学習通信070713
◎沖縄返還闘争……

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テレビ・ラジオ
8月1日「その時歴史が動いた」

沖縄祖国復帰への軌跡
瀬長亀次郎と県民の心

 「カメさん」と沖縄県民に慕われ、沖縄人民党委員長だった瀬長亀次郎が、NHKテレビ「その時歴史が動いた」(8月1日、後10・O)に登場します。タイトルは「忘れられた島の闘い〜沖縄返還の軌跡」。祖国復帰の道を開いた沖縄のたたかいと長い道のりに迫ります。

 戦後27年間アメリカの直接統治のもとに置かれた沖縄。人々の土地は基地建設のために強制収用され、基本的人権の保障とはほど遠い状態が続きます。そんな状況を打開しようと立ち上がったのが、のちに那覇市長となる瀬長でした。アメリカに立ち向かい、沖縄に平和と人権を取り戻すため、「祖国復帰」を訴えます。そんな瀬長をアメリカは弾圧。逮捕や政界追放などを繰り返します。

 しかし、瀬長の姿は沖縄の人々の心をつかみ、アメリカヘの抵抗は、島ぐるみの運動へ発展。沖縄の声は、本土で高まっていた反戦運動と一体となり、「その時」1972年5月15日の沖縄返還を迎えます。ゲストは我部政明・琉球大学教授。

 その後、瀬長は衆院議員となり、沖縄人民党が合流した日本共産党の副委員長を務め、平和のためのたたかいを続けました。
(「赤旗」20070412)

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七〇年安保闘争と沖縄全面返還

 六〇年安保闘争は米日支配層のキモを冷やした。ケネディ・ライシヤワー路線は、六〇年安保闘争から米日支配層が学んだ教訓にもとづき、日本の民主勢力の分断をはかろうとしてうち出してきたイデオロギー攻撃の一種であった。

七〇年安保闘争

 六〇年に、日本の労働者と国民の猛烈な反対をおしきって改定された安保条約は、その第一〇条二項に、発効してから一〇年たったならば、日米いずれの側からでも、この条約を終了させる意思を通告することができ、その時には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する、といういわゆる「固定期限」にかんする規定をふくんでいる。したがって、当然のことながら、自覚的民主勢力は、この固定期限の満了する七〇年六月を意識しながら、六〇年安保闘争の再現をと意気ごみつつ、学習を先行させ、集会やデモをさかんにくりかえした。六〇年代の末から七〇年にかけての時期の安保廃棄をめざすこの闘いが七〇年安保闘争といわれるものであった。それに対抗して、米日支配層は、六〇年代のかなり早い時期から、七〇年六月の固定期限満了期をどうのりきるかについて重大な関心を払ってきた。

沖縄返還闘争

 六〇年代を通じ、とくにベトナム侵略が本格化するにともない、出撃基地となっていた沖縄では、米軍基地と沖縄県民との矛盾が深刻化しつつあった。沖縄県民の祖国復帰闘争は、対決的かつ強力に闘われたため、アメリカは基地の維持に不安を感じはじめていた。したがって、沖縄県民の闘争エネルギーをそらすと同時に、本土人民と沖縄県民との闘いを分断する意味からも、米日支配層は沖縄の「施政権返還」という部分的な譲歩の道をえらぼうと策した。沖縄県民は、あくまで即時・無条件・全面返還を要求して闘いつづけた。六七年一一月の佐藤・ジョンソン共同声明では、沖縄の返還は両三年をメドに継続協議することが約束され、六九年一一月一九日から二一日まで行なわれた佐藤・ニクソン会談の共同声明においては、七二年返還めざして協定作成がなされる旨が明記された。

七〇年代の安保体制

 七〇年六月の安保条約の固定期限満了の時期を混乱なくのりきった米日支配層は、七一年六月一七日、日米沖縄協定に署名、七二年五月一五日に発効した。沖縄の施政権は返還されたが、その実態は「核ぬき、本土なみ」どころか「核かくし、自由使用」返還にほかならなかった。この協定により、沖縄も本土とともにアメリカの半占領下におかれることになり、極東最大の沖縄基地が在日米軍にくみこまれた結果、日米軍事同盟の危険がいっそう大きくなった。

こうした側面とともに、戦後二十数年にわたる血のにじむような沖縄県民の闘いが、米軍基地の機能維持を困難におとしいれ、アメリカ当局から一定の譲歩をかちとったという側面があったことは否定できない。事実、沖縄協定以後はすべての日本国民が渡航証明書なしで自由に本土と沖縄の間をゆききできるようになったし、沖縄県民をふくむ日本国民の民族的な闘いの舞台が広くなった。「沖縄協定ナンセンス」といってこの改良の側面をまったく無視することは正しくなかった。

沖縄の全民主勢力を結集して闘いつづけた沖縄県祖国復帰協議会も、七二年の五・一五にあたって、「初歩的な勝利ではあるが、なお重荷を背負って、苦難の道を歩まねばならない」と声明した。

七〇年安保・沖縄の闘いの全期間を通じて、階級的潮流の労働組合は積極性と戦闘性を発揮したが、右翼的組合は消極的かつ批判的な態度を貫いた。七〇年代安保体制は、七八年一一月の日米防衛協力のための指針 ガイドラインを経て、八〇年代安保へとつながり、今日にいたっている。(畑田重夫)
(「事典 日本労働組合運動史」大月書店 p338-339)

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◎「沖縄県祖国復帰協議会……「初歩的な勝利ではあるが、なお重荷を背負って、苦難の道を歩まねばならない」と声明」と。