学習通信070703
◎触れればくずれるチューリップの青い芽……
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インタビュー
領空侵犯
若者よ『自分探し』するな
学習院大学教授
佐々木 毅氏
社会の評価に身をさらせ
──自分が何をしたいのか迷う若者の「自分探し」ブームに違和感をお持ちですね。
「若い人たちの自分探しはいつどこにでもあったでしょうが、今の日本では社会現象になっている。そもそも、自分はよく分からないというのが人生の基本なのに、探せば石ころみたいに見つかるんですか。自分がモノのようにどこかにあると考えるのは極めて幼稚で、知的に鍛錬されていないにおいがします」
──「自分とは何か」を若者が考えるのは当然では。
「もちろん自分探しがゼロの人は困る。しかし、何でも自分自分自分、自分探しを人生のメーンテーマにしてしまっていいのか。残念ながら世の中はあなたのためにあるわけではない。まず職探しをして、飯を食えるようになってからじっくり取り組めばいい。人間は社会的存在である、ということから逃れられません。社会と自分のかかわり合いをつくるのが人生にとって最大のテーマのはずです」
──どうしてこうした傾向が出てきたのでしょう。
「自分探しをしていれば生きていけるというのはぜいたくです。豊かさの結果でしょう。我々が若かったころの、ニンジンをぶら下げられて働くというメカニズムはもう効かず、ニンジンは嫌だといった話になる。世の中には動かし難い現実があるんだという学習も不足しています」
──好ましい自分探しの姿をどう考えますか。
「社会との間でらせんを描いていくような感じでしょうか。社会との出入りを何度も繰り返しながら、自分のストックを増やし、社会との関係を祖み替えていく。社会のネットワークに入らずに、気に入らない、幸せになりたい、というのは違います」
「必要なのは自分を突き放すこと、露骨に言えば自分の価格、評価をよく見ることです。自分を相対化する道具として職業をとらえる。その上で、自分探しより自分生かしを考えるべきでしょう」
──大学も責任かおりますね。
「リポートを課したら、先生だけ読むのか皆にお披露目するのか聞いてきた学生がいました。皆の前で読まれたら『私たち、壊れてしまう』というわけです。今の学生にはものを書いたり作ったりして評価に身をさらすことができない弱さがあります。大学ではまず、比較されることに慣れるための自己表出デビュー≠ウせることが大切です。王子様、女王様のガラス細工の自己を壊して社会に送り出す。幸い、学校は社会的、経済的リスクを一切負わず自分を見せられるのが特徴ですから」
ささき・たけし 42年生まれ。東大法卒。01−05年東大学長。現在は学習院大教授、英国学土院会員。専門は政治思想史、政治学で「プラトンの呪縛」など芦書多数。「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)共同代表も務める。
●もうひと言
若者を「自分いかし」に導く仕組みを社会の中につくる必要がある。
【聞き手から】
東大学長時代の三年前、入学式の式辞で「一刻も早く『すごい』人間や『かなわない』人間に出会うことを切望する」と新入生に訴えた。自らも、かなわない人間との出会いが自分を生かすきっかけになったという。「人は人、自分は自分」の風潮への違和感を、「自分探し」の流行にも感じる人は多いのではないか。(編集委員 小林省太)
(「日経」20070618)
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見えない季節 牟礼慶子
(むれけいこ)
できるなら
日々のくらさを 上の中のくらさに
似せてはいけないでしでしょうか
地上は今
ひどく形而上学的な季節
花も紅葉もぬぎすてた
風景の枯淡(こたん)をよしとする思想もありますが
ともあれ くらい土の中では
やがて来る華麗な祝祭のために
数かぎりないものたちが生きているのです
その上人間の知恵は
触れればくずれるチューリップの青い芽を
まだ見えないうちにさえ
春だとも未来だともよぶことができるのです
──詩集『魂の領分』
青春は美しいというのは、そこを通りすぎて、ふりかえったときに言えることで、青春のさなかは大変苦しく暗いものだとおもいます。大海でたった一人もがいているような。さまざまな可能性がひしめきあって、どれが本当の自分なのかわからないし、海のものとも山のものともわからないし、からだのほうは盲目的に発達してゆくし、心のほうはそれに追いつけず我ながら幼稚っぽいしで。ありあまる活力と意気消沈とがせめぎあって、生涯で一番ドラマチックな季節です。
自分をつかむという、難事業中の難事業のとっぱなですから途方にくれるのも無理からぬこと。どんな時代にも、青春期にハンドルを切りそこなう人が多いのは、たしかに危険なカーブ、なかなかの難所であることがわかります。
見ていると、十代の後半までに、はっきり自分をつかむことのできる人がいます。つまり自分の時間を何に一生捧げて悔いないか、自分の素質を早い時期に見定めることのできた人で、聡明という言葉はこういう場合にこそぴったりだと思えるくらい。でもたいていは、長い模索とあちらにぶつかりこちらにぶつかりしながら自分をつかみとってゆくのがふつうで、それはこの詩に書かれているように、
できるなら
日々のくらさを 土の中のくらさに
似せてはいけないでしょうか
という、つぶやきとも悲鳴とも忍耐ともつかない内的独白をかかえて、苦闘することになります。
冬の大地はのっぺらぼうですが、春になるといっせいに芽が出て、播いた種でもないものまで現われて、雑草もぐんぐん。それなのに待っていた芽はあらわれなかったりして。冬の問、土の中でいったいどんなドラマが進行していたのか、草木や花をみてからやっとわかったりします。開花したもの、ついに枯れてしまったもの。だとすれば人の心も、霜柱が立ったり氷ったりの泣きたいようなさむざむしいなかでこそ、どんな種子を育てているかわかったものではありません。作者は地上のみえる世界よりむしろ、地下の世界でひしめいている暗さ、豊かさへの予兆のほうに信頼をおいています。
地上は今
ひどく形而上学的な季節
花も紅葉もぬぎすてた
風景の枯淡をよしとする思想もありますが
は、むずかしい行ですが、『新古今和歌集』(巻第四、秋歌)の藤原定家の、
み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(ともや)の秋の夕ぐれ
をふまえていて、白黒のモノトーンの世界、枯れ枯れの佗びしさを長くめでてきた日本の美学への批判を示しています。そしてもっと豊饒(ほうじょう)なもの、たわわな色彩、躍動的なものを準備し用意しているものへの期待をあらわにしています。
牟礼慶子は中学校の国語の先生を長くしましたから、自分自身の内部の暗さ、生徒たちがかかえている暗さをともに敏感に感じとり、暗さがはらんでいる未来に、そっと手を添えているようなところがあって惹(ひ)かれます。自分をつかみ直そうとする勇気ある人は、おとなになってからも何度でも、こういう暗さに耐えることを辞しません。
(茨木のり子著「詩のこころを読む」岩波ジュニア新書 p82-86)
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◎「地上のみえる世界よりむしろ、地下の世界でひしめいている暗さ、豊かさへの予兆のほうに信頼をおいています」と。