学習通信070727
◎基本的生活習慣の自立が……
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気持ちよい環境を自分でつくれる子に
物を大切にする、生産された物を大事にするということは、おとなになって労働を愛する人間になるということにつながる、昔も今も大事なしつけとされています。ところが、近ごろの子どもには、「消費文化」の影響もあって、物を粗末にしたり、物の整理をなかなかやらないという傾向がみられます。
では、どうしたら物の整理・整頓の習慣を正しく身につけさせることができるか、保育園や幼稚園の経験から考えてみることにしましょう。
まず、子どもをとりまく生活のなかで、物を整理する習慣がきちんときめられているばあいには、子どもは早くから身のまわりの物事を整理できるようになります。たとえば、乳児の集団保育などでは、二歳の子どもがハナ紙をクズカゴに入れると、一歳のヨチヨチ歩きの子どもでも、そんな行動をマネするようになります。
ですから家庭でも、集団生活であっても、物を整理するということがまず習慣化されているということが前提でしょう。さらに集団生活の経験を参考にしますと、だいたい自分の身辺を清潔にたもてる、自分の持ちものをキチンと処理できるようになる、自分の使ったものをかたづけられるようになるのは四歳くらいからで、そのころからひとりでできるようになります。
そして、このような基本的生活習慣の自立ができるようになってきますと、家族やグループの清潔の保持にも関心を示すようになります。友だちのものも処理できる、友だちの使ったものも片づけられるという習慣づけは三歳ぐらいからすすみ、五、六歳ごろで自立が達成されるようです。
なお、かたづけその他の習慣づけについては、よく「かたづけた?」「またちらかす」というようなことばだけの動機づけ(はげまし)が多いようですが、こうしたことばだけのしつけでは、あまり効果がないといえましょう。というのは、いろいろな習慣づけはからだの記憶であるわけです。したがってからだで覚えさせるということが、しつけの基本といえましょう。
まずおとながかたづけてみせる、次におとなと子どもがいっしょにかたづける、そして、おとながいっしょにやらないでもかたずけられるようになったら、簡単なことばの指示でかたづけさせるという段階をふむ必要があります。くりかえしますが、子どもにかたづけを要求する前に、おとなのかたづけが習慣化されていることがなによりも大切であり、清潔さが好きな子どもにすることです。
(近藤・好永・橋本・天野「こどものしつけ百話」新日本新書 p148-149)
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すでに暗示しておいたことであるが、動物も、人間ほどではないが、やはりその活動によって外界の自然か変化させる。
そして、動物がその環境のうちにひきおこしたこうした変化は、すでに見たように、この変化をひきおこしたものに反作用をおよぼしてこれを変化させる。
なぜなら、自然においては、なにものも、一つだけ孤立して生起することはないからである。
あらゆるものが他のものに作用をおよぼし、また遂にそれから作用をうける。
そしてわが自然科学者たちがもっとも簡単な事物をさえはっきり見ることができないのは、たいていは、この全面的な運動と相互作用を忘れるためである。
さきほど見たように、やぎはギリシアの森林の再生をさまたげている。セント・ヘレナでは、最初の渡航者が陸揚げしたやぎと豚が、この島のもとからの草木をほとんどまったく根だやしにしてしまい、こうして、あとからきた水夫や植民者のもちこんだ動物が繁殖できる基盤を準備した。しかし、動物がその環境に持続的な作用をおよぼすとしても、そのつもりなしにやることで、これらの動物自身にとって偶然の出来事である。
ところが、人間が動物からとおざかればとおざかるほど、自然にたいする人間の作用は、まえからわかっている特定の目標にむけられた、まえもって考えぬいた計画的行動という性格をますますおびるようになる。
動物は、ある地域の草木を根だやしにしても、自分では自分のやっていることがわからない。
人間が草木を根だやしにするのは、あとの空地に穀物を播くか樹木やぶどうを植えるためであって、そうすれば播いた種子の何倍ものものがそれからとれることを、彼らは知っているのである。
人間は、有用植物や家畜をある国から他の国へ移し、こうしていくたの大陸全体の草木や動物の生活を変える。
そればかりではない。植物も動物も、人為的に栽培され、飼養されて、人間の手で、もとの姿がわからないまでに変化させられる。
今日の穀物の品種の祖先にあたる野生の植物は、さがしているのだが、いまなお見つからない。
それ自体はなはだ種類の多い今日の犬や、やはり数の多い今日の馬の品種が、どんな野生動物の後裔であるかは、いまなお論争中である。
ついでながら、われわれは、動物にも、計画的な、まえもって考えぬいた仕方で行動する能力があることを、否定するつもりでないことは、いうまでもない。
それどころか、原形質が、生きた蛋白質が存在して、反応している──すなわち、外からの一定の刺激の結果として、どんな簡単なものにせよ一定の運動をおこなっている──ところではどこでも、すでに計画的な行動の仕方が萌芽として存在する。
そうした反応は、神経細胞はさておいて、細胞さえまだまったく存在していないところにも起こるのである。
食虫植物がその獲物をとらえるやりかたも、まったく無意識的なものではあるが、やはりある点では計画的であるようにみえる。
動物では、意識的、計画的な行動をとる能力は、神経系統の発達に比例して発達しており、哺乳動物ではすでに高い段階に達している。
イギリスのきつね狩りでは、きつねがその追跡者からのがれるために土地についてのその深い知識をどんなに正確に利用することを心得ているか、また、きつねがどんなによくあらゆる地形の利点を知っていて、足跡をくらますために利用するかを、毎日でも観察することができる。
人間との接触のおかけで高度の発達をとげた今日の家畜では、人問の子供とまったく同じ水準の狡猾な策略を、毎日のように観察することができる。
なぜなら、母胎内の人間胎児の発生史が、われわれの祖先の動物が虫から始まって幾百万年にわたってなしとげた肉体的進化の歴史を短縮してくりかえしたものにすぎないように、人間の子供の精神的発展も、同じ祖先の、すくなくとももっと時代の近い祖先の知的発展を、ただいっそう短縮したかたちで、くりかえしたにすぎないからである。
しかし、どんな動物のどんな計画的行動も、彼らの意志の極印を大地におすことはできなかった。
そのためには、人間をまたなければならなかった。
要するに、動物は外的自然を利用するだけであり、もっぱらその存在によってのみ外的自然に変化をもたらすのであるが、人間はみずから変化をもたらすことによって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。
そして、これが人間をその他の動物から区別する最後の本質的な差異であって、この差異を生みだすものは、またしても労働なのである。
けれども、われわれは、われわれ人間が自然にたいして得た勝利のことであまりうぬぼれないようにしよう。
このような勝利の一つ一つにたいして、自然はわれわれに報復する。
どの勝利も、はじめはわれわれの予定した成果をもたらしても、二次的、三次的には、まったく違った、予想しなかった作用をひきおこし、そのため最初の成果が帳消しになることも少なくない。
(エンゲルス著「猿が人間になるについての労働の役割」国民文庫 p18-20)
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◎「動物は外的自然を利用するだけであり、もっぱらその存在によってのみ外的自然に変化をもたらすのであるが、人間はみずから変化をもたらすことによって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配するのである」と。