学習通信070719
◎そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて……

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潮流

 宮本顕治さんを初めて間近でみたのは、一九七〇年代の初めです。たしか、東京・多摩湖の赤旗まつり会場でした

▼雨あがり。招待客らしい人たちと談笑しながら歩く宮本さんは長靴姿。工事現場を訪れた建設会社の社長さんのような姿に、親しみがわきました。もう一つ印象深いのは、それから十数年後、伊豆学習会館で開かれた党の会議での場面です

▼開会し、宮本さんがにこやかに壇上に現れました。瞬間、広い会場にはりつめた空気が伝わったかのようでした。弾圧と拷問に屈せず獄中でたたかい、ソ連や中国の干渉をはねのける闘争の先頭にたち、日本の変革ヘ日々現実と切り結ぶ。そんな試練をへた人の発する真剣味だったのでしょうか

▼文芸評論選集の第一巻が、まだ出版されていなかった七〇年代。友人が、戦前の印刷の「『敗北』の文学」を青焼きコピーし、送ってくれました。二十歳の宮本さんが芥川龍之介の文学を批評し、評判をとった作品です

▼「自己の苦悶をギリギリに噛みしめ」ながらみずから命を絶った芥川への、愛情がにじみでる文章でしたが、最後のくだりで気もちが高揚しました。「だが、我々は如何なる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。……『敗北』の文学を──そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」

▼日本共産党の委員長や議長だった、官本さんが亡くなりました。九十八歳。激動の時代を生きた姿が、「『敗北』の文学」の結びの決意と重なります。
(「赤旗」20070719)

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『「敗北」の文学』を書いたころ

 芥川龍之介の自殺を大きく報じた新聞をみた日のことを私は今でも思い出す。それは、一九二七年七月下旬の午後、四国の高松から汽船で呉線の吉浦について、駅の売店で新聞を買ったときであった。私は当時、二十歳で松山高等学校の生徒であり、郷里の山口県へ帰省の途中だった。汽車を待つときも汽車の中でもいくつかの新聞記事をくり返し読んだ。

 私は、中学時代から日本文学の現代作家の中では、芥川や菊池寛の初期のものなどを割によく読んでいた。高等学校にはいって間もなく、友人と社会科学研究会をつくり、その活動に熱中しはじめたころは、それまでの文学への情熱がそれにきりかえられたかのようだった。しかし、芥川の自殺はやはりショックを与えた。その夏、西日のあたる家の暑い二階で『国家と革命』なぞを勉強しながら、芥川の晩年の作を読み返した。『西方の人』を読み、マタイ伝、ルカ伝等の福音書も読んだ。改革者としてのクリストの情熱と苦悩に注目した。

 いつの間にか警察の注意人物にあげられていて、家には駐在所の巡査が来たりして父母をおどろかせた。高等学校にはいって、東京の仲間と一緒にはじめていた「白堊紀」という左翼文芸同人雑誌を五号まで出していたが、その年の秋、卒業前にその終刊号を出すことにした。それに芥川龍之介についてエッセイを書いた。

 一九二八年の四月、望みどおり東大に入学でき、東京に出た。田舎の小さい米穀肥料商の家に育った私は、負債と経営難にあえいでいる下層小市民の苦悩を少年時代から知らされていた。高等学校から大学へというコースも、息子の「出世」を自己の運命の打開と結びつけて考えていた父母の願いに動かされた点が多かった。家庭教師をしたりして家から送金を少なくしようとした。また、時には学校をやめようと申し出たりしたが、父母は、何とかして送金するからどうか学校をつづけてくれといってやまなかった。下宿代もろくに出ないので、ごく遠縁にあたる富裕な家の物置兼用の別棟の一室においてもらって、書生代わりの用事も頼まれた。その家としては、貧しい遠縁の子弟への思いやりの処置だったのだろうが、友人の出入りも何となくはばかられ鬱屈する思いの少なくない日々だった。

 本郷にはたいてい毎日出ていたが、学校の講義はきかず、私の在籍していた経済学部のRS(読書会)や、その他学生運動関係のことをやったり、「無産者新聞」の配布も手伝ったことがある。その家から出て何とか下宿したいと思っていたが、下宿代のでるあてもなかった。

 一九二九年のはじめ、「改造」が文芸評論の懸賞募集をしていた。かつて「白堊紀」をやっていた友人たちが、是非書けとすすめた。知人から『芥川全集』を借りて、愛知県のある田舎へ行った。論文を書くことをすすめてくれた友人の親戚の空家があったので、友人たち三人で行って、春休みを勉強して過ごそうということになった。

 その家は知多半島を対岸にひかえた海辺の小さい丘の上にあった。私たちは自炊し、勉強し、たまにはまだ寒い海へとびこんで泳いだ。全集を丹念に読み返し、ノートを作った。それまで雑誌なんかに出ていた芥川論をできるかぎりあつめ、目を通した。

 私は、マルクス・レーニン主義の理論的正しさを信じていた。大衆組織には参加していたが、まだプロレタリア前衛として全生活を革命運動に投げこむには至っていなかった。自分に世俗的な希望を大きくつないでいる貧乏な両親のことが浮かぶときには、やはり重苦しい気分だった。

晩年の芥川龍之介の語りかけた社会的生活的陰影の中には、中流下層市民層に育ったインテリゲンチアに共通の敏感な苦悩が感じられた。彼は、文学的なレトリックをある抑制をもって語っている。しかし、その本質は、自分たち若者たちの当面している問題とつながっていることを感じないわけにはゆかなかった。ただ芥川は、肉体的にも精神的にも、その苦悩を生き抜くことで克服することができなかった。

その頃、雑誌に出た白鳥や春夫その他の芥川についての感想は、私にはのんきしごくにみえた。

 しかし、私は、この過渡的な苦悩に敗北しないで、理性の示す方向へ歩み抜く決意を根本的にゆるがせることはできなかった。私にとって芥川龍之介論は、その決意の文学的自己宣言でもあった。同時に、社会的鈍感さに安住して、芥川の知己をもって任じているそれまでのいろんな芥川観への批判でもあろうとした。

 この時代、プロレタリア芸術運動は、若々しい情熱でふるい文学の批判に向かっていた。晩年の芥川龍之介が、プロレタリア芸術への好意的理解をもとうとしていたことが、芥川の死後の中野重治が書いた感想などでも知られていた。

一九二八年、一九二九年は、あの三・一五、四・一六で地下の共産党が大量検挙をうけた年である。当時の既成文壇にもこれらの芸術的、社会的動きにたいして、頑固な反対と無関心の古い人びとがあったとともに、好意的理解者であろうとする一群の人びとも生まれた。新しい歴史的方向への芥川の理解の程度は、その文章に現われたところでは、まだ漠然としていた。しかし、その関心は小市民インテリゲンチアとしての自分の位置に安住できないほどには切実なものであったといえよう。

『或旧友へ送る手記』にある「漠然とした不安」はこれらとつながり、生理的な病弱にあって一層ふかめられたのだろう。芥川の場合、歴史的必然性──新しい時代への理知的理解がもっと明確であり、進歩的インテリゲンチアの存在意義も時代的な空気としてももっとはっきりしていたら、生きようとする方向がよりつよく支えられただろうと言いえないか。当時のプロレタリア文学運動も、ブルジョア文学かプロレタリア文学かの問題は鋭く提起したが、まだ、広範な進歩的インテリゲンチアをふくむ統一戦線の問題を提起していなかった。

 私は一月くらいでその田舎をひきあげ、東京の住居で時折雑用をしながら五十枚の論文を書きあげて「改造」へ送った。その夏、私は郷里でこの論文の入選を知った。やがて上京し、これを機会に、それまでのところを出て下宿生活にはいった。そして、自分の決意の方向により積極的となっていった。

 『「敗北」の文学』を書いた翌年、研究会のことで警察へ検挙された。その翌年、一九三一年には、非合法の共産党へ入党した。一九三二年の春、地下活動にはいり、一九三三年暮れに検挙され、十二年間を獄中に送った。

 その獄中のある日、『「敗北」の文学』について考えたことがある。
「我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。我々は我々を逞しくするために、氏の文学の『敗北』的行程を究明して来たのではなかったか。

 『敗北』の文学を──そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない。」

『「敗北」の文学』に書いたこの結びの言葉は実現されただろうかと私は自問した。そして、数年間の革命運動の試練を経たこのとき、単に決意としての方向にとどまらず、実践的感情としてためらいなくそれを肯定できると思った。
(宮本顕治著「網走の覚え書き」新日本文庫 p26-30)

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◎「その関心は小市民インテリゲンチアとしての自分の位置に安住できないほどには切実なものであったといえよう」と。