学習通信070731
◎生きたゼミナール……

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参議院選挙の結果について
二〇〇七年七月三十日
日本共産党中央委員会常任幹部会

──略──

 一、今回の選挙での自公政治にたいする国民の審判は、それにかわる新しい政治の方向と中身を探求する新しい時代、新しい政治的プロセスが始まったことを意味するものです。この選挙の結果は、自民・公明の政治にかわる新しい政治はなにか、という問題について、国民の選択が明らかになった、ということではありません。国会論戦でも、国政選挙でも、国民の声にこたえる新しい政治とはなにかという問題が、ますますその比重を大きくしてゆくだろうことは、疑いありません。

 新たに迎える政治的激動の時期において、日本共産党の役割はいよいよ重要なものになるでしょう。そうした自覚のもと、日本共産党は、この選挙で掲げた党の公約を実現するために、国会の内外で力をつくします。また、激動する政治に主導的に対応できるよう、政治と理論のうえでも、また組織のうえでも、より強く大きな党をつくるために全力をあげて努力するものです。

 そして、新たな国政選挙を迎える次の機会には、政治の本当の改革者の党、新しい政治の建設者の党として、かならず前進・躍進を期す決意です。
(「赤旗」20070731)

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学問とは問うことを学ぶこと

 真下信一さんが『赤旗』(一九七三・四・二九)で、「学問──いいことばだと思いますねえ。問うことを学ぶ──りっぱな日本語です」と語っている。そうだ。学問とは、問うことを学ぶことなのだ。

 真下信一さんは哲学者である。かれが学問とはなにか、ということを学んだのは、教室の授業のなかではなかった。それは、一九三三年におこった滝川事件のなかであった。

 「ぼくはこのとき学問と文化、学問と政治政関係や、学問とは何ぞやを本当に学べたんですよ。滝川事件は最高の。生きたゼミナールだったなア」

 そして、かれが、学問とは何ぞや、を本当に追究していったのは、書斎のなかではなかった。『世界文化』誌に参加して治安維持法で逮捕され、一九三七年十一月から一九三九年九月までとじこめられていた獄中においてであった。かれは未決の獄中で、つぎつぎとドイツ語の原書を読破していった。

 むかしの人は幸福だった。獄中や亡命先で、かれらはいやおうなしに学問を追究できたのである。マルクスも、レーニンもそうだった。

 戦後の疾風怒濤の時代に学生時代をおくったぼくたちはちがう。ぼくたちは、学生時代には、勉強する暇がなかった。上田耕一郎氏も、どこかでかいていたが、大学時代には教室に出る時間がなかった。レッドパージ反対闘争などで、一日中、学生自治会室にとじこもっていたり、東京中をとびまわったりしていた。

 だが、昔の人たちをうらやましがっていてもはじまらない。ぼくたちは、ぼくたちの生活の条件のなかで、学問とは何か、問うことをどう学ぶのか、を考える時間をつくりだすほかない。
(加藤文三著「学問のすすめ」地歴社 p3-4)

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京大事件
ねらわれた自由の砦
──前田一良

 一九三三(昭和八)年の京大事件について、学生の立場から書けという注文であるが、わたしにはむずかしい。

第一に戦争末期に召集をうけ、「沖縄要員」であることを知らされたとき、身の回りのものをすべて処置して入隊したため、当時の日記、メモ等の直接的資料がなく、当時の各学部学生の動きや学部学生の合同大会等について、当時の新聞記事を追ってみても、すでに四十二年経った今日、どの会議、どの大会に出席したのかを確かめることさえ不可能である。したがって「学生の立場から」などと、学生を代表するようなことはいえたものではない。

第二に当時史学科の院生だったわたしたちに、はじめて呼びかけたのは美学の中井正一氏であり、終始行動を共にした同僚は清水三男氏であるが、二人ともすでに亡く、またわたしたちの運動をおさえた史学科の教授たちもすでに故人となっているために、いまそれらの人々の言動を一つ一つとり上げて書くことなど、わたしには堪えられないところである。

 それにしても、平凡な一学生として聴講と読書に過ごしていたわたしにとって、京大事件は旧制高校時代の「思想善導講演」につづいての第二の衝撃的な事件であり、政治や社会、人間に対するそれまでの考え方を根底からつきくずし、二十六歳の青年の胸に「人間いかに生くべきか」を教えたものであった。その教訓は古稀に近づきつつあるわたしのなかにいまもなお鮮烈に生きている。

自由主義的思想すら絶滅ヘ

 京大事件を詳細に知ろうとする人々のためには、この事件のさなかに、京大全学部学生代表者会議が出した「京大問題の真相」、同年十一月に刊行された退官七教授による「京大事件』(岩波書店)があり、また当時の諸新聞によってその経過を追う必要があるが、戦後のものとしては、松本清張「京都大学の墓碑銘」(『昭和史発堀』6)、塩田庄兵衛「大学自治の墓標」(『昭和史の瞬問」上・所収)がある。

 京大事件とは一ロでいえば、天皇制国家権力が、滝川幸辰教授の刑法学説を反国家的なものであるとして、同教授の辞職を要求したのに対し、法学部教授団と学生が大学の自治、思想、学問研究の自由を守るために抵抗し、ついに国家権力の前に壊滅させられた事件ということができよう。しかし、これが昭和史のなかでどういう意味をもつものであるかについては、少なくとも昭和初年(一九二六)から敗戦にいたる時期を視野に入れておく必要がある。

京大事件にいたるまでの事実をおおまかにたどってみても
一九二六年 京都学連事件。学生、生徒の社研禁止(文部省通達)
  二七年 金融恐慌
  ニ八年 三・一五事件。学生、生徒の思想匡正、国民精神作興(文部省訓令)。京大河上、東大大森、九大石浜、佐々、向坂諸氏の大学追放。済南事件。張作霖爆殺。死刑を含む「治安維持法改正」(緊急勅令)
  二九年 四・六事件。文部省思想対策を強化(勅令)。教化動員。憲兵司令部思想研究班編成
  三〇年 昭和恐慌
  三一年 三月事件(軍部によるクーデター未遂)。黒竜会中心の右翼合同──学生愛国連盟(右翼組織)。満州事変。
  三二年 上海事変。血盟団事件。五・一五事件
  三三年 長野県教員赤化事件。国際連盟脱退。ナチス政権獲得。京大事件
  三五年 「天皇機関説」事件

 にみるとおりであり、金融恐慌から国内における思想統制の強化、軍部・右翼の拾頭、大陸への侵略、それに政党間の対立、軍部派閥間の対立や、他の国には見られない「教育における勅令主義」、軍部における「統帥権の独立」などが複雑に絡み合って日本型ファシズムヘと進行し、その進行の過程で自由主義的思想を絶滅するためにひきおこされたのが、京大事件であったといえるだろう。

「危険思想をもつ赤化教授」

 四月十日に滝川教授の刑法講義、刑法読本が発禁となってから二週間後、文部省は「刑法読本の中に流れているイデオロギーは大学教授として政府及文部省の意志に反している」として善処を要求し、五月に入ると文部大臣鳩山一郎は、「教授が連続辞職するならそれを認め、この種の思想問題のためなら学校閉鎖も辞せぬ」と高圧的態度をしめし、さらに「赤化教授を駆逐することは、文部省の方針のみでなく内閣全体の方針である」とし、滝川教授が辞表を出さなければ、分限委員会へ諮問して休職発令を強行するとおどした。

そして五月二十日になると鳩山は「滝川処分では絶対に譲歩しない。処分理由はただ危険思想を持つ教授を排除することにある」といい、首相斎藤賞「文部省の方針どおり断行する」と発言し、ついに二十八日の休職発令、同時に法学部教授の辞表提出となって、京大事件はそのクライマックスに達するのである。

 刑法読本の中を流れるイデオロギーは政府文部省の意志に反する」といっていたのが、やがて「赤化教授」「危険思想をもつ教授」といいかえられ、さらに六月七日になると、「滝川教授の思想は明らかにマルクス主義であって安寧秩序を乱し、淳風良俗を害する」と発表したのはまさに噴飯ものであるが、文部省をしてこう言わせた力は何だったのか。事件の経過をたどってみると、政友会は、はやく文部省の方針を支持し(五月十七日)、民政党もこれにならい(五月二十五日)、貴族院の公正会は滝川教授をマルキストときめつけ、全国学務部長会議は文部省を支持して「滝川罷免を断固遂行すべし」と決議した。

 休職発令後、六月二日には陸海軍予備将校の団体である恢弘会が会長大井成元大将の名で「共産思想に感染の教授は悉く罷免せよ」という「大学粛正に関する進言」を発表し、つづいて荒木陸相が「研究の自由という言葉も、時代の変転から超越することは喜ぶべきことではない」と語ったことなどを見るとき、京大法学部を壊滅させたものが、軍部・右翼とこれと結んだ政党であったことがはっきりする。

右翼思想家が背後で画策

いまひとつ問題がある。出版後一年ないし五年間何のこともなかった「刑法講義」や刑法読本』が突如として発禁となり、それが京大事件の発端となったその直接の動機は何だったかという点である。松本清張氏の「墓碑銘」には、右翼理論家の蓑田胸喜が大で講演したとき学生たちに猛烈にやじられ、それ以来当時の講演部長だった滝川教授に私怨をいだいたことが書かれている。じつはわたしもその講演を聞いた学生のT一人だった。これが発火点になったものであるとはその後ながい間知らなかったのである。運動の渦中こあった者として、「木を見て森を見ず」の感なきをえない。

 この点を確かめようとして、退官七教授の唯一人の生存者である末川博先生をお訪ねしたとき、先生はこの件にふれて「わしのあと、無理に滝川君に頼んで講演部長を引受けてもらったところが、とうとう、あの事件になった。ずっとわしが講演部長をやってたら、滝川事件じゃなくて、末川事件になっていたかも知れん」と話された。名言である。蓑田にとっては滝川でも末川でもよかったはずだ。自由主義の牙城、京大法学部を血祭りにあげればいいのだから。蓑田は二五年に三井甲之と「原理日本社」を結成し、三四年には東大の末広報太郎を治維法違反、不敬罪、朝憲系乱罪で告発した男であり、のち天皇機関説事件で大きい役割を演じた男である。
 松本清張氏はこう書いている。
 「京大滝川事件に火をつけたのは右翼の理論家蓑田胸喜だ。蓑田は滝川を落して意気軒昂、その余勢を馳って、今度は美濃部の機関説に向ったのである。もとより、それは蓑田個人の意志だけではあるまい。彼が滝川の血にぬれた同じ矛をもって美濃部に突進したのは、平沼系と軍部をとりまく右翼の意向を代表したものだろう。またそれには亡き上杉慎吉の七生社のメンバーも陰に陽に加勢したかも分らない」

 こう見てくると、京大事件は敗れるべくして敗れたたたかいであったともいえるであろうし、たたかいの中心となった法学部教授団の「大学の自治、研究の自由」に対する考え方にも時代的制約のあったことは当事者たちの回想するとおりであろう。

しかし、その時代的状況のなかで、法学部教授団も法学部学生もまたそれを支持した各学部学生も、じつによくたたかった。多くの新聞も正確に報道し、社説や論説において、事件の本質に対する正しい洞察を示して鋭い批判を試みた。

東大、京大の対立意識から、東大教授団は積極的に動かず、京大内部においてすら、経済学部も文学部も教授団は積極的に動かず、かえって評議会による収拾策を弄したことさえあったが、そうした状況のもとで学生たちが「大学の自治、研究の自由」のために終始一すじに行動した事実は特筆すべきことであろう。恒藤恭教授の言葉のように「学生諸君は事件の本質を見抜いていた」のである。

文学部大学院生会議が決議した「現在の日本は、あたかもナチスに文化を破壊されつつあるドイツと同様である。研究の自由と文化の向上のために奮起しなければならない」との言葉は、いまもわたしの心をえぐるのである。

 それだけに、「こういう問題に対しては史学科の学生こそ真っ先きに立ち上がるべきだ」と言っていたわたしたちの指導教授(新聞部長)が、事態の推移のなかで「法学部がほろびても京大はほろびない」と放言して、わたしたちに運動の中止を警告し、新聞部長の立場からは『学園新聞」に京大事件の報道禁止を命じたことや、法学部教授団からつぎつぎと脱落者が生じて、いわゆる残留組が出現したことは、わたしたちの心を奈落の暗闇につきおとした。そして「学者、教育者の節操とは何か」という問題を真剣に考えさせることになったのである。

現在も生きる法学部圧殺の力

 あれから四十二年が過ぎた。走りまわって二度目の喀血に苦しんだこともいまは夢のようである。しかし、文学部教授団の態度がにえきらないといって、清水三男君と二人、雨風のはげしい夜、まっくらな鴨川堤を上賀茂の羽田文学部長の宅まで訪ねて行ったこと、法経大教室で総辞職の法学部教授団を迎え、宮本部長の淡々たる訣別の言葉に友人と肩をくんで号泣した五月二十六日。さいごの望みを総長の東上に托して、小西総長を京都駅に見送った六月八日夜のことなど、忘れようとしても忘れられない青春の体験である。

 京大事件は四十二年前の出来事である。しかし法学部を圧殺したあの「力」は現在なお生きている。いや、よそおいを新たにして民主主義に挑戦しているのではないか。(一九七五年記)
(京都民報社編「近代京都のあゆみ」かもがわ出版社 p269-275)

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◎「それにかわる新しい政治の方向と中身を探求する新しい時代、新しい政治的プロセスが始まった」と。