20070628)
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朝鮮人慰安婦と
日本人囚人部隊が同居した島
なぜ軍用性奴隷なのか
1995年6月6日、ミュージックサロンでシンポジューム「慰安婦問題から見た戦後補償」があったので参加した。討論の最後に私もかねてからの持論を述べた。発言内容を当日の日記から引用しておこう。
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従軍慰安婦という言葉は使ってほしくない。なぜなら、彼女たちは戦時国際法であるハーグ陸戦法規に規定する従軍者でなく、したがってジュネーヴ条約で交戦者に準じる待遇を定めた条文の適用を認められないからだ。彼女たちは輸送船に乗せるにも軍需品として物品扱いされたし、人格なき奴隷としてしか待遇されなかった。人格なき犬や鳩にたいして従軍ではなく軍用という名称があたえられていたが〔軍馬も正式には軍用馬匹である〕、まさしくその意味からすれば彼女たちの扱いは軍用性奴隷にほかならなかった。
第二に、現在間題になっている強制連行慰安婦間題を、男女の性差別一般の問題や売春問題とおなじ次元の間題として議論するのは避けていただきたい。この間題はたんなる社会問題でも差別間題でもなく、国家の軍事制度の問題である。このことを認識していただきたい。
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古代以来、世界中の軍隊の遠征に売春婦の随行が付きものであった。しかし、なぜ、今次の大戦で、広範な地域の戦場にほとんどくまなく、強制連行慰安婦による「特殊慰安所」なる前代未聞の軍事施設が、日本軍にだけ開設されたのであろうか。
日本でも日露戦争の公的記録・軍医の報告・将兵の日記や手紙に、戦地に進出し、軍が直接にその営業と性病予防衛生を管理した売春業の話がしばしば出てくる。しかし、それは、戦地に進出してきた売春業を軍紀風紀と軍衛生の維持・占領地軍政の立場から管理したのであり、売春業の軍事施設化ではなかった。兵土たちの手紙や日記を見ると、戦地売春の値段が高すぎて一般兵士の多くが自分たちと無縁の存在と見ていたようである。
日本軍一〇〇万の大軍を戦地に送った日露戦争も大戦争であったが、ヨーロッパのすべての大国、のちにはアメリカも参戦し、すべての国が強制徴兵制を採用して大兵力を戦線に送り、対峙して互いに譲らない長期戦となったのが第一次大戦であった。戦線は膠着し、兵士たちは塹壕生活に倦み、無意味な死傷を忌避し、厭戦気分がひろがった。各国の前線部隊に反乱が起こったが、わけても一九一六年のフランス軍に起こった反乱は危うくフランス軍の全戦線の崩壊を招きかねなかった。驚くほど多数の兵士が軍法会議にかけられ、これら兵士にたいする大量処刑がおこなわれたが、事態は解決しなかった。
兵士たちの不満を解消することが先決とされた。こうして第一線勤務の兵士たちにたいする交代勤務による休暇制度が取り入れられた。この制度は、第二次大戦におけるアメリカ軍や朝鮮戦争・ヴェトナム戦争におけるアメリカ軍にも引き継がれた。朝鮮戦争のとき東京の立川基地局辺が米軍目当ての売春街と化し、ヴェトナム戦争中の沖縄の嘉手納基地正面のコザ(沖縄市)や第七艦隊の基地の横須賀が米軍の飲酒と売春の町となったのも、この交代勤務による戦場帰りの休暇兵士たちの気散じの場とされたからである。
一九八八年に私がシドニーに行ったとき、当時まだ夜の商店営業が許されていなかったオーストラリアの例外的な夜の繁華街、キングズクロス周辺のビジネス・ビル街の暗がりの角ごとに街娼が立っているのを、タクシーから見かけて驚いた。聞けば彼女たちはテン・ダラー・ガールと呼ばれているそうだが、その語源はヴェトナム戦争中の休暇米兵相手の売春婦がこの付近に集まり、その売春相場が一〇ドルであったことに発するという。オーストラリアはヴェトナム戦争参戦国であり、ヴェトナム反戦気運の強かった日本の沖縄にくらべて、シドニーは米兵がくつろぎやすい休暇地であったと思われる。
日本固有の軍事施設・慰安所
第一次大戦以降の、大兵力による徴兵制軍隊をもってする長期戦において、第一線兵士の交代勤務による休暇制度は不可欠の制度となった。しかし、この制度を導入しなかったのが日本の軍隊であった。転勤・出張・新戦法教育などで後方の都市や内地と往復する機会がある将校とちがい、第一線勤務が長期にわたり、休暇制度もない日本の兵士たちは、いつの日のことともわからぬ未来の召集解除を夢みるだけで、明日をも知らぬ生命の危険に脅やかされる日々を送らねばならなかったし、その精神的緊張からの束の間の解放の休暇さえ与えられなかった。兵士たちの気持は荒み、衝動的で凌辱的な強姦事件が多発した。
一九三五年次の徴兵検査で現役兵として徴集され三六年一月一〇日に入営した三七年次の二年兵たちは、その年の七月一〇日に除隊帰休する予定であった。七月七日に盧溝橋事件が起こると八日夜、杉山元陸軍大臣は京都以西の師団の除隊の延期を命じた。彼らはおそらく兵器や軍服などの返納手続も終えており、九日は送別行事で暮れ、一〇日の午前中には平服に着がえて兵営の門を出る予定を、二日前に突然取り消され、逆に戦場へと駆り出される羽目になった。京都以西の現役師団で、一二月の南京攻略に加わった部隊に、熊本の第六師団、京都の第一六師団と、四国の第一一師団の一部があった。
南京虐殺事件で最も悪名をとどろかせたのが京都の第一六師団であった。熊本の第六師団の評判もよくない。第一六師団は師団長が戦略単位の兵団を統率するだけの人格・器量の持主でなかったということも指摘されているが、日本が中国と戦争をはじめなければ、半年前に軍服を脱いで故郷で平和に家業に従事していたはずの兵士たちが、除隊直前に現役服務を延長されて戦地に送られ、多くの戦友たちの戦死に動揺して精神の平衡を失い、心が荒んで、強姦・虐殺・略奪の主人公となったのも故なしとしない。
多発する強姦事件に頭を痛めた陸軍首脳が考えついたのが、兵士たちに交代で休暇を与えて前線の兵力を減少させ戦力を低下させることを避けるため、軍が組織的に売春婦を戦場に送り込んで前線兵士たちの欲求不満を解消するという、戦力的なロスも小さく、より安上りな方策だった。こうして、世界に独特の軍事施設としての「特殊慰安所」が軍によって計画され、開設された。軍事施設ともなれば権力による強制が可能となる。内地の青年男子に強制徴兵制による兵役の義務がある以上、植民地の若年女子に慰安婦勤務の義務が課せられても当然という、権力の論理がその背後にちらついている。
なぜ、植民地の若年女子なのか。将来、内地出身の兵士たちの妻となり、未来の兵士の母となるべき内地の若年女子多数を慰安婦とすることは、直接に兵士たちの士気を落す結果となる。さればといって、職業的売春婦だけをもって慰安所を開設することは、人数も不足し、軍隊の戦力に影響するところが大きい性病問題をひろく軍隊内に持ち込む危険を伴う。だから、植民地の若年女子の慰安婦が必要だったのだ。
慰安婦が従事させられたのはたんなる強制労働ではなく、たんなる売春でもない。それは役務の強制ではあったが、その役務そのものが公序良俗に反する行為でありこの行為の強制に労働の対価や商行為の概念を適用することは誤っている。役務の代償として個々の兵士が代金を払ったという主張は、正当な主張として成立しえない。彼らは慰安所に支払ったかもしれないが、慰安婦に直接に支払ったわけではないだろうし、まして支払った代償が軍票であれば、それは日本国家によってつくられた二セ札でしかなかった。
これははっきり言って国家による犯罪行為である。したがって、補償と謝罪は国家の責任において、国家から直接に被害を受けた個々人にたいして、直接におこなわれなければならない。これから行く、トラック島やラバウルに、この種の軍事施設は多くあったし、この問題は深刻に考えざるをえなくなる。
トラック島の慰安所
作家の窪田精に『トラック島日誌』という作品がある。小説家である著者はこれを「小説」として書いたが、おなじ体験を作品化したのちの『流人島にて』にくらべると、はるかにフィクションの部分が少なく、著者自身が戦争中の政治犯の受刑者の一人として経験した事実を書きつづった作品である。このなかにおなじ船でトラック島に送られる朝鮮人慰安婦の投身自殺の話が出てくる。
トラック島の慰安所南風寮の将校専用の日本人慰安婦とともに逃亡した受刑者の話もあり、受刑者は捕えられたが、日本人慰安婦は自殺した。日本人慰安婦たちだって、好き好んで慰安婦になったわけではなかった。まして欺かれて船に乗せられた朝鮮人慰安婦の投身自殺について、『トラック島日誌』は次のように書いている。
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船が南にすすむにしたがい、船倉のなかの暑さはますますひどくなってきた。それにサイパン島沖をすぎるころから、波が荒らくなっていた。そんなある日、女たちの一人が海に投身自殺をした。女たちのうち何人かは、これから送られてゆく南方の島でのほんとうの仕事の内容を知らされず、だまされてつれてこられたのだということだった。投身自殺の原因もそのことと関係があったようである。それはさいしょ、「みどりが死んだ」というふうに、船倉の私たちにつたわってきたが、死んだのは紺のゆかたを着た年上の女のほうだった。すでに夕食のすんだ後で、夜にはいってからだった。
「あのみどりという女、朝鮮人だとよ」
配食当番で食器洗いに甲板に出ていた連中が帰ってきて、話しあっていた。
「なんだ。朝鮮ピーか」〔原文のママ〕
「みどりというのは商売用の源氏名さ、本名は李英愛というんだ。死んだ女は本当の姉で、みどりがアイゴ、アイゴと声をあげて、甲板で泣いていた……」
みどり、いや、李英愛の姉の自殺の話はすぐに船倉じゅうに広がった。死んだのがあの白いワンピースのみどりの方でなく、なぜ年上の姉のほうであったのか──。
〔中略〕
島の北端に位置しているこの陸上基地から、さらに北東の方向へ、海岸ぞいの道をぐるっとまわって、ちょうどコブ山の裏側になる元島民部落メッチデー村には、『南風寮』という海軍の慰安所ができていた。T部隊の看守たちにも、希望者には南風寮出入証が発行されていて、富沢看守の出入番号は、ちょうど一〇〇番だったのだ。
「日曜日にいくとたいへんだ。みんな、どの室のまえにも行列していてな。うしろのものが『はやくやれえツー!』といって、どなるんだ。うかうかしちやァおれねえや」
富沢看守はそんなふうにいって、顔をしかめ、青隊〔青色の囚人服を着た隊〕たちを笑わせた。
富沢看守の話では、南風寮には二十人あまりの女性がいるということだった。そのうちの半数以上が平洋丸で、私たちといっしょに送られたきた女たちである。〔中略〕
しかし私たちは、そんな富沢看守の話をきくたびに、南方にくる途中の平洋丸のなかでのできごとを思いだしていた。夜の甲板で暗い海をみつめて、アイゴ、アイゴと声をあげて泣いていた白いワンピースのみどりという名の少女──李英愛のことが思いだされてくるのであった。
「まだ十七、八のこどもだったがな」
「あのみどりの室のまえにも行列がつづくのかい。どういう事情でこんな島に送られてきたのかしらないが、むごい話だな」
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受刑者たちが南方に送られて基地設営や飛行場建設などの強制労働に従事させられた事実はあまり知られていないが、トラック島は、これらの囚人部隊と強制連行された軍用慰安婦たちとが、おなじ島で日本海軍最大の前方基地の将兵たちに奉仕するための役務を強制された、ただ一つの島であった。これが戦争中のトラック島のもう一つの顔であった。
南洋群島に送られた囚人部隊
一九三七年の無条約時代になると日本は南洋群島の軍備を急ぎはじめた。ヨーロッパで第二次大戦の危機がせまった一九三八年、アメリカはヨーロッパとアジアでの多国間戦争を想定し、これまでの一国相手の色別作戦計画を統合してレインボー・プランを計画した。当時の日本の南洋群島の軍備は水上機および陸上機の飛行場建設が主体で、一九四一年二月の対米開戦時に使用可能な陸上飛行場は、マリアナ諸島パガン、サイパンのアスリート、テニアンのハゴイ、カロリン諸島トラックの竹島、ポナペのナンボマル、パラオのペリリュー、マーシャル諸島クェゼリンのルオット、マロエラップのタロア、ウォッゼであった。
建設の労働力が不足し、まず三九年に、テニアンとウォッゼの飛行場建設に、横浜刑務所からの囚人労働が導入された。赤誠隊と名付けられた囚人部隊は、テニアン島に送られた受刑者一二八〇名(死亡二〇名)、ウォッゼ島に送られた受刑者一一〇二名(死亡三〇名)で、いずれも開戦前に工事を完成してその多くが内地に帰った。ところが、トラック島に囚人部隊を送り出した正木亮行刑局長が序文を書いた『戦時行刑実録』にも防衛庁の『戦史叢書』にも、テニアン島やウォッゼ島の囚人部隊のことは書いてあるが、トラック島の囚人部隊の状況は書かれていないという。他島の囚人部隊の大部分は開戦前に帰国できたが、トラック島の囚人部隊は多くが開戦後に島に送られ、連合軍の戦線の背後に取りのこされて飢えに苦しむ悲惨な生活を強いられ、多くの犠牲者を出した。
窪田精によれば、四一年一〇月にテニアンから受刑者九八名が二次に分けてトラック島に転用され、全国約四〇の刑務所から横浜刑務所に集められた受刑者で、第三次約三〇〇名、第四次約四〇〇名、第五次五〇〇名余の囚人部隊の図南報国隊が編成され、四二年二月から四月にかけてトラックの春島の陸上機の飛行場と水上磯の飛行場の建設の労働力として送り込まれた。陸上基地は四三年一月に概成、水上基地は四二年(月不明)に概成し、釈放される時期に達した受刑者が送還された。四四年四月の二度目のトラック島大空襲後、トラック島と本土との船便は絶えたが、そのとき島に残留していた受刑者は五四九名、その後現地で釈放されて軍夫に編入されたものが一一〇名、戦争終了時の生存者は七四名、四四年一〇月以後に三五八名の受刑者が死んだ。空襲による死者は一名で、他はすべて餓死である。九六名の看守のうち死者は三名(うち一名は爆死)に過ぎなかった。
三八年以後に急設された飛行場以外の軍事施設は貧弱だった。港湾ではサイパン、トラック、バラオ、アンガウル、ポナペ、ヤルートを開港場と定め、ワシントン条約体制下においても民間港として汽船用の埠頭の建設がおこなわれた。しかし、一万トン級以上の大型船が接岸できる埠頭はサイパン港とパラオ港だけであった。砲台などの防備施設の建設計画はことに立ち遅れ、建設には燈台道路を使い、その敷地には燈台敷地を利用するという、およそ戦術的観点を抜きにした便宜主義的な代物であった。
(大江志乃夫著「日本植民地探訪」新潮選書 p124-130)
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◎「世界に独特の軍事施設としての「特殊慰安所」が軍によって計画され、開設……軍事施設ともなれば権力による強制が可能……内地の青年男子に強制徴兵制による兵役の義務がある以上、植民地の若年女子に慰安婦勤務の義務が課せられても当然という、権力の論理がその背後にちらついている」と。