学習通信070801
◎私の如きものは、階級闘争の激化の浪に揉まれなければ……
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第二章 戦後の目線
(I)
「先生は、日本は負けるて、いっつも言うてはったわ、林先生の言うとおりになったね」
「なんで林先生は、あの戦争が負けるって解ったのかな。不思議でしょうがない」
「私はずっと前から、戦争はもうすぐ終わるって、先生に教えてもらっていたのよ」
「あら、ずっと前って、いつのことなん。一人だけええ子(いい子)≠ノならんとき」
看護婦たちは、寄るとさわると、「林先生」の噂をした。
看護婦だけではない。医者仲間でも林の人望は抜群だった。
医局の中での「人間模様」は、大学の医学部を卒業したエリートをはじめとして、医師資格取得の道筋には、男子の医学専門学校卒業者、女子医学専門学校卒業者とが混在し、それぞれを区別する複雑で、差別的な給与体系があったから、それらが影響して微妙な関係を作っていた。しかし、林はエリートコースを歩んだ経歴を鼻にかけるような言動はまったくなかった。
研究熱心で、医学についての確かな理論と実践を目の当たりにして、どのような立場にいる医師たちも、林を信頼している。
相対的に女性医師の身分は、女性というだけで故もなく低く置かれがちだったが、林は公然とそうした風潮を批判し、タケ子のように意欲的な後輩の指導に惜しみなく、面倒がらずに、心血を注いだ。
その結果、医者たちは「誰にでもできることではない」と林を尊敬しつつ、メキメキと腕を上げるタケ子の様子を、驚愕しながら見守った。
分け隔てなく誰にでも声をかける林の人柄は、電気室、清掃係などといった現場の労働者にも知れ渡っていた。
林は、戦争が終わるや、長らく胸に秘めていた、ある計画を実行した。
千石荘病院に労働組合を結成する準備である。
労働組合を作る意義を次のように話した。
「国民病といわれる結核とたたかうには、戦争で悲惨な状態に陥っている病院の現実に目を向け、医療活動を前進させなければならないが、そのためには、関係者がお互い尊重しあう、民主的な集団として成長する必要がある。まずは、働く条件を向上させるたたかいを通じて、自覚を育て、みんなで考え切り拓く体制を実現させることだ。その基礎を作りたい」
林は千石荘病院での自分の存在意義を、そこに見出していた。
今まで、親しく話をする人たちには「もうすぐ戦争は終わる。この戦争は間違っている、そう見抜く賢さが大事だ」と言ってきた。
これからは「戦争に負けてもきちんと賢く生きるために、労働組合を作ろう」と言うことにした。
そして、これまでの付き合いで、信頼のきずなができた何人かには、医者は言うに及ばず、看護婦や技術職、現業労働者などに、
「労働組合をつくる相談をしよう、力を貸してくれるかい」
と持ちかけていた。
この医局長・林の人となりについて、若干ふれておく必要があるだろう。
林喜彦の出身は、長野県下伊那郡伊那町(現・伊那市伊那)で、父は教師を経て町長になっている。
長男として生まれたが、病弱で中学生の頃結核のため一年休学をしたことから、結核を治す医者になりたいという気持ちが起きて、名古屋の八高から、京都大学医学部へと進学した。
大学で自治会活勤をする傍ら左翼運動に関わるようになり、社会主義運動の学習サークルで、後に日本共産党国会議員となる川上貫一と出会い、大阪市東成区猪飼野(現・生野区)の無産者診療所で学習を重ね理論誌などを発行した。
当時の民主的な大学人の間で全国的にたたかいが広がった「京都大学・滝川事件」をたたかい、やがて官憲に追われるようになる。妻りつと結婚後、鳥取市立病院に就職するが、学生時代に日本共産党にカンパを渡したという「治安維持法」の目的遂行罪で検挙投獄される。
その後兵庫県城崎町(現・豊岡市城崎町)の産業組合病院で働いたのちに、千石荘病院に赴任する。
千石荘病院の話があったとき、なぜ、月給二百五十円の総合病院から百五十円という条件のよくない千石荘に移る気になったのか、そのエピソードが、いかにも林の人柄をよくあらわしている。
「城崎では二百五十円もらえたから、借金していた裁判費用を全部返すことができてよかった。
千石荘は百五十円だが、結核療養所だから幼い頃苦しんだ病気であり、働き甲斐がある。何より尊敬する川上さんが居る大阪で働けるのは願ってもない。移るべきだ」(林喜彦の歩んできた道『とべよ鳩よ』より)
夫が警察に追い回され、拘置所にぶち込まれ、莫大な裁判費用を捻出し、内職に明け暮れていた妻りつは、その間に五人の子をもうけ、子育てにも追われていたが、それを苦に思うことがない。
いつも、喜彦の理解者として生活することに、幸せを感じていた。この夫婦は、お互い、心根が「似た者同土」であるらしい。
林はそんな妻を、大事にした。
余談ではあるが、戦争中自分の実家へ家族を疎開させていた林に、看護婦の中には人柄を慕うあまり、前後の見境なく恋心を募らせてしまうこともあったらしいが、林はそういうものにはまったく関心を示さなかったという。
(稲光宏子「タケ子」新日本出版社 p41-44)
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京大滝川事件
事件の発端は、昭和七年(一九三二)十月、中央大学での「復活にあらわれたトルストイの刑罰思想」という講演で、教授滝川幸辰がトルストイの思想を紹介し、犯罪は国家の組織に欠陥があるから生ずるのであり、刑罰を科するのは矛盾であるという見解を紹介したことである。これが共産党擁護、政府批判の講演として検事総長林頼三郎の耳にはいり、法務大臣小山松吉・文部大臣鳩山一郎に報告され、滝川の辞職要求という間題になった。このときは、法学部長宮本英雄が上京し、講演内容だけを説明し、講義内容は学問の自由なので調査できないと明言して、いちおう間題は解決した。
ところが昭和七年末からの共産党事件の検挙のなかで、各地の地方裁判所にまで共産党の資金網がひろがっていることが発覚した。蓑田胸喜・三井甲之らの原理日本社は『司法官赤化事件と帝大赤化教授』というパンフレットを発行し、司法官が赤化するのは司法試験委員のなかに赤化教授がいるからだと論じたてた。昭和八年二月一日、政友会代議士宮沢裕は衆議院で赤化教授の即時罷免を要求する演説をし、滝川の著書を問題にした。三月二十四日の衆議院本会議では「思想対策決議案」が可決され、司法当局は滝川に司法試験委員の辞職を要求した。滝川も、たのんでまでやりたくはないといって辞職した。
四月十日に滝川教授の『刑法講義』『刑法読本』が発禁となった。発禁理由は滝用の刑法論の「客観主義」と、内乱罪・姦通罪に開する見解にあるとされた。二週間後の四月二十二日、京大総長小西重直が文部省によびだされ、「刑法読本のなかに流れているイデオロギーは大学教授として政府及文部省の意志に反している」として滝川の辞職をとりはからうことをもとめられた。
五月六日、文部大臣鳩山一郎は「もし教授が連袂(れんぺい)辞職するならそれを認め、学校閉鎖も辞せぬ」と高圧的態度を示し、滝川教授が辞表をださなければ、分限委員会へ諮間して休職発令を強行するとおどした。
五月十日、京大法学部教授会は、研究の自由と大学の自治をまもる立場から、文部省の要求を拒否する声明を発表し、十八日、小西総長は文部省の要求を拒否した。五月二十一日、鳩山文相は「絶対に譲歩しない。処分理由はただ危険思想を持つ教授を排除するにある」といい、首相斎藤実も、「文部省の方針どおり断行する」と発言した。
ついに二十四日の分限委員会で滝川教授の休職処分が決定され、同時に法学部教授以下副手にいたる全員の辞表提出となって、京大事件はそのクライマックスに達した。
学生は法学部がまずたちあがり、経・文・医・農各学部がつづいた。出身高校別代表者会議が組織され「滝川教授の休職を取り消せ」「鳩山文相の引責辞職」「学園の自治擁護」「研究の自由擁護」のスローガンで運動が展開された。七月一日には全国の官立・私立合計一一大学加盟の大学自由擁護連盟が結成された。
京大事件は、六月十六日の小西総長辞任までは文部省対京大法学部、文部省対全京大という学問の自由、大学の自治をめぐる闘争であったが、総長改選で理学部教授松井元興が総長に就任し、七月十日、滝川幸辰・佐々木惣一・末川博・宮本英雄・森口繁治・宮本英脩の六教授の辞表進達、翌十一日の六教授の免官発令、二十日の鳩山・松井解決案の提示以降は、京大法学部は分裂し、別の段階にはいった。
解決案とは「今回滝川教授につき文部当局の採られたる処分は非常特別の場合にして文部当局が教授の進退を取扱うにつき総長の具状によることは多年の先例に示す通りなりや」という松井総長の質問に対し、文部省が「然り」と答えたものであった。しかし滝川教授の処分を非常特別の場合として認めることは、将来も同様の特別の処分があり得るということであった。
恒藤恭・田村徳治両教授と黒田覚・岡康哉・大岩誠・西本頴・大隅健一郎・佐伯千扨の六助教授が解決案を拒否して退職した。しかし末広重雄・中島玉吉・山田正三・鳥賀陽然良・牧健二・渡辺宗太郎・田中周友の七教授と近藤英吉・斎藤武生の二助教授が留任の態度をとった。
七月二十八日、新法学部長中島玉吉は教授会を開いて「一、人事行政に関しては学生は一切教授会を信頼せよ、二、法学部学生の中央部を即時解教すべし、三、法学部教室の使用を禁止する」の三項目を決定し、学生に申しわたした。そして七月三十日から京大に応援にきていた大学自由擁護同盟関係者と京大の中央部関係者の検挙が開始された。『京都帝国大学新聞』でも八月六日以降、新聞部長西田直二郎が京大事件の報道をいっさい禁止した。
当時事件の渦中にあった久野収は「京大事件の一番目立った特色は危険思想の内容がもはや共産主義やマルクス主義といった嫌疑にあるのではなく、国家の現状を百パーセント肯定せず、いわゆる国家に批判的な態度をとる学者たちの思想内容に及んできたという事実」である、と回顧している(「ファシズムの勝利」『抵抗の学窓生活』)。
(井ヶ田良治・原田久美子「京都府の百年」山川出版社 p180-183)
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昭和三年に大学を退いた後、昭和七年になって、私は、ずっと以前から着手していた『資本論人門』を、原著第一巻の全部に亙(わた)って完成し、これを改造社から公刊することが出来た。しかし私の書いた本でこれくらい売れずにしまったものはない。そしてそれは、遂に私の生前における最後の著作となった。
昨年の冬、友人滝川幸辰君の需に応じ、同君の蔵するこの書の巻尾に書いた次の一文は、私がかく言うことの脚註となっている。
「この著書を公刊した当時の私は、すでに自分の年齢を超ゆるほどの数に上ぼる著作を公にしていたが、その大半は発行後間もなく絶版にしてしまったほどで、安んじていつまでも世人の閲に供しうるものと自信していた著作は、一つもなかった。ただ最後に仕上げたこの『資本論人門』こそは、いくらか長き寿命を保って、暫くは世用を成しうるであろうと、自信していたのに、私の著書のうちでは、かえってこの書のみが最も薄命なものとなりおわった。
この書の製本の出来上がったのを初めて手にすることが出来た当時の私は、すでに地下に潜んで、陽の光すら避けて居ねばならぬ身となっていた。それは私の一身にとっても、また我国におけるマルクス主義の理論的及び実践的運動に対しても、最後の徹底的な大弾圧の下される前夜であった。誠に数百部(あるいは十数部であったかも知れない)刷って出して見たこの書は、忽ち発売を禁止された。恐らくその世間に流布せし部数は、極めて少いであろう。後に、その筋から注意を受けた多くの個所を尽(ことごと)く伏宇にして、改版本を出すに至ったが、時すでにおそく、間もなく一切の左翼的文献は、薄い桃色程度のものまでが、尽く古本屋の店頭からすら姿を消さねばならぬ世の中となったので、この改版本の方もまた、何ほどの部数も出さずにおしまいになった。
もしこの書が十年早く、少くとも五年早く、出来上がっていたならば、著者はいささかその本懐を遂げ得たのであるが、残念なことに、著者の半生が殆どそのために費されたといってもよいこの書は、かくも薄倖な運命に終ったのである。
昭和十七年冬、晩餐に招かれ滝川学兄の邸に至りし夕、たまたまこの書の初版その書庫に存するを見、感慨少からず、乃ち需に応じ巻尾に題することかくの如し。」
大学における私の講義がやっと物になった瞬間に、私は大学から追放され、また私のマルクス主義に対する理解がやっと物になった瞬間に、私の書いたものは最早や世間に流布することが出来なくなったということは、しかし、偶然なことのようで決して偶然ではない。鈍根、私の如きものは、階級闘争の激化の浪に揉まれなければ、到底マルクス主義の真の理解に到達しえなかったのであるが、すでに階級闘争の激化の浪が脅迫的な姿をもって立ち騒いで来ると、その存立の基礎を震撼される支配階級は、もはや一刻たりとも、マルクス主義に対する真実なる理解の流布を、黙過することが出来ないのである。
日本では、昭和二年末から昭和三年一月にかけての総選挙運動の際に、初めて日本共産党が公然その姿を大衆の前に現わした。かくて同年三月十五日には、いわゆる三・一五事件──全国に亙り数百名に上ぼる共産党員ならびに共産党関係嫌疑者の一斉検挙──が勃発し、その余波を受け、私は間もなく大学を退くことを余儀なくされたのであるが、それと同時に、少くとも経済学の領域においては、大学における研究の自由も、研究発表の自由も、永遠に閉鎖されることになった。それは日本の学界、思想界における一大転換を劃したもので、それ以来弾圧は加速度的に強化され、三、四年経つか経たぬうちに、一切の左翼文献は残らずその姿を消さねばならなくなったのである。
らくに物が言え、らくに物が書かれるような、雰囲気の裡にいるかぎり、鈍根、私の如きものは、到底マルクス主義者として自分を仕上げることが出来なかったのだから、やっと自信をもち得た瞬間には、もはや講義も出来なくなり、やがて著作も出来なくなったということは、決して偶然ではない。『資本論』第一巻は、明治以前の著作である。だが、天分の乏しい私には、明治十年代に生まれながら、昭和に入ってからでなければ、自分をマルクス主義者に仕上げることが不可能だったのである。
私はかつて『経済学大綱』を公にするに当り、以上の如き私の思想の変遷過程を要約して次の如く述べた。
「要するに私は、最初ブルジョア経済学から出発して、多年安住の地を求めつつ、歩一歩マルクスに近づき、遂に最後に至って、最初の出発点とは正反対なものに転化しおえたのである。かかる転化を完了するために、私は京都大学で二十年の歳月を費した。このことは、私の魯鈍を証明するに外ならぬが、しかしまた、私の現在の立場をもってマルクス説に対する無批判的な盲信に立脚するものとなす一部の世評に対し、あるいは一の抗弁となすに足るであろう。
顧みれば、マルクス学説への私の完全なる推移は、軽蔑に値するほどの多年に亙る躊躇と折衷的態度との後に、後に実現されえたものである。だが、思索研究の久しきを経て漸くここに到達しえたる代りには、私は今たとい火にあぶられるとも、その学問的所信を曲げがたく感じている。」
私は足掛け五年の獄中生活をおえ、還暦近くなって漸く再び娑婆に出ることが出来たが、幸にしてかつての広言を裏切らずに済んだ。これは私のいささか誇りとするところ、後に至って再びこれに言及するであろう。
(河上肇「自叙伝 (1)」岩波文庫 p173-177)
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◎「戦争に負けてもきちんと賢く生きるために、労働組合を作ろう」……