学習通信070802
◎「一人は万人のために、万人は一人のために」……
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誰に相談するという相手もないままに、大阪の人里はなれた千石荘病院では、いち早く、労働組合を立ち上げる機運が、盛り上がりつつあった。
林が、学生時代に学んだ知識をひもときながら、「民主主義」を手にするために、「団結する」という。
しかしその活動たるや、わずかに、地域にツテをたどって、「釈放されてきたばかりの共産党の人」と連絡を取って思いを伝えたというが、挨拶をした程度では、直ちに援助が得られるわけでもなく、ほとんど手探りであった。
だが、意気は高い。
「働く条件をもっとまともにするために、労働組合の結成に、立ち上がろう」という呼びかけにこたえ、中心的役割を果たす十数人が集まることになった。
タケ子は終戦以来、医師の先輩としてだけでなく、人間として林から、物事を教わろうとする姿勢が顕著になっていた。
秋風が雑本林を渡り始める頃には、労働組合が必要だという話を何度も聞いている。
千石荘で、具体的にどのように立ち上がるのか見当がつかないでいたが、林の意見にいくつか感想を述べられる程度に、意識を成長させていた。
そんなこともあり、
「まあいっぺん、みなが集まるところを覗いてみたらどうかね」
と誘われて、タケ子は好奇心半分で、行く気になった。
集まりは「訓練小屋」でやるらしい。
病院の南の端には病棟とは別に、軽症になった患者が快癒にむかって、自立を準備する「訓練小屋」が並んでいる。
患者は、その粗末な小屋に寝泊りしながら、簡単な農作業などを始め、日常の生活復帰の訓練をするのだ。数軒の一塊(ひとかたまり)ごとに「さつき」とか、「やまぶき」だとか名前がつけられていた。
たまたま空いた小屋のひとつを、暗黙のうちに、相談の場所として確保していた。その日も突然の停電のため、ろうそくが灯っている。
「こんばんは」
タケ子は、そっときしむ戸口を開けた。集まっていた人たちは、新顔の来訪に一瞬シーンと静まった。
虫の音がいっそう高く聞こえる。
林は、ほの暗い一番奥に居て、笑顔でタケ子に手を振った。
「今のこの病院の絶望的状況を建て直していくのには、医師や看護婦の努力だけでは限界がある。どうしても大本の厚生省に交渉して、抜本的な対策を取らせないといけない。そのために交渉できる組織が必要です。それが、今、我々が皆さんと一緒に作ろうとしている労働組合なのだ」
林はゆっくりとした口調で話し始める。
集まった人たちは、いっせいにそこで拍手をした。
電気室の尾崎義一と検査技師の野垣実が入り口に近いところで座っていた。
看護婦は、主任をしている西野美起子を中心に、その日あけ番の、大西チエ子、加藤真亀子や、松尾芳ら数人が一塊になっている。
体調を崩した医師、西村の姿は見えず、タケ子の先輩で、どちらかといえば物静かで目立たない女医の伊澤イツヨが林の横に、居るではないか。
「きょう集まってくれた皆さんは、覚悟してきてくれていると思うからみんな役員になってもらおうと思う。いいね」
みんなそれぞれうなずきあって、まあ、そんなもんだろう、という表情をする。
タケ子は、目立たないように、それでも着々と労働組合結成の準備を進めてきた林の動きに、並々ならぬ粘り強さを感じた。
同時に、共感して、行動に移す人たちの誠実な素直さを目の当たりにしたようで、感心してその様子に見入っていた。
すると突然、林が、
「沓脱君、君、青年部のほうをやってくれないか」
という。
いっせいに、全員がタケ子の表情を窺った。
「ええっ、そんなことおっしやっても、先生」
タケ子は慌てた。思いも寄らない。
「いやいや、もう準備はできているんだ。みんなも、君が引き受けてくれたら大喜びだ、なあ」
わっとざわめいて、間髪をいれず、いっせいに拍手が起こった。
陽気な大西チエ子は「沓脱医員殿、バンザーイ」と両手を広げて振り回すと、看護婦はいっせいに「バンザーイ」と言った。
「ほらごらん、頼りにしているんだ。君ならできる。君流でやってくれたらいいんだよ。沓脱君、たのんだよ」
「先生、急にそんなことを言われても……」
大変なことになってしまった。
「それに、もうひとつ。西野君は、看護婦寮の運営を民主化するために、このたびいよいよ自治会を結成し、初代会長に収まってくれた、うれしいね」
「ほう」という表情で参加者は西野を窺う。
西野は、屈託のない笑顔である。
「そうだ、大事なことを忘れてはいけない。沓脱君は、労働組合を結成するに当たって、すばらしい意見を持っているんだよ、みなでそれを聞こうじやないか」
林は、タケ子が青年部長にもう決まったように、次の話題に進めようと、いつものようにのんびりとした口調に戻って言う。
林のこの「のんびり」は、くせものだった。
なかなか腰が上がらないというか、のどかというか、いつもにこやかな笑顔で人の話を聞く。そしていつまでも、ニコニコしているのだ。
タケ子は「それで先生は、どう思われるのですか? どういう結論をお持ちですか」とイライラじれて、返事をもとめる。が、たいてい「そうだねえ……」で、終わりである。
それでいて、じわじわ、じっくりと原則をはずさず、いつの間にか、貫くところへ結論を持っていく。林は、鮮やかに目立つ動きが、嫌いだった。
今回、林のいう「労働組合についての意見」を、タケ子が言ったときもそうだった。
実は、千石荘の労働組合は、当初二つ作られる話が進んでいた。ひとつは医師、看護婦、事務職員などで作られる職員組合、もうひとつは、電気室、水道室、給食などの労働者で組織する従業員組合。タケ子は「同じ病院で働いているものの中で、組合が二つに分かれるというのはおかしいのではないか」と思ったのだ。
そのことを林に告げたが、黙って聞いていた。
「そうだねえ」
と言ったきり、何も言わないので、「林先生は、また、『牛のよだれ』でいらっしやる」と心の中で悪態をついてそれっきりになっていた。
タケ子は、意見を述べるについて、組合とは何かという知識があるわけではない。明確な理論があるわけでもなかったが、おかしいと思う自分の感性が、道理に外れているとはどうしても思えなかった。
その感性について本人は「私独特の、本能的感覚、カンですわ」と名づける。タケ子は折にふれ、この「カン」を大事にした発言や疑問を呈する。「ちょっと持って、その話なんかおかしい気がする」と。
しかし、本能的感覚による意見といっても、脈絡のない発想ではない。
組合作り以前に、タケ子は「いやだなあ」と思うことがいくつかあった。
まず、いわゆる職員と呼ばれる人たちと、現場の労働者の間にはかなりの賃金格差があった。そのうえに、医者の側にあるプライドと、労働者のほうはコンプレックスがあいまって、日常生活の中にギクシャクしたものが様々な形で生まれていた。
その摩擦を、医者のほうでは、尊大とも言える身構えでいなすのを見るにつけ、砂をかむ思いがした。
タケ子は現業の職場に顔をだして、気楽に接したり、話をすることが少しも苦痛ではなかったので、よく彼らと立ち話などをした。その際、現場のおじさんたちは、あまり警戒せずになんでも話してくれたが、その中に医者や看護婦の態度について不満が渦巻いているのを感じていた。
医者と看護婦の間にも、階層差別は歴然とあった。
本館二階にある医局の上がり口にはサクがあって、医局に看護婦が来るときはそこで予防衣を脱いで階段を上がらねばならず、入り口から断りもなく入室はできず「○○医員殿」と呼ぶ。
戦後も、軍隊のような特権的習慣の中に医者はいた。
回診をするときは看護婦長が「聴診器」をささげもって医者に寄り添い、若い看護婦が洗面器に消毒液を入れたものを持って、医者が一人ひとりの患者の診察が終わるたびにそれで手を洗う。そういういうセレモニーが、日常の医者と看護婦の関係を表していた。
タケ子は「格付け」でけじめをつけようとする風潮が、体質的にイヤで仕方がなかった。
まとまりのない漠然とした気分ではあるが、労働組合というところはそれを許さない理想があるのではないかと思えたのだ。
「仕事の種類とは別の、そういう妙な区別がこの病院内にはいっぱいあります。権威の格付けや差別をすることが、良い医療につながるとは思いません。そういう妙な区別をなくするのが、民主主義を重んじる労働組合と違いますか。林先生の話を聞いていて、私はなんとなくそう思うので、組合を二つに分けるのは、反対です」
タケ子は一気に自分の考えを述べた。
はじめの戸惑いなど、どこかに吹き飛んで、すっかりその場にとけ込んでいる。
すると、顔を真っ赤に紅潮させた尾崎がいきなりたちあがって、感に堪えないという表情で、拍手しながら言う。
「そうや、ほんまや。そのとおりや。わしらのほうから、組合を割ってどないすんねん。あかな。はじめから差別賃金にせえて言うてるようなもんやし。青年部長、沓脱先生の言わはるとおりや、さすがや、すごい」
みんなも続いて拍手をした。
医者の立場でありながら、立場を鼻にかけない人柄だというのは知っていたが、その矛盾をずばり指摘する目線に、参加者は感動を隠さなかった。お互いにそれに感動できる心を持ち合わせていることを喜び合った。
ひとしきり盛り上がって、看護婦の西野が言った。
「あらあ、ちょっと持って、尾崎さん。『あんな偉そうにさらしとる医者なんかと、おんなじ組合なんかつくれるかい、のう』って昨日まで、組合は二ついるて、ゆうて回ってたやんか。この豹変ぶりは、一体、どうなってんの」
爆笑に包まれて、実直な尾崎は頭を掻く。
林は何も言わずにあごに手を当てて、話を聞きながら、いつもの笑顔だった。
これで、病院内に組合を二つ作ろうという案は消えた。
そして、林は初代委員長に、タケ子は青年部長に推薦された。
後年、分裂組織と熾烈なたたかいが起きるのだが、この「組合はひとつでよい」という理念がどれだけ貴重なものか試される日が来ることは、このとき誰も知る由がない。
単一の千石荘病院労組は正式には、この年の十二月、労働組合法の公布と同時に「結成総会」をおこなったが、活動は、それを待たずに積極的に切り拓いている。
当時、大阪府下には、刀根山、千石荘、福泉園という三つの公立の結核療養所があった。
結核対策については、大阪市が昭和の初期に全国に先駆けて行政が乗り出し、豊中市・刀根山に療養所を作ったことに端を発し、千石荘、福泉園と規模を大きくした。
戦争中に軍隊の結核対策など必要に迫られ、国策として、大阪市から日本医療団に運営が移管されている。それがさらに国立という形で運営されることになった。
労働組合としては、同じ国立の結核に関わる病院が、統一し足並みをそろえたたかわなければならない。刀根山では組織化が進み始めていたが、福泉園は遅れているという。
訓練小屋で話し合って、二週間もたっただろうか、初代委員長・林はこともなげに言う。
「沓脱君、福泉に、青年部長として、オルグ(なかまづくり)を、してきてくれんか」
「ひえーッ、オルグ?」
さあ、えらいことよ。
言葉の意味ぐらい知らないわけではないが、何をどうしていいかさっぱりわからない。弱り果てるがそこは「ええい、なんとかなるでしょう」とやってしまうのもタケ子流なのだ。
国鉄阪和線(現在JR)に乗って鳳駅からバスで福泉園へ゜まっすぐ医局を訪ねて、
「そこで何をどうしやべったか、どう訴えたか、まったく何も覚えてない。思い出すのはもう晩秋だったのに、びっしょり汗をかいたことだけ。たぶん林先生が日ごろ話してくださったことを受け売りよろしく、必死で、一服吹いてきたのにちがいない」
アハハ、と本人は後年思い出しては、笑っていた。
それからというもの、「勉強せんことには話にならない」と意を決して、官舎の林宅を訪ねては、書架にある理論書を次々に引っ張り出しては、借りて帰った。
マルクスの「共産党宣言」からはじまって、「空想から科学へ」「労働組合論」「史的唯物論」と進む。
いきなりそういう文章に接して、難しくはなかったか。
夕ケ子はケロリという。
「人間の書いたものやから、じっくり正面から取り組めばだんだんわかってくるよ」
新しい知識に接する要求が強烈だったのだろう。
「まるで、砂が水を吸い込むように、新しいものの考え方が身につくのが自分でも楽しくてしょうがなかった」「もともと医者は、自然弁証法的な発想がなければ病気の診断も治療もできないわけですから、そういうものの考え方の基礎は、いやおうなしに身についていたから、弁証法的唯物論は理解しやすかった」
こうしてものの見方、考え方についての新しい理論を身につけるにしたがって、小学校以来学校教育で身につけた観念哲学を、自分ではがしていった。それは新しい酸素を吸うように、すがすがしく気持ちの良い楽しい作業だった。
タケ子だけではない。
看護婦の主任をしている西野美起子は、千石荘病院准看護学校の一期生で二十四歳だったから、若い看護婦集団の中では比較的年長ということもあり、「うりざね顔の美人」ではあるが「少し怖い」リーダー的存在だった。
勉強が好きで、戦争中「出口のないような貧しい家庭」に育っていたが、ナイチンゲールの「博愛」の精神を憧れにして看護婦という職業についたというだけあって、仕事に対する情熱と、知的好奇心で林の存在を知り、その理論に引き込まれた。
労働組合結成の時には看護婦の中で先頭を切って、意義を訴えて回っている。
その美起子が、労働組合の活動として、手始めに何を一番やりたいかという議論に、問われて言う。
「わたし、民主主義の勉強がしたい。このごろ『はやり』の民主主義というのは、どういうものやろかと看護婦の間で話題になるけど、誰も知らない。私は林先生に教えてもらっているから、上から押し付けられるのではなく、言いたいことがいえる世の中やって、伝えるけれど、みんなは俯に落ちないらしく、そんな世の中欲しいけど、実感できない不思議なもんやなあと言うの。だから、組合で民主主義の勉強会をしましょう」
提案を受けて、居合わせた者は「それがいい」と全員がひざを打った。
誰しも空腹で貧しかったが、価値観の大変動が起きた時期に、民主主義について勉強したいというのは、何にも増して強い要求だったのだ。
一体だれを講師に呼ぶか、だれも当てがあるわけがない。考えた挙げ句、
「共産党で、長いこと牢屋に入れられた人が今度出てきてるという話を聞いた。あの人たちなら民主主義について話してくれるだろう」
と林が提案する。
「いきなり共産党を呼ぶのは怖くないか」
などとひとしきりささやきあったが、
「世の中、新しくなったのだ、どんな人物なのか見てみたい」
という声が大勢を占め、Mを呼ぶことになった。
しかし、これがきっかけで、のちにこのMと、医師の井澤イツヨが結婚することになるのだ。
「労働組合に出合ったことで教えられたのは、一人ひとりの医師も看護婦も労働者も、同じ人間として対等に話し合い認め合えるという、人間として最も基本的な生き方でした。それは、私の性分にとてもあっていた」
タケ子は労働組合の理解の入り口を、こういう形で自分のものにしていた。
(稲光宏子「カケ子」新日本出版社 p47-57)
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第二次世界大戦は、労働者階級の最悪の敵である日本・ドイツ・イタリア・ファシズムの敗北に終わった。
ファシズム打倒のために力をあわせてたたかった世界の労働者階級の力は強まり、国際労働運動は高揚した。労働者階級の国家であるソビエト連邦の国際的地位は高まった。東ヨーロッパには労働者階級を指導勢力とする人民民主主義の国ぐにが生まれ、社会主義にむかって前進していた。中国でも共産党の指導する新民主主義革命が着実に勝利していた。イギリス、アメリカ、フランスなど資本主義諸国の労働運動も高まりを示していた。植民地、従属国の労働者階級も民族独立運動の先頭に立っていた。
このような国際労働運動の高揚は国際政治にたいして大きな影響をあたえずにはおかなかった。これはポッダム宣言≠ニいう形で日本の労働者階級と人民に示された。このような国際的な労働運動と民主主義運動の圧力のもとで、日本の労働者階級は、はじめて労働組合と政党組織の自由、言論、集会、結社、大衆行動とストライキの自由を保障された。憲法、労働組合法、労働基準法など不十分なものであるが、労働者の権利を保障する法律が制定された。
戦争中の無利権と搾取、戦後の荒廃と窮乏の中から日本の労働運動は嵐のように発展した。だが、アメリカ占領軍は、この運動を彼らの占領政策のワクの中にとじこめ、彼らの目的達成のために利用する政策をとった。占領の初期において、彼らは労働組合の組織と活動を奨励した。
労働組合と階級政党による民主主義運動の発展は、日本の半封建的な支配体制を弱め、これをよりどころとしていた戦争勢力を解体させ、アメリカの占領政策の遂行を容易にする。また日本の支配階級の中心勢力である独占資本の力を弱め、アメリカ帝国主義が彼らを従属させることを容易にする。
だが、日本の労働者階級は占領軍のおもわくをこえて自己の道を前進した。これにたいして、占領軍はかしやくなく弾圧を加え、労働組合を分裂させ、また労働組合運動を政治闘争からひき離し、経済闘争のワクの中におしこめようとした。昭和二十一年二月には幣原内閣は生産管理弾圧を声明した。
敗戦の混乱と物資の不足にもとづくインフレーションは発展していた。労働者と国民の求めていたものは、なによりも物資の生産であった。だが資本家は多くの材料を退蔵しながら生産をさぼっていた。生産を再開するよりも材料の値上がりの方が彼らの利益になる。生産をさぼることによって労働者を整理することができる。生産管理は資本家のこうした方針を破るきめ手であった。それは勤労人民の要求にも一致する争議手段であった。生産管理弾圧声明は労働者のもっとも有力な武器を奪うものであった。
占領軍はこれを支持した。否、当時の日本政府は占領軍の命令の実行機関にすぎなかったからこれは占領軍の方針であったといえる。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 64-65)
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「搾取の自由」と「飢える自由」
これに答えるためには、資本主義とともに生まれた労働者階級の基本的な立場を明確にしておくことが必要です。
資本主義のもとで労働者は、足に鎖をつながれて、からだごと貴族に所有され、売り買いされた奴隷とも、土地と身分制度にしばりつけられて、自由に土地をはなれたり、自分の欲する作物をつくることさえできなかった農奴ともちがって、人格的な「自由」をあたえられました。
しかし、いっさいの生産手段からきりはなされて、自分のからだにそなわった労働力しかもっていない労働者は、自分と家族が生きていくためには、資本という形で生産手段を独り占めしている資本家に、自分の労働力を商品として売って、賃金を手に入れる以外に生きる道がありません。
他方、資本家は利潤を唯一の目的として生産をいとなみ、その利潤は労働力商品が生みだす、労働力商品の価値以上の価値(剰余価値)をただどりすることによってのみ生みだされます。ですから、資本家は労働者をその生理的限界ギリギリまで、できるだけ安い賃金で、できるだけ長い時問働かせようとします。
なるほど労働者は、この労働力の売買を資本家との自由な雇用契約によって行ない、労働者は自ら自由に雇い主と労働条件を選ぶことができるたてまえになっています。
しかし、じっさいには、この雇用契約は、けっして自由・対等の立場ではむすばれず、労働者は資本家の一方的な条件にしたがわざるをえませんでした。なぜなら労働力の売り手である労働者の方が買い手である資本家の数よりもはるかに多く、労働者の生ま身にそなわった労働力という商品は売り惜しみがきかないからです。また、生産手段をにぎっている資本家は、労働者を指揮し、命令し、監督する支配的な立場にたっているからです。
したがって、労働者は一人ひとりバラバラでいたら、お互い同士の競争を避けることができず、人間としての尊厳と自由をさいごの一片までうばわれます。
資本主義のしくみのもとでは、このように資本家にとっての「搾取の自由」は労働者にとっては「飢える自由」にほかなりません。なぜなら、資本主義のつづくかぎり、労働者は、生きるために、たとえどんなに資本家を変えてみても、目にみえない「賃金奴隷」の鎖からのがれることはできず、搾取のしくみから自由になることはできないからです。
機械制工業と労働組合・ストライキ
ですから、労働者は生まれおちたそのときから、人間としての「生命・自由および幸福」(「独立宣言」)を手にするためには、たたかわざるをえませんでした。
イギリスでは一七六〇年代から一八三〇年代にかけて、その他の欧米諸国では一九世紀初頭から一八七〇年頃にかけて、日本ではさらにおくれて、二〇世紀の初頭にかけて、産業革命がおこり、資本主義生産に特有な機械制大工業が発展しました。
技術と機械の発展によって、多数の未熟練・半熟練労働者、とりわけ婦人や年少者が熟練工にとってかわり、食っていけなくなった手工業者や農民も労働者となりましたから、労働者の数は急速にふえました。そして続々と生まれた工業都市に密集して暮らすようになります。
こうして、手工業や工場制手工業の時代とまったくちがって、何百人、何千人あるいは何万人という労働者が、おなじ工場の屋根の下で、まいにち同じ機械のまわりで、共同して働くという新しい事態が生まれました。
こうして労働者は、共通の立場にあるという連帯感によって結ばれ、お互いにまいにちのしごとや暮らしのことを話し合うなかで、共通の切実な要求で団結して、その実現のためにたたかうようになったのです。
そして労働者は、まいにちの労働の体験から生産手段と労働力がむすびついて、はじめて生産が可能になることをみぬいて、自分たちの要求がいれられなかったならば、労働力の提供を拒否する──すなわちストライキという闘争手段をあみだしました。さきにのべたとおり、資本主義的生産の唯一の目的である利潤は、生産過程のなかでの搾取によってのみ生みだされるのですから、ストライキは資本主義的生産の急所にメスを入れ、資本家に致命的な打撃をあたえることとなります。
まさに機械制大工業の発展が、いままで労働者が一人ひとりバラバラであったときには、避けることのできなかった労働者同士の競争をのりこえて、ストライキと労働組合を必然的に生みだしたのです。
このようにして、多数が共通の要求でかたく団結してたたかってこそ、はじめて労働組合は、真に労働者にとって、「生命、自由、幸福」を守り、ほしいままな資本の「搾取の自由」に抵抗するトリデとなったのです。
ここで、労働者と労働組合にとって「生命、自由および幸福」を追求する民主主義とは、ただたんに孤立した個人としての自覚と自由という個人主義的なものにとどまらず、はじめから「一人は万人のために、万人は一人のために」という階級的・組織的団結ときりはなすことのできないものであること、それは資本主義のしくみのもとでの労働者階級の基本的な立場にもとづくものであることを、しっかりとつかんでおくことは、組合民主主義についての理解をふかめる一つの根本的なポイントです。
このようにして、近代民主主義を少数者の利益のために多数者にたいする支配を維持する道具にかえようとする支配階級にたいして、労働者と労働組合は、民主主義をうけつぎ、これを推進し、拡充する名誉ある民主主義の旗手として、階級闘争の歴史に登場したのです。
(谷川巌著「組合民主主義」学習文庫 p38-43)
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◎「近代民主主義を少数者の利益のために多数者にたいする支配を維持する道具にかえようとする支配階級にたいして、労働者と労働組合は、民主主義をうけつぎ、これを推進し、拡充する名誉ある民主主義の旗手として、階級闘争の歴史に登場」と。