学習通信070720
◎今も私の胸をしめつけて……

■━━━━━

二十年前のころ



 私がはじめて当時中条の姓をもった百合子に近くで会ったのは、一九三一年のたしか初夏のころ、プロレタリア作家同盟の事務所の中であった。事務所は上落合にあり、古くよごれた畳の二間の部屋が会合の場所であった。私はそこで、彼女を窪川鶴次郎か誰かに紹介されたように思う。私はその少し前、作家同盟にはいったが、すでに非合法の共産党にはいっていて『幟旗』の党グループの仕事をやっていた。文学的には二年前「改造』に「「敗北』の文学」を書いたほか『ナップ』で文芸時評を書きはじめていた時期であった。

そのとき私たちは、ただ会釈し合っただけで格別の話もしなかった。そのころ彼女は、ベレー帽をかぶり、さっぱりした洋服を着ていた。作家同盟の会合は夜あったが、「文学大衆化」の討議などが大衆的に行なわれていたころだった。彼女も会合で時折発言していたが、それは「どうなのでしょうか」という風な、おだやかな疑間の提出という風な発言で、まだ運動にはいって間もないころの新加入者の謙遜のほか、実際まだよくかってか分からない風の一種のおぼつかなさのみられたものだった。しかしその態度は、間題を追究する熱意に貫かれていた。

 彼女はその年の七月六日の第四回大会で中央委員の常任になっていた。当時の役員は、委員長江口渙書記長小林多喜二、中央委員中野重治、川口浩、貴司山治、立野信之、壷井繁治、徳永直、鹿地亘(以上常任)、越中谷利一、秀島武、田木繁であった。

 近くで会ったのはそれがはじめてだが、その前も新宿駅プラットフォームでみかけ、「中条百合子だな」と新聞でみた写真の印象とひきくらべた記憶がある。また、省線中野駅から作家同盟の事務所へ行く途中、少し前を彼女が歩いていて、私はそれから一定の間隔で歩きながら、何か歩き風にソビエトから帰って間もない入人らしいさわやかな足さばきを感じた。彼女の歩き方は、肥満しているからだつきに意外と思えるほど、かるやかになめらかな足の運びが印象的だった。

 夏から秋へかけて、芸術運動に対する蔵原の提案論文がペンネームで発表され、芸術運動の基礎を大衆のあいだに組織する方針が日程に上り、サークル活動が間題となっていた時期であった。十月十日には、この活動の一つの方法としてプロレタリア作家同盟で『文学新聞」を発行した。そして間もなく、「文学新聞』を作家同盟員が組み合わせで売ることになり、百合子、細田源吉氏等数人の組に私は編入させられていた。秋の午後、私たち数人は芝の増上寺付近かどこかで待ち合わせていた。田町駅で街頭売りをやる割当てだったのでその前、街頭売りの「許可」を三田署に行って交渉した。さらに、三田署から警視庁の検間諜に照会して大分手間どった末、やっと売ってよいということになり、ひけどきの時刻を見計らって立売りをやった。

この立売りで一番好成績だったのは彼女だった。あの付近の工場労働者やサラリーマンの波がつづく間に、私たちは、「文学新聞はいかがですか」といってよびかけたのであるが、人びとは彼女のところへ買いに集まり、中には「あれは中条百合子だ」とささやいている人もあった。彼女は愛嬌よく、あちらこちら歩きながら、一番よい売れ行きだった。私は立売りははじめてで少し照れ気味だったが、彼女の態度は少しもそんなところがなく、さっぱりとはれやかな面持ちでやっていた。

 終わって帰りかけたとき、今晩数寄屋橋の三好野の二階か何かで、銀行につとめている勤労婦人の集会があり、彼女が山本安英さんと行くことになっているが、一緒に出ないかと誘われた。文芸評論を書ける人もいてくれた方が良いと彼女はいっていた。近くのそばやで夕食がわりにうどんを一緒にたべた。その晩、二、三十名の若い勤労婦人がそこに集まっていた。質間や話題は、ソビエト婦人の生活についてが多く、彼女が多く話さねばならなかった。私は文学のことを少し聞かれたくらいだった。その二階を出て私は日比谷の交差点の方に、彼女は省線の方に別れた。私は当時、小石川竹早町に下宿していた。彼女は目白駅の付近に湯浅芳子氏といた。

 その晩秋から初冬にかけて、私は党のアジプロ関係の仕事のことで彼女に一週間に一度ぐらいの割りで定期的に会うようになった。それから個人的にも急速に親しくなった。仕事の話が終わったあとでも長く話しつづけることが多くなった。私たちは二人が同志として以上に互いを特別の愛をもって感じはじめていることを知った。私も彼女に会うのが愉快でたのしかった。彼女の話題は豊富で、表現は溌剌多彩であり、鋭い感受性と向上を熱望する意欲が伴われていた。彼女もそのときのことを結婚後次のように話したことがある。私と会うことになっている日、彼女は外出の仕度をはじめて鏡をみた。そして自分の顔が普段とちがったよろこびに輝いていることをみた。そして、「こんなにうれしがっている」と感じるとともに、「ああ困った」と感じたそうである。

 彼女は私に好きな人がほかにいるのかと聞き、私はないと答えた。私も湯浅芳子氏のことを聞いたら彼女は、「モスコーにいたときも、日本に帰ってすきな人ができたら自由に結婚すると話してあり、結婚が妨げられる間柄ではない」と答えた。私たちはやがて結婚するつもりでそれぞれの属していた党組織に経過を報告して承諾を得た。

 二月はじめのある日、彼女は突然、私の下宿を訪れ、目自の家には帰れないといった。湯浅氏に私たちのことを話すと、非常に怒って、彼女が外出しようとすると、それが仕事のことでも、宮本に会いに行くのだろうといって、外出のための靴や着物までかくされるので、今日ははだしで飛び出して円タクをひろって林町の家に行って、妹の寿江子の洋服をかりてきたのだというのである。そこで急速に家をもつことにきめ、動坂にみつけた。彼女は、父中条精一郎の事務所を訪ねて、この結婚について報告し、承諾を得た。何しろ急だったので、百合子も私も荷物はもとの住まいにおいて、木綿の夜具を百貨店で買ってきたのと、身の回りのものと、火鉢と机くらいのものだったろう。

 そのころ、私は、「プロレタリア文学』に書いた巻頭言のことで警視庁の検閲課に出頭を求められていた。検閲課には、新島繁君や松井圭子さんらも他の件で呼ばれてきていた。私の文章が治安維持法に該当する不届きなものであることをみとめよと検閲の役人はいって、きかなければ拘留するとおどかして、留置場へ電話をかけてせめたが、私は応じないで結局そのまま帰ってきた。一日で片づかず、その二、三日めの出頭の途上、『時事新報』の記者につかまって百合子との結婚のことをきかれた。「披露するか」という間いに対しては「正式発表はする。だが改まったブルジョア的披露宴はしない。」「年齢の差は……」というのには「取越し苦労はしない、思想的な一致があるから」という風に答えた。新聞は「赤い恋」式のロマンス風に扱っていたが、私たちは自分たちの前途に待ち構えている苦難を思って、そんな甘いばかりの話ではないのだという緊張がいつも去らなかった。

 山口県の故郷の方に手紙を書いて結婚を通知したが、親たちは相談がおくれたことや、年齢の差などについて不満であった。家の手伝いには知人の娘さんが来てくれていた。やがて、百合子たちの目白の家を手伝っていた長野からきていた十七、八の嬢さんが、中条さんと一緒にいたいといって手伝いに来た。この家は二階が八畳と六畳で、下が三間ぐらいで、小さい庭のある家だったが、今は空襲で焼けてしまっている。

 私たちは簡単な結婚通知を出したが、それは友人の壷井繁治や今野大力が印刷の世話をしてくれた。結婚通知に対して野上弥生子さんの葉書には、「双手をあげて賛成します」という言葉があった。作家同盟の友人たちのあいだで私たちの結婚の記念に、時計でも買ってやろうかという話があったそうであるが、実現する前に四月の弾圧でそれらの人びとのうちつかまる人もありそのままになった。

 古田中という百合子の母の従妹は、藤の花の鉢を贈ってくれて、それは玄関においてあった。この従妹がなくなったあと、百合子は「白藤」という回想を書いた。



 彼女はそのころ、作家同盟の婦人委員会、コップ(プロレタリア文化連盟)婦人協議会の責任者、「働く婦人』の編集、作家同盟の役員としての仕事のほか、講演や当時つくられはじめた文化サークルによばれて多忙だった。三月二十八日には長野県塩尻によばれて講演し、下諏訪の製糸工場婦人労働者の文学サークルに回った。

 一九三一年の秋の満州への侵略戦争の開始以来、軍国主義は熱病のようにたかまり、上海に侵略は飛火した。国際的にはナチスが台頭しつつあり、日本でも商業ジャーナリズムによってこのとき反共・反ソ熱も高められ、血盟団の活動も表面化していた。一九三一年のはじめから再組織された地下の日本共産党も侵略戦争反対を公然と掲げて『赤旗』を発行しつつ組織を拡大していた。東大学生の反戦デモ、横浜市電のゼネスト、東京地下鉄のスト等にみられるように、大衆の運動も鋭い突破点を見出していた。一九三一年末に結成された日本プロレタリア文化連盟は、各種の機関誌を発行して、精力的活動に移っていた。文化サークルを組織する新しい方針がきめられ、広く実行に移されつつあった。この文化運動の中に、日本共産党員の組織が伸びつつあった。

 二人とも外出の日が多く、来客はかなりあった。家をもって間もなく、二月十二日から五日間、神田の文化学院で作家同盟の文学講習会があった。二人とも出て話をした。その上二人とも書く仕事がうんとあり、私は『プロレタリア文化』、『プロレタリア文学』、『中央公論」への原稿を引きうけており、百合子も『婦人之友』の連載小説のほか、文化団体の機関誌や新聞などに約束していた。彼女はこの年の国際婦人デーの党のアピールもここで書いた。私たちはそれらの仕事をなるべく期日どおりに果たそうと努めた。ある夜も、どうしても徹夜してでも仕上げなくてはならぬ仕事がひかえていた。

しかし、私は猛烈にねむくなって何とも仕方がなくなった。そこで一ねむりして夜中におきて仕事をすることにした。百合子が起こしてくれるというのである。百合子は二時ごろに私を起こした。私も起きたが相変わらずひどくねむくてからだに力がはいらなかった。すると百合子は、渋い「青茶」をのんだらといって、作ってくれた。それはまったく目のさめるような渋さであり、私はやっとどうにか机に向かうことができた。この渋い青茶のことは、よくそれからも笑い話に出るくらい渋かった。百合子は睡眠時間が普通より長くいる方で、自分でもふざけて「おねむりブーコ」とよんでいた。それでいて、起きるときめた時間には不思議にちやんと目を覚ました。

 私のいた竹早町の下宿は、中気気味でいる六十すぎたおばあさんと、電話局に長くつとめて「判任官」待遇で交換手の監督のような仕事をしている、まじめで口数の少ない三十くらいの嬢さんの暮らしていた家の二階をかりていた。百合子もこの下宿に来ておしるこをご馳走になったことがある。その娘さんの姉さんが親のみとめない結婚をして家を出たというので、この嬢さんが親の世話をしていた。私が荷物をとりに帰ると、おばあさんは、「どなたが何とおっしやろうと私たちは良いご結婚だと思います」といって、祝いの言葉を言ってくれた。

私はこの下宿に、東大に籍をおいていた二年前からいた。貧乏で下宿代の払いもおそめになりがちな上、そこから一九三〇年の秋、本富士署に数日間引っぱられたこともあった。変わった友人の出入りも少なくなく、世間的にいえば迷惑な下宿人であったが、あまりいやな顔をされたこともなくすごしていたのである。それから間もなく、動坂の家にカリンの机が結婚のお祝いとしてこのおばあさん一家から届けられた。ごくつましい暮らしをしているこの人たちの厚意を私と百合子はとくに感謝をもって受けとった。



 そのうち、家から一町あたりの近くにある百合子の実家から二人に一度来いという話がしばしば伝えられはじめた。もちろんこれは言われるまでもなくこちらから行かなければならないのだが、まるで書生っぽの私には、こんな場合に着るような、いくらかしやんとした着物も洋服もなく、百合子も林町の家のお母さんの趣味など考えるとすぐ行こうと言わず、二人とも自然に足が渋って、なかなか「行こう」ということにならなかった。

そのうち、どうにか着るものも間に合わせることになり、三月二十三日の夜ややおそるおそる私たちは林町の家を訪れた。大きな玄関をはいり、廊下が長い感じで、食堂といわれていた日本間にはいると、大柄で立派な着物を着た六十近くの婦人が、大きな座り机の前に泰然と坐っていた。それが百合子の母だった。私は身の上を聞かれ、やがて母の歌を聞かされた。周囲には百合子の妹の寿江子や弟国男夫妻がいた。そのうち、「お父さまのおかえり」という言葉とともに、頭のはげた六十五、六くらいの年寄りがはいってきたが、それが百合子の父だった。私も普通ではなかったろうが百合子もやや照れた様子で話の間に、「お母さま、私たちこの通りよ」といって笑いながら甘え気味に、空の財布を出してみせたりした。母は「文芸評論を書く人だというので、もっと文士のようかと思ったらスポーツマンのようだね」といった。その夜は、私が好物というので「なべやきうどん」が夜食にとられて、皆でたべた。そして夜おそく私たちはそこを辞した。

あとで聞くと、母は「今度は百合子も幸福になりそうだね……」とも言っていたそうである。そして、間もなく、近くの私たちの家に一度是非来たいという申し込みがあった。私は来て貰ってもいいと単純に考えていたが、百合子は、母の扱いが大変だからと言ってなかなか日をきめなかった。そのうち、ある日、今から母が来るといって林町の家の自動車の運転をしていた江井という人がお祝いの盆栽をまずとどけてきた。その日『働く婦人』か何かのことで、友人が集まることになっていたかどうかして、百合子はあわてて、今日は予定があって具合わるいからといってことわっているようだった。私は来て貰ってかんたんにお会いしたらと考えていたが、百合子はかなり気持ちに負担を感じているようだった。

 林町の親たちは、もちろん単純に私たちの結婚をよろこんではいなかった。第一は、私も「赤」であり、これでは二人ともいよいよ「赤」が強くなるだろうということだった。父は、百合子を愛し、「いつかはお前たちのいう社会もくるだろうよ……」というような調子で、娘の熱心な説明や主張に対して抗論しようとはしないで、娘の一途な情熱を思いやりをもってみていたようである。しかし、娘がこのままゆけば、私とともにいずれ検挙され、苦しい目にあうだろうという予測がひどく父を苦しめていた。

百合子に対して父は、二人でスウェーデンに行かないかという提案をしていた。行くなら旅費やその他を積極的に援助してやるというのだった。スウェーデンは、いわゆる「民度」がたかく、人民が一般に富んで、共産主義思想発生の余地が少ないというのが当時の保守的世論であった。父は一言も「赤」でなくなれとは百合子に言わなかったが、父がほかならぬスウェーデンをえらんで提案していることは、父の心情を自ら告げていることだった。私たちは、微笑をもって父の「心情」を話し合ったが、もちろんはじめからこの提案が今の私たちにとって問題にならぬことであることは知れきっていた。百合子も私も、外国旅行ができるということ自体は楽しいさまざまの空想を刺激されるようだったが、それをスウェーデン行きと結びつけて考えることはできなかった。

「一九三二年の春」で、「宮本とシベリヤ鉄道を何日も乗ってみたい」と書いた百合子の心持ちには、父の提案をきいたとき「ソビエト同盟ならいざ知らず、スウェーデンでは」と二人が話し合ったことがいくらか反映しているかも知れない。母も、百合子が結婚でたのしそうなのを一面なんとなくうれしく思いながら、しかも二人が「赤」へと強く結合されてゆくことに、不安と反発は根強かったと思える。(この不安は、やがて百合子の検挙、私の地下運動への移行等によって決定的に私たちの結婚を解消さす努力へと変わっていったが。)



 毎日は、運動や執筆や往来、多忙さと新しい生活のたのしさにはずんで流れてゆくようで、親たちの不安の間題は、時折の私たちの話題となっても、生活にブレーキをかけるものとはなりえなかった。季節は冬の最中、二月の酷寒で、弾圧のくる兆候もあった。しかし、私たちの生活は、新しい運動と結婚の交響楽の中で、日々春のひびきを感じていたようだった。私たちは外出が多かったが、二人で一緒ということも少なかった。百合子は何といっても執筆の用事がたまっているので、どちらかといえばまだ私の方が出る度数が多かったろう。家に帰ると、かえって二人でくつろげることになるので、改めて二人づれで散歩というようなこともなかった。百合子はそれでも私より家での仕事時間が多かったせいか、一緒に散歩にでも出たいようだったが、私の方が外出に飽いているくらいなので、腰が重かった。

 そのうち一緒に外出するだけでなく、汽車にのらなくてはならぬことがおこってきた。三月二十六日に日本プロレタリア文化連盟に一斉検挙が行なわれた。動坂の家に出入していた親しい友人たちもその中にかなりはいっていた。三月下旬から四月にかけ、中野重治、窪川鶴次郎、壷井繁治といった人たちのほか、プロレタリア科学研究所の山田勝次郎、野村二郎らも検挙されていた。地下にいた蔵原惟人も四月のはじめ小石川方面のアジトで検挙された。

 四月四日夜、小林多喜二が私たちの家に来た。三人で最近の検挙の模様と見通しについて話し合った。

 私と百合子は、二、三日間国府津にいる百合子の父の家に行くことにした。父は国府津から東京の事務所に通っていた。

 国府津の家についたのは夜だったが、手伝いの若い娘さんが一人いるきりで父は帰っていなかった。海辺近くの丘にある開放的なスタイルでつくられたこの小さい家からは、夜の海がすぐ間近にひろがっていた。私は瀬戸内海の農村に育って、子どもの頃から海に親しんでいたので久し振りの海の空気をよろこんだ。その晩父は帰らないという電話がかかって、私たちは夜おそくまでホールのソフアーで話し、腹がすくとかんづめを煮て食べたりした。

翌日は時折砂浜を歩いたり、庭の芝生にねころんだりした。そのあいだにも党や文化運動弾圧の間題は、私たちの絶えない関心となっていた。陽春の晴れあがった空とあかるい陽光の中に広く沈んでいる海の美しさに目をむけつつも、いつの間にか東京の運動のことが頭を占領していることがたびたびあった。私たちは、場合によってはこれから離れ離れに暮らさなくてはならなくなることを話し合っていた。それだけに共にみる自然の風景は目にしみた。

 その夜父が帰ってきた。父は私たちの来たことをひどくよろこんだ。以前から一緒に国府津にでも遊びにこいと伝言していたからである。まず父は、どうして暖炉をたかないのかとききながら、自分から薪を入れた。そして「君たちは二人づれだから暖炉がなくても暖かいだろうが、年寄りは寒くてね」と私たちをからかった。父は二、三日ゆっくりすることをすすめ、明日あたり、箱根へでも一緒につれて行こうとしきりに誘ってくれた。しかし、私は、明日東京で人と会う約束があり、どうしても予定を変えるわけにはいかなかった。

 翌日、四月七日私たちは東京へ帰る汽車に乗り、途中で別れて百合子は家へ帰り、私は予定の人と会うところへ行った。そして、それが終わったあと彼女と会う約束の場所へ行ってみたが彼女は現われなかった。いくら待っても彼女の姿は見られなかった。彼女の身体に異変があったことを私は直感せずにはいられなかった。

 私はその夜家に帰らなかった。翌日、百合子の検挙を私は知った。検挙はさらに広範にひろがり、有力な文化活動家は次々にやられていた。彼女は家に張りこんでいた特高につれられて行ったのである。

 こうして私たちの動坂の家での生活は中断された。彼女にとってこれは新しい試練のはじまりであった。彼女が警察のあの留置場にすわっていることや、彼女に加えられる警察の乱暴な処置を考えると、私の心はきしむようだった。しかし私は、彼女がそれをよく耐え抜くだろうと信じて疑わなかった。彼女の決意と感情の深さをよく知っており、彼女が妻としてだけでなく、同志としてもまれにみる信頼のできる人間であることをよく知っていたからである。

 彼女は、それからの二十年にわたる共同の生活の、あらゆる困苦と波瀾にもまれつつも、基本的にこの最初の信頼を十分裏付けるだけでなく深めてくれた。事を処する上でのいくらかの失敗や錯誤は彼女にも免れなかったが、本質的に彼女は誠実な堅忍と愛情、知恵につらぬかれた勇気をもって、軍国主義と専制主義に圧服されることなく歴史の大道を歩んで行った。ただ、その道すがら彼女の遭遇したさまざまな苦難と彼女の健康にきざまれた傷は、彼女の今度の急逝(きゅうせい)の遠因となる大きな犠牲として今も私の胸をしめつけてはいるが──。
 ──『宮本百合子』(岩崎書店刊 一九五一年五月)に発表

(宮本顕治著「網走の覚え書き」新日本文庫 p166-180)

■━━━━━

編集手帳

 終戦の翌日、ひろ子は網走の刑務所にいる夫重吉に手紙を書く。一行、それだけ書けば心は足りる。「いつお帰りになるのでせう。書きたい言葉はその一行である」

◆宮本百合子の小説「播州平野」である。夫の重吉は政治犯として12年間、獄中で転向を拒みつづけた。のちに委員長や議長として戦後の共産党を指導する宮本顕治氏である

◆東大在学中に書いた評論「『敗北』の文学」は小林秀雄の「様々なる意匠」を抑え、雑誌「改造」が募集した懸賞の第1席に選ばれている。文名の頂点から獄中へ、中央政界へ、振幅の激しい昭和という時代を映した生涯であろう

◆宮本氏が98歳で亡くなった。風雪の刻まれた厳しい風貌(ふうぼう)が印象に残っている。主義や主張を是とするにせよ、非とするにせよ、昭和の「顔」のひとりに数えることには、おそらく誰にも異存はあるまい

◆共産党の顔はソフトな微笑の不破哲三氏から、実直な勤め人を思わせる志位和夫氏に引き継がれたが、党勢はいまだ低迷のなかにある。去りゆく人には心残りであったろう

◆百合子が獄中に宛(あ)てた手紙に、「だんだん自分の身が細まって矢になるような心持ちよ」とある。矢になって網走に飛んでいきたい、と(顕治・百合子「十二年の手紙」、筑摩書房)。百合子が世を去って56年、遠い時を隔てての再会である。
(「読売」20070719)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「毎日は、運動や執筆や往来、多忙さと新しい生活のたのしさにはずんで流れてゆくようで、親たちの不安の間題は、時折の私たちの話題となっても、生活にブレーキをかけるものとはなりえなかった……季節は冬の最中、二月の酷寒で、弾圧のくる兆候も……しかし、私たちの生活は、新しい運動と結婚の交響楽の中で、日々春のひびきを感じていたようだった」