学習通信070724
◎やっとわが声でものをいうことができる世の中に……

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宮本さんは反戦によって名誉を救った
訃報に接して 加藤周一

 戦後すぐの時期に、宮本顕治さんと雑誌で対談したときの印象はいまでも鮮明に思い出す。

 宮本百合子が「歌声よ、おこれ」を書いた解放感が社会にみなぎっていた。顕治さんはその渦中の人であり、獄中で非転向を貫いた十二年があったから、ほかの人をはるかに超える解放感を感じたに違いない。それは高みの見物ではなく、一緒にやろうという未来ヘの明るい希望に満ちた解放感だった。

 私の世代はよく知っているが、宮本夫妻の戦時下の往復書簡『十二年の手紙』は、日本のファシズムに対する抵抗の歌である。窒息しそうな空気の中で最後まで知性と人間性を守った記録である。

 歴史的記念碑ともいうべき宮本顕治さんの偉大さは十五年戦争に反対を貫いたことである。それができた人は、日本では例外中の例外だった。宮本顕治と百合子はあの時代にはっきりした反戦を表明し、そのために激しい弾圧を受けた。その経験なしには「歌声よ、おこれ」の解放感は生まれなかったろう。

 武者小路実篤は敗戦で虚脱状態に陥ったと言ったが、それは解放感とは逆方向のものである。宮本顕治・百合子夫妻とこの白樺派の人道作家の違いを表している。

 宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った。戦争が終わり世界中が喜んでいるのに日本人だけが茫然(ぼうぜん)自失状態だった時に、宮本さんは世界の知識層と同じように反応することができた。

 私が対談したときの宮本さんは穏やかで礼儀正しい人だったが、表情は精かんで、修羅場をくぐってきた人の自信と安定感があふれていた。私がこれまで見たなかでもっとも美しい顔の一つだったと思う。

 それは不思議と東大寺戒壇院の四天王の顔に似ている。仏を守るためにはいつでもたたかおうとしている四天王のように、断固とした強い意志を秘めた顔だった。

 直接お目にかかったのはその時一度きりだったが、その後の日本共産党の指導者としての彼が強調したことは二つあったと思う。

 一つは国内的な問題で、暴力革命の放棄である。先進資本主義国である日本の現状を分析した末に、武力による権力奪取が望ましい革命ではないと結論した。そこには理想主義だけではない現実主義者の一面があった。

 もう一つは国際的な問題で、平和とともに独立を強調したことである。それは最大の社会主義国であったソ連と第二の強大な社会主義国の中国からの独立だった。これらの国と友好的な関係を持つためにも隷属するのでなく、独立を守ることが大事だという考えだった。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」の考え方と似ている。

 死は誰にも必ず訪れるものだが、宮本顕治さんのような人が亡くなって思うのは、死は不合理だということだ。その死を正当化する理由は何もない。心から哀悼の意を表したい。(談)(評論家)
(「赤旗」20070721)

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歌声よ、おこれ
――新日本文学会の由来――

 今日、日本は全面的な再出発の時機に到達している。軍事的だった日本から文化の国日本へということもいわれ、日本の民主主義は、明治以来、はじめて私たちの日常生活の中に浸透すべき性質のものとしてたち現れてきた。

 民主という言葉はあらゆる面に響いており、「新しい」、という字を戴いた雑誌その他の出版物は、紙の払底や印刷工程の困難をかきわけつつ、雑踏してその発刊をいそいでいる。

 しかし、奇妙なことに、そういう一面の活況にもかかわらず、真の日本文化の高揚力というものが、若々しいよろこびに満ちた潮鳴りとして、私たちの実感の上に湧きたち、押しよせてこないようなところがある。これも偽りない事実ではないだろうか。

 この感じは、新しく日本がおかれた世界の道にたいする懐疑から生じているものでないことは明かである。われわれ人民が、理不尽な暴力で導きこまれた肉体と精神との殺戮が、旧支配力の敗退によって終りを告げ、ようやく自分たち人間としての意識をとりもどし、やっとわが声でものをいうことができる世の中になったことをよろこばない者がどこにあろう。日本は敗戦という一つの歴史の門をくぐって、よりひろく新しい世界人類への道を踏み出したのである。

 そういうことは、すべての人によくわかっている。そして、一人一人、もうすでに、外的な事情に押されながらにしろ、そういう方向に爪先をむけて進んでいる。しかも、歩きだしつつあるそれらの瞳のうちに、なにか自身を把握しきっていない一種の光りが見られるのは、なぜだろうか。

 社会全般のこととしていえば、この数ヵ月間の推移によって、過去数十年、あるいは数百年、習慣的な不動なものと思われてきた多くの世俗の権威が、崩壊の音たかく、地に墜ちつつある。その大規模な歴史の廃墟のかたわらに、人民の旗を翻し、さわやかに金槌をひびかせ、全民衆の建設が進行しつつあるとはいいきれない状態にある。

なぜなら、旧体制の残る力は、これを最後の機会として、これまで民衆の精神にほどこしていた目隠しの布が落ちきらぬうち、せいぜい開かれた民衆の視線がまだ事象の一部分しか瞥見していないうち、なんとかして自身の足場を他にうつし、あるいは片目だけ開いた人間の大群衆を、処置に便宜な荒野の方へ導こうと、意識して社会的判断の混乱をくわだてているのであるから。

 自由という名は耳と心に快くひびくが、食糧事情の現実は、わたしどもの今日に、饑餓と大書してそびえ立っている。開放と不安との間に、橋の架けかたを知らされずに近代を通ってきた正直な日本の幾千万の人々が、ひしめいているのである。

 文学が、こういう未曾有の歴史の場面において、負っている責任はきわめて大きい。そしてまた、文化・文学の活動にたずさわる人々の胸中には、言葉にあらわしきれない未来への翹望がある。それにもかかわらず、なんだか、前進する足場が思うように工合よく堅くない。すべり出しの足がかりがはっきりしない感じがあるのではなかろうか。自身にとっても、十分新らしかるべきものと予想されている日本の今日の文学を、どこから本質的に新しくしてゆけばよいのか、わかっているようでわからないのが、本当のところらしく見うけられる。

 日本の文学が、今日そういう足の萎《な》えた状態にあることは、まったく日本の明治文化の本質の照りかえしである。明治維新は、日本において人権を確立するだけの力がなかった。ヨーロッパの近代文化が確立した個人、個性の発展性の可能は、明治を経て今日まで七十余年の間、ずっと封建的な鎖にからめられていた。したがって、西欧の近代文学の中軸として発展してきた一個の社会人として自立した自我の観念も、日本ではからくも夏目漱石において、不具な頂点の形を示した。リアリズムの手法としては、志賀直哉のリアリズムが、洋画史におけるセザンヌの位置に似た存在を示してきた。

 一九一八年第一次世界大戦終了の後、日本にも国際的な社会変化の波濤がうちよせ、人間性の展開および文学の発展の基盤としての社会性の問題がとりあげられた。けれども、徳川末期から明治へと移った日本文学の特色の一つとしての非社会性がつよい余韻をひいていて、文化・文学の全面につねに反動の力が影響しつづけた。

 ところが十四年前(一九三一年)日本の軍力が東洋において第二次世界大戦という世界史的惨禍の発端を開くと同時に、反動の強権は日本における最も高い民主的文学の成果であるプロレタリア文学運動をすっかり窒息させた。そして、日本の旧い文学は、これまで自身の柱としてきたその反動精神によって、自身も根底からうちひしがれた。

 戦争強行が進むにつれ、反動文学者たちはしだいに軍人や役人めいた身構えをとって、大規模に文学者を動員し、さまざまの形で軍事目的に使った。ともに従順でないもの、戦争の本質に洞察をもつ者、文学を文学として護ろうとする者を沈黙させ、投獄した。

 過去の文学は、いまから六年ほど前「私小説」の崩壊がいわれはじめた時、死に瀕していたのであった。

 刻々とすさまじく推移せる世界と国内社会の動きを直感して、おそらくはあらゆる作家が、自分の存在について再認識を求められてきた。戦争は文化を花咲かせるものでないから、文筆生活者として生活の不安もつのった。それからの脱出として、既成の作家たちは、まじめに自分の人および芸術家としてのよりどころを、なにか新らしい力づよい情熱の上に発見しようとし、戦争をその契機としてつかもうとし、なにか新らしい文学ジャンルの開拓によって、たとえば報道文学、国民文学というような転開によって解決を見いだそうとした。

 しかしながら、その人々の心もちとしては、まじめであったそれらの試みも、日本の社会と文化とが半ば封建的で、ただの一度も権力にたいする批判力としての自主性、自身を建設する力としての自立性をもたなかった伝統にわずらわされ、つまりは戦争遂行という野蛮な大皿の上に盛りつけられて、あちら、こちらと侵略の道をもち運ばれなければならなかった。

 この過程に、明日への文学の問題として、きわめて注目すべきことが、かくされてある。それはそういう立場におちいった作家たちにしろ、あれだけ深刻な戦争の現実の一端にふれ、国際的なひろがりの前で後進国日本の痛切な諸矛盾を目撃し、日に夜をつぐいたましい生命の浪費の渦中にあったとき、一つ二つ、あるいは事態そのものについて、一生忘られない感銘をうけたことがなかったとは、けっしてけっしていえないであろう。自分のこれまでの人生なり社会なりの見かたを変えるなにかが加えられた、と感じる瞬間が必ずあったろう。

戦争については周知のような態度であった尾崎士郎のような作家でさえ、あわただしい雑記のうちに、印象が深められずに逸走してしまう作家として苦しい瞬間のあることをほのめかしている。

火野葦平が、文芸春秋に書いたビルマの戦線記事の中には、アメリカの空軍を報道員らしく揶揄しながら、日本の陸軍が何十年か前の平面的戦術を継承して兵站線の尾を蜒々《えんえん》と地上にひっぱり、しかもそれに加えて傷病兵の一群をまもり、さらに惨苦の行動を行っているのにくらべて、アメリカの近代科学性は、航空力によって天と地との間に立体的桶をつくり、立体的機動性をもって敏速に、生命の最小犠牲で戦線を進展させていることを描いている。

文章そのものが、ここでは、筆者のうけた正直な感銘深さを示していた。

火野にあってはただ一つその感銘を追求し、人間の生命というものの尊厳にたって事態を検討してみるだけでさえ、彼の人間および作家としての後半生は、今日のごときものとならなかったであろう。人間としての不正直さのためか、意識した悪よりも悪い弱さのためか、彼はそういういくつかの人生の発展的モメントを、自分の生涯と文学の道からはずしてしまったのであった。

 戦争のある段階まで、いわゆる作家的成長欲やその本質を自問しないで、ただ経験の蓄積を願う古い自然主義風な現実主義から少なからぬ作家たちが国内、国外にあれこれ動員された。

ところが、戦争が進むにつれ、軍そのものが、偽りで固めた人民むけ報道のためには、むしろ作家報道員を邪魔にしはじめたとともに、一般に、戦線視察にたいする作家たちの熱心がうすれてきた。どうして、作家たちが初期の期待をうしなってきたのであったろうか。

戦争の本質そのものの間に、人間として、作家としての良心に、眼をひたとむけて答えるに耐える現実がないことが感得されてきたからであろうと思う。

官製の報道員という風な立場における作家が、窮極においては悲惨な大衆である兵士や、その家族の苛烈な運命とは遊離した存在であり、欺瞞の装飾にすぎないことが漠然とながら迫ってきたからであろう。

 このことは各人各様に、さまざまの具体的な感銘を通して、普遍的であったに違いない。もし、そのモメントの価値を、各作家が日本の大衆の歴史的経験の一部として血肉をもって自覚し、それを表現しようと努め、しかも、それは絶対に許そうとしなかった強権とはっきり対面して立ったならば、今日、日本文芸の眺めはよほど違ったものとなっていたであろう。

開かれた扉の際の際まで、人民の意欲として生活的文学的創造の力が密集していて、それは奔流となってほとばしり、苦悩と堅忍と勝利への見とおしを高ならせたであろう。その潮にともに流れてこそ、作家は、新しい文学の真の母胎である大衆生活のうちに自身の進発の足がかりをも確保し得たであったろう。

 しかし、現実はこのようではない。作家の多くは、自己と文学との歴史的展開のモメントをとらえきれなかった。その原因は、個性と文学の発展の可能の源泉として、日本の民主主義文学の伝統が、積年の苦難を通してたえず闡明してきた文学における客観的な社会性の意義を、会得していなかったからである。文学において謙虚にまた強固に自己を大衆のなかなるものとして拡大しておかなかったからである。

 私たちは、今度の戦争において、わずか十六七歳の若者が、どんなにして死んでいったかを知っている。どれだけの父親、兄、夫が死んだかそれを知っている。さらに尨大な人々の数が、それらの人々がいかにして死に、自分たちは、どうその間を生きてきたかという事実を知っている。生きてもどったそれらの人々と、その人々を迎えている今日の日本の民衆のこころのうちに、いおうとするたった一つの感想もないと、誰が信じよう。

 多くの作家が、これまでの歴史性による社会感覚の欠如から、今日における自分の発展と創造力更新のモメントを逃がしているように、日本の人民は、智慧と判断を否定し、声をおさえる政策のために、明日死ぬかもしれないその夜の家信でさえ、無事奉公しています、とより書かされなかった。自分の感懐を、自分のものとして肯定する能力さえ奪われてきた。

 今日、ある程度文学的業績をかさねた作家を見ると、ほとんど四十歳前後の人々である。それからあとにつづく、より若い、より未熟ではあるが前途の洋々とした作家というものの層は、空白となっている。このことは、とりもなおさず、過去の文学の休止符はどの辺でうたれたかというきびしい現実を示す一方、この数年の間、日本の民衆生活内部にある若々しく貴重な創造力が、どれほど徹底的に圧殺されてきたかということを証明している。

 作家たちは、自分たちの生きている意義として、今日、真率な情熱で、自分がかつてとり逃した覚えがあるならば、その人生的モメントをふたたび捉えなおし、抑圧されてきた人民の苦き諸経験の一つとしてしっかり社会の歴史の上につかみ、そのことで生活と文学との一歩前進した再出発を可能としなければならない。民主なる文学ということは、私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然な働きをごまかすことなく映しかえして生きてゆくその歌声という以外の意味ではないと思う。

 そして、初めはなんとなく弱く、あるいは数も少いその歌声が、やがてもっと多くの、まったく新しい社会各面の人々の心の声々を誘いだし、その各様の発声を錬磨し、諸音正しく思いを披瀝し、新しい日本の豊富にして雄大な人民の合唱としてゆかなければならない。

 新日本文学会は、そういう希望の発露として企てられた。雑誌『新日本文学』は、人から人へ、都会から村へ、海から山へと、苦難を経た日本の文学が、いまや新しい歩調でその萎えた脚から立ち上るべき一つのきっかけを伝えるものとして発刊される。

私たち人民は生きる権利をもっている。

生きるということは、単に生存するということではない。

頭をもたげて生活するということであり、生活はおのずからその歌と理性の論議をもっている。

そして、それを表現する芸術こそ、地球上の他のあらゆる生きものの動物性から人間を区別する光栄ある能力であり、その成果によって私たちははじめて生きてゆく自分たちの姿を客観し得るのである。

そういう文学の砦《とりで》として『新日本文学』は創刊されようとしているのである。〔一九四六年一月〕
(「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社)

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