学習通信070710
◎第十六師団……

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上ル下ル
倒された石碑

 京都市伏見区の伏見桃山城。その天守閣横に、倒れたままの石碑があると聞き、興味を持って見に行った。

 高さ約五b、幅約二b、厚さ約七十aと、かなり大きい。あおむけになった面に「昭和七年(一九三二年)四月二十五日」の日付と、同区深草にあった「陸軍第一六師団司令部」「歩兵第九連隊」などと刻まれている。建てられた理由は分からない。

 図書館で本紙の前身「京都日出新聞」のマイクロフィルムを調べると「桃山の聖域に感激の波漂ふ」という当日の記事が見つかった。この日は桃山御陵で軍人勅諭発布の五十周年式典が開かれ、「選ばれた陸の精鋭四千五百名」が参加し、感激の涙を流したとある。石碑は、この式典を記念して建てられたのだろう。同師団は戦争が激しくなると、中国やフィリピンの戦線に投入され、大勢が犠牲となった。

 そんな石碑が、なぜ倒されたのか。郷土史家の藤林武さん(七一)=伏見区=は「敗戦後、進駐軍を恐れた住民が倒したのではないか」という。戦後、人々は石碑を倒すことで、軍国主義と決別しようとしたのかもしれない。

 普通は、倒れたものは元へ戻すのがいい。だが、この石碑の場合はどうだろう。再び立たせて過去の教訓とするか、倒れたままにするのがいいか。桃山城を訪れる度に、考えている。(久保田昌洋)
(「京都新聞」20070710)

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第十六師団の設置を機に
 敗戦まで相次ぐ軍備拡張

伏見の二十世紀は軍都化から

 伏見の街や村の二十世紀は軍部化で始まりました。日露戦争の最中、陸軍四ヶ師団の増設が決定し、その内の一つが第十六師団で、一九〇七(明治四十)年に京都に置くと決まりました。師団司令部は京都、歩兵第九連隊は大津、第十八連隊は敦賀、第三十八連隊が京都、第五十三連隊は奈良の各市に駐屯し、騎兵第二十・砲兵第二十二・工兵第十六・輜重(しちょう)第十六・憲兵その他も京都と決定しました。

 この時すでに、京都には陸軍の基地は造られていました。桃山の宇治川畔には、大阪第四師団の工兵隊が明治建軍の初期から演習地としていました。さらに日清戦争の軍拡では陸軍の歩兵第三十八連隊が深草にありました。その上、宇治の五ヶ庄の黄檗山には広大な陸軍火薬貯蔵所が明治の初めに設置されていましたし、その西麓では、日清戦争中の軍拡で、陸軍宇治火薬製造所が稼働を始めました。

 これらの既設部隊を背景としての第十六師団の設置だったのです。けれども、約百万平方メートルにも及ぶ広大な軍用地が必要で、京都市内のどの辺に設置するかで大混乱しました。

小作農民追い出し用地買収

 京都市会では、市付近に設置された場合は十五万円を寄付すると決定していました。市の北部出身の議員は西賀茂方面へ師団を誘致しようと運動しました。それが重なって賛否両論が対立し、議員や議長まで暴漢に襲われる事件も起こりました。反対派は「本市にも直営事業は多々あり。しかるに軍人の感情の害する事のみを恐れ、理屈抜きで賛成せよとは、これこそ不忠で阿諛(あゆ)するもの」と違法性まで主張しました。賛成派は「議論の余地なし。誠意を以て軍を歓迎するのみ」と対抗しました。結局、すでに伏見に駐屯していた歩兵第三十八連隊の近辺と決まったのです。

 この広い軍用地の買収は緊急でした。坪単価平均二円という価格は、当時としては倍近い高額でしたから、銀行がかけつけて土地ブームも起こりました。しかし広大な軍用地の買収で、一番困った人は小作農民でした。小作連は、地主に坪当たり二十銭の離農料を交渉しましたが、地主は「政府に交渉せよ」と取り合いません。小作はやむなく郡役所や府に陳情しましたが、これも「地主対小作間の問題だ」と門前払いされました。

 そんな中で、一九〇八(明治四十一)年十一月二十六日、第十六師団は伏見に移駐しました。こうして、ついに伏見は、城下町でもない港町でもない、軍部「伏見」への変貌が始まり、軍都としての骨格が整えられました。

稲荷──黄壁間結ぶ軍事施設

 翌年の秋「師団街道」の新設で、こんどは府政が混乱しました。京都駅と師団の中心の深草を直結する広い道路が必要です。塩小路橋東詰から、鴨川と疏水の間を南下する道路は、今も「師団街道」と呼ばれています。京都府理事者側は、軍の意向を受けて軍隊本位の路線を主張しましたが、参事会側の言い分は、師団の設置で今後は頻繁となる京伏間の交通を、沿道住民も便を受けられる道路こそ必要だ、と主張して譲らなかったのです。その後、直違橋通も軍人向きの商店街に変わり、陸軍病院も開設されました。こうして、明治時代の末頃には、稲荷〜観月橋〜黄壁間に軍部「伏見」の姿がほぼ完成しました。

 満洲事変の石原莞爾中将も、第十六師団長でした。東条英機に首を切られて立命館大学で国防学の教授に就任したのは一九四一(昭和十六)年でした。そして東条内閣が誕生し、世界中を相手に第二次世界大戦に引きずり込みました。この前後からますますの軍備拡張は第十六師団に加えて、十五・五十三・百十六など十個に近い京都編成師団を造っています。

 一九一八年の京都の米騒動で、日本最初の陸軍出動であった第十六師団。南京大虐殺関連部隊。パターン半島・インパールの激戦やレイテ島での全滅など、今日も消せない軍都「伏見」の歴史です。伏見や宇治等に残る陸軍の遺跡や遺物を自分の目で確かめ、文化財として保存もし、平和や戦争を考える具体的資料としましょう。(池田一郎・元府立桃山高校教諭)
(岩井忠熊編「まちと暮らしの京都市」文理閣 p262-265)

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「南京事件」をめぐって


「南京事件」とはどんな事件だったのか

 盧溝橋事件に続く部分で、『歴史教科書』は、「南京事件」を取り上げています。

 「日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)」─『新しい歴史教科書』二七〇ページ

 この文章は、南京事件の叙述としては、たいへん不正確なものです。「民衆にも多数の死傷者が出た」というのは、日本軍が行動したほとんどあらゆる戦場で起こったことで、これだけでは、「南京事件」がなぜ世界的な非難の的になったのかが理解できません。

 では、「南京事件」とは何だったのか。いまは、「大東亜戦争」を肯定する立場からの「南京事件」の弁護論がさかんですが、そういうことが起きる以前、一九七〇年代の初頭に出た日本史の書物から、事件の概略を紹介することにします。取り上げたのは、中央公論社が発行した『日本の歴史』の第二十五巻、林茂氏による『太平洋戦争』一九七一年刊)のなかの一節「南京占領と虐殺事件」です。

 林氏は、まず事件の前史について語ります。
 「上海の防禦陣地を破られたあとは、南京までのあいだには中国の防禦線はなく、日本軍は日に六、七里というスピードで進撃を続けた。この間、『軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして、上海付近より南京に至る約百里の間、殆んど糧株(りょうまつ)の補給を受くることなく、殆んど現地物資のみに依り、追撃を敢行せり』(『第九師団作戦の概要」)という状態であり、徴発を名とした掠奪が行なわれた。同時に、『敗残兵狩り』という名目で、一般民衆にたいする虐殺・暴行がくりひろげられ、それはやがて、世界を驚かせた南京虐殺事件の前史をなしている」(同書六二上八三ページ)

 短い文章ですが、この作戦にくわわった第九師団自身の作戦記録で証拠づけをしながら記述をすすめているところは、さすが歴史家の筆だと思わせます。

 南京事件の本史は、この前史に続くその後、とくに南京の占領作戦が終わったのちに、展開されました。林氏の続きの文章を読みましょう。

 「南京城にたいする攻撃は、十二月十日から開始され、十三日には日本軍の手中におちた。国民政府は漢口に逃げのびていた。そしてその日から、日本兵は捕虜の虐殺をはじめた。当時、旅団長として攻撃を指揮した佐々木到一〔筆者註・陸軍中将〕は、つぎのように書いている。

 『〔十三日〕午後二時ごろ概して樹齢をおわって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。

 その後俘虜(ふりょ)〔筆者註・捕虜のこと〕ぞくぞく投降し来り、数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮(さつりく)する。多数戦友の流血と十日間の辛惨(しんさん)をかえりみれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」といいたくなる。

 白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持合せなんか我軍には無いはずだった。(略)

 〔十四日〕城内にのこった住民はおそらく十万内外であろう。ほとんど細民ばかりである。しかしてその中に多数の敗残兵が混入していることは、当然であると思われる。(略)

 敗残兵といえども、尚部落山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた。したがって抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に殺戮した。終日、各所に銃声がきこえた。太平門外の外濠(そとぼり)が死骸でうずめられてゆく』(「南京攻略記」『昭和戦争文学全集』別巻所収)」(同前六三─八四ページ)

 ここで紹介されている佐々木到一氏の『南京攻略記』は、「南京事件」から一年四ヵ月後の一九三九年四月、彼が「戦場記録──中支作戦編」と題してタイプ印刷を完了していた草稿を収録したものだとのことです(『昭和戦争文学全集』別巻『知られざる記録」〔一九六五年、集英社刊〕巻末の橋川文三氏の「解説」にょる)。戦争の指揮者が書いた記録だけに、この記述には、真実がもつ生生しさがあります。

 ただ、ここでは、俘虜の虐殺は激昂した兵士の自然発生的な行為だとされ、また一般住民の殺戮も「抵抗するもの、従順の態度を失するもの」への対応として説明されていますが、その後の研究では、捕虜や一般住民の殺害を命じた上級からの指示・命令が多く紹介されています。

 大虐殺事件は、兵隊が一時的な激昂にかられておこなった偶発的な事件ではなく、日本軍による捕虜と一般住民の組織的な殺戮だったのです(これまでの研究をまとめた最近の本に、藤原彰『南京の日本軍 南京大虐殺とその背景』〔一九九七年、大月書店刊〕などがあります)。

 林氏の記述は、事件の国際的な反響をもふくめて、次のように続きます。
「その後も、みさかいもなく一般民衆にたいする虐殺がつづくのであり、十五日の夜だけで二万人が殺されたといわれる。ドイツ人を責任者として南京につくられた国際救済委員会は、四万二千名が虐殺されたと推計し、そのほか、南京進撃の途上で三〇万人の中国民衆が殺されたと見積もられている。このニュースは世界に大々的に報道されたが、日本人は、戦後の東京裁判で追及されるまで、この事件を知らないでいた」(『太平洋戦争』六四ページ)

「南京事件」は「論争」問題などではない

 「南京事件」が、日本軍の戦争犯罪として特別の注目を集めたのは、戦闘の結果として「民衆にも多数の死傷者が出た」という次元の間題ではなく、戦闘中も、さらにとくに戦闘終了後も、捕虜と一般民衆にたいする殺戮行為が大規模におこなわれた点にありました。その肝心の事実をぬきにした叙述は、とてもこの事実を正当に取り上げたものとはいえません。

 ところが、『歴史教科書』は、後段の東京裁判のところに、「南京事件」に関する追加的な説明を次のようにつけくわえ、いったん自分が認めた「民衆にも多数の死傷者が出た」ということさえ、真偽不明の「論争」間題にしてしまいました。

「この東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」『新しい歴史教科書』二九五ページ

 これは、実に卑怯なやり方です。ごく一部の論者が、いろいろな思惑から、「南京事件」を否定しようと、いろいろな「論争」を起こしているのは事実ですが、その大部分は、誰が何をやったなどの個別の事実についてその真偽を問うとか、殺された人の数が多く見積もられているとかいう種類の「否定」論です。こうした点では、史実をこまかく追究する「論争」はありうるでしょう。

 しかし、この間題で日本が問われているのは、捕虜と住民の大量虐殺があったかどうかの問題です。このことは、関係者の無数の証言が実証していることで、この基本点にかんしては、歴史の事実を尊重する立場にたつかぎり、「南京事件」には論争の余地はありません。

 もし執筆者たちが、この基本点に疑間をいだき、大量虐殺などなかったと考えているのなら、堂々とそのことを事実をあげて示すべきでしょう。それをしないで、ただ「南京事件」は「論争」間題だと述べ、「日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害した」という東京裁判の「認定」そのものに「疑問」があると書き、「南京事件」など存在しなかったという見方に道をひらこうというのは、たいへん意図的な叙述だと言わなければならないでしょう。

 「南京事件」のほかにも、『歴史教科書』の執筆者たちには、日本がおこなった残虐行為については、できるだけ口をつぐむという習性があるようです。

 第二章で触れたように、『歴史教科書』は、国際的な大問題となった「従軍慰安婦」の問題についても、一言も触れていません。日本が東南アジア各地でくりひろげた住民殺戮の行為も、「大東亜」解放の戦争という図式にあわないためか、完全に視野の外においています。この点でも、『歴史教科書』が、日本の将来をになう子どもたちを、国際社会、とくにアジアの一員として育てる教科書として、その資格をもたないことは、明らかだと思います。
(不破哲三著「歴史教科書と日本の戦争」小学館 p158-164)

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◎「再び立たせて過去の教訓とするか、倒れたままにするのがいいか。桃山城を訪れる度に、考えている」と。