学習通信070730
◎想像力は……
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文化としての子育て
人間の赤ちゃんは、生まれるやいなや、人間仲間が歴史的・社会的につくりだしてきた文化的環境──設備のととのった産院、医師や助産婦さんの介護、オムツに産衣に天花粉そして家族がなげかける愛のコトバ、等々──によってとりかこまれ、そのなかで成長していきます。そのなかでなければ育つことができないんですね。
チンパンジーの赤ちゃんでさえ、そのムレのなかにたくわえられている子育て文化に包まれないと成長していくことができないんだそうです。生まれてほどなくムレから(つまりムレの文化から)隔離されて育てられたチンパンジーは、自分の生んだ子どもをあつかうすべを知らず、気味わるそうにつついたりなんかしてるんですってね。やっと抱きあげてみても、逆さに抱いたりして、じきに床にほうりだしてしまったりするそうです。母ザル自体がそんな調子ですから、同様に育ったオスザルになると、赤ん坊をおもちゃにして目に指をつっこんだりする。これでは、とても赤ちゃんは育ちません。
それに反して、ムレのなかで育った母ザルの場合には、わが子をあつかうすべをちゃんと心得ている。それだけでなく、母ザル以外のムレの仲間が、母ザルにかわって赤ちゃんを抱いたり、はこんだり、毛づくろいしてやったり、あそんでやったり、というぐあいに子守りするんだそうです。そうやっているなかで、未来のわが子を育てるすべを身につけていくんでしょうけどね。
人間の赤ちゃんにくらべてもっとたくましいかたちで赤ちゃんが生まれるチンパンジーの場合でさえ、すでにこのように子育てが文化に依存するものとなっているわけです。「ねずみの子のようにぐにゃ、ぐにゃ」な状態で生まれる人間の赤ちゃんの場合には、チンパンジーの場合以上に文化のはたす役わりが決定的とならざるをえない道理でしょう。
ネズミのムレにだって文化はあり、子ネズミがムレの文化を習得する時期もちゃんとあるそうです。それは生後三〇日ごろから九〇〜一〇〇日くらいまでのあいだで、この時期に子ネズミは「社会教育、集団生活の手ほどきを与えられ……おとなたちの法則を学ぶ」(ジル・テリアン『ラトポリス』共立出版)といわれます。でも、それまでは──生後三〇日までは──ねぐらを一歩も出ず、もっぱら母ネズミの本能による保護のもとにおかれるわけです。子どもがおとなたちのなかにまじってしごかれるようになるまで、本能プラス個人の発明だけでわが子を育てあげられる自信のある親が、人間の場合いるでしょうか。
人間は文化を食べて生きる
まとめていえば、私はこう思うのです──人間以外の動物でも、とくに長期の集団生活をいとなむ哺乳類の場合、文化のはたす役わりはそうとうのところにまでおよびはするものの、それはなんといっても、本能(プラス個体の学習)のはたす役わりにくらべれば、なお従属的・副次的な比重しかしめないのにたいして、人間の場合にはその比重が逆転する、と。
「人間はパンだけで生きるのではない」という聖書のことばをなぞっていえば、人間は文 化を食べて生きる存在だ、といえるように思います。
赤ちゃんがお母さんの乳首に吸いつくのは、それは本能によるものだとしても、お母さんが乳首を赤ちゃんの口にもっていかないかぎり、赤ちゃんが自前でそれをさがしあてることはできません。そして、お母さんがそうするのは、本能でもって自動的にそうするわけではなく、文化にうらづけられた愛情でもってそうするわけです。だから、赤ちゃんは母乳とともに、愛情を吸い、文化を吸って育つ。──哺乳ビンで人工ミルクを、ということになれば、その関係はさらに一目瞭然です。
それから、ハイハイするようになると、赤ちゃんは、なんでもひろいあげて口にもっていきますね。食べられるものと食べられないものとのみさかいがない。他の動物だったらそんなことはしません。食べられるものとそうでないものとを区別する力が、本能的にそなわっているわけです。しかし、人間にはそんな本能はそなわっていないから、口にいれてまずいようなものは赤ちゃんのまわりから遠ざけておかねばならないし、食べられるものと食べられないもの、食べてはいけないものの区別を教えこんであげなければいけません。
それからまた、人間は、他の動物とはちがって、ナマのエサをただ口にもっていくというのではなく、調理してから食べます。「調理」というのは文化ですね。食だけではなく衣も住も文化。だから「文化を食べる」というのは、食生活についてだけいってるのではなく、もっとひろい意味で、いわば象徴的な表現としていってるのです。「文化によってプログラムされる」といってもいいでしょう。
「人間は考える葦である」とパスカルはいいました。たしかに「考える」ということは、他の動物から人間を区別する本質的な特徴の一つです。ところで、考えるためにはコトバが必要です。コトバなしに考えることはできません──感じることは一応できても。ウソだと思ったら、実験してごらんなさい。もちろん、口にだしてつぶやくか、心のなかのつぶやきにとどめるかは、このさい別間題ですが。
さて、このコトバというのは文化ですねもっとも基本的な文化の一つ、といえるでしょう。生まれながらにしてコトバがつかえる赤ちゃんなんてどこにもいやしません。文化をうけいれ、それによってつちかわれることをとおしてはじめて、人間は考えることもできるようになるのです。
(高田求著「未来を切りひらく保育観」ささらカルチャーブックス p38-42)
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潮流
のねずみのぐりとぐらが、森でみつけた大きな大きな卵でカステラをつくる。さあ、森の動物たちにもごちそうするよ……
▼『ぐりとぐら』(なかがわりえこ・おおむらゆりこ作)は、一九六三年以来読み継がれてきた、絵本の名作です。東京の保育園のお遊戯会で、子どもたちが演じることになりました。ある女の子はキツネの役に。でも実は、原作の絵本にキツネは出てきません
▼ちょっと残念そうな彼女。こんなとき、親はどんなふうに話しかけるでしょうか。彼女のお母さんはいいました。「このクマさんの後ろにキツネさんがいるんだよ。絵本に入りきらないくらいたくさんの森の動物が集まったんだね」
▼森の豊かさを想像する力が備わり、子どもの心によりそえるお母さん、と思います。娘さんはいま小学二年。お母さんは田村智子さんです。東京選挙区の日本共産党の候補として、都内をかけ巡っています
▼先日、北九州市で痛ましいできごとが明るみにでました。五十二歳の独り暮らしの男性が、生活保護を打ち切られ餓死していました。日記に、「おにぎり食べたい」と書き残して。田村さんが、演説で告発しています。福祉切り捨てだけではありません。「そのおにぎり一個にも消費税をかける。そんな消費税の増税をどうしてもやめさせたい」と
▼田村さんの想像力は、おにぎり一個に、罪深い政治の姿を丸ごととらえます。そして、無念の死にいたった男性になりかわっての気迫の訴え。日本は、こんな政治家をまっています。
(「赤旗」20070725)
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◎「文化をうけいれ、それによってつちかわれることをとおしてはじめて、人間は考えることもできるようになる」と。