学習通信070806
◎もっとこわいもの……
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炎
衝き当った天蓋の
まくれ拡かった死被の
垂れこめた雲の
薄闇の地上から
煙をはねのけ
歯がみし
おどりあがり
合体して
黒い あかい 蒼い炎は
煌く火の粉を吹き散らしながら
いまや全市のうえに
立ちあがった。
藻のように ゆれゆれ
つきすすむ炎の群列。
屠殺場へ曳かれていた牛の群は
河岸をなだれ墜も
灰いろの塙が一羽
羽根をちぢめて橋のうえにころがる。
ぴょこ ぴょこ
噴煙のしたから這い出て
火にのまれゆくのは
四足の
無数の人間。
噴き崩れた余塵のかさなりに
髪をかきむしったまま
硬直した
呪いが爛る
濃縮され
爆発した時間のあと
灼熱の憎悪だけが
ばくばくと拡がって。
空間に堆積する
無韻の沈黙
太陽をおしのけた
ウラニューム熱線は
処女の背肉に
羅衣の花模様を焼きつけ
司祭の黒衣を
瞬間 燃えあがらせ
1945. Aug. 6
まひるの中の真夜
人間が神に加えた
たしかな火刑。
この一夜
ひろしまの火光は
人類の寝床に映り
歴史はやがて
すべての神に似るものを待ち伏せる。
(峠三吉著「原爆詩集」青木文庫 p20-24)
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雷 8月6日
雷といえば夏の気象現象を代表するもの。「地震・雷・火事・親爺」としてこわいものの第二位にランクされてきた。ちかごろではほかにもっとこわいものが多くなったので、いくぶん恐怖感が滅った感じだが、先日新聞に、親爺が下位に転落し、かわりに水爆や無謀運転がはいった「現代こわいもの順位」が出ていたのを見ても、やはり雷は二位を保っているのはりっぱである。
「雷公大あばれ」などと新聞の見出しにも書かれるように、とかく雷は擬人的に表現されることが多い。ずっと古くは神さまだと考えた。ナルカミ・ハタタガミという呼び名が残っている。ライサマ・カミナリサマと、サマをつけて呼ぶ慣習は今でも普通である。
狂言『鳴神』の雷さまは、雲から足をふみはずして地上に落ちて腰を打ち、ヤブ医者にハリ療治をしてもらって「痛い痛い」と泣き出す愛すべき雷さまだ。それが「ゴロゴロ」でなく「ヒッカリヒッカリ」と言いながら登場するのも、まことにユーモラスである。
(金田一春彦著「ことばの歳時記」新潮文庫 p255)
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昭和二十(一九四五)年八月十五日に頭を下げた先生
僕が病弱ながら戦時下の少国民として胸を張ることのできる思い出がある。
少国民国防美術展というのがあって、僕の絵が入賞したのだ。
その絵は爆撃機B29を、高射砲で発射した網で捕らえ、その翼に日の丸を描いてアメリカヘ爆撃に行くという劇画である。
そのB29が三百三十四機も東京にやってきて下町を中心に死者八万四千人焼失戸数二十三万戸の被害を与えたのが三月九日から十日にかけて……。
疎開先の長野・佐久平からでも、東京方面の空が赤く見えた。
その火の中に生家・最尊寺、そして父と兄がいた。
僕の浅草は灰になり、生命の助かった父と兄は高砂の聞妙寺で元気でいることがわかった。
当時は電話がなく、電報以外、連絡のつけようがなかった。
「こちら現場です」とレポーターが被災地から中継する現代から考えると、ひたすら電報を待っているだけの時代だった。
だから中学生の三人に一人が携帯電話を持っているなんて信じられない。
父と兄が無事とわかって、その寄留先に出した小さな葉書が、今、手元にある。
不思議なことに戦時下の緊迫感が全くない。
「お父さん、お元気ですか、僕は元気です。
お母さんが風邪で寝ています。
お父さんにあえる日を楽しみにしています」
僕は疎開してからメキメキと元気を回復していた。病院生活だったなんて誰も信じなくなっていた。
日本各地で空襲は続き、その噂が流れる一方で、ラジオや新聞は本土に敵をひきつける作戦なのだと説明していた。
ついに沖縄戦。
広島に原爆。
ソ連、日本に宣戦布告。
長崎に原爆。
そして八月十五日。
僕は南大井村国民学校の校庭で、ガーガーピーピーというラジオに最敬礼をしながら、玉音を聞いた。
それでも子供たちには戦争が終わったという理解はなかった。
夜になって、母が「東京に帰れるかもしれないけど、お家はないのよね」と言った。
子供たちは、母が涙ぐむのと同時に、声をあげて泣いた。
東京の焼け跡でバラックをつくっている父と兄を思いながら泣いた。
翌日、村の大人たちが戦争が終わったことを触れ歩いて、それでも子供たちは時問どおりに学校に出かけた。
教室に入ると、担任の教師が教壇に正座して、声をふるわせていた。
子供たちが、いつもと違う様子にオロオロしながら、自分の席についた。
始業の鐘が聞こえた。
先生はにぎりこぶしで膝を叩きながら、ググググ……とうめいた。
僕たちは不安になってきた。
村の大人たちも、そうだったが、みんな重苦しい、そして落ちつきのない表情だった。
やがて先生は座ったまま顔をあげ、
「戦争は終わった。
日本は勝つと言ってきたが、日本は負けた。先生は勝つと言ってきたが、負けたのだ。
先生は君たちに嘘をついたことを謝る。すまなかった。
先生が生徒に嘘をつくなんて許されることではない」
先生は僕たちに両手をついて頭を下げたのである。
僕たちは顔を見合わせた。
先生は一段と声を張りあげた。
「まもなく陛下が責任をお取りあそばす。先生はその日に、この教壇で切腹をする」
先生は言い終わると、立ち上がって「今日は帰ってよろしい」と教室を出て行った。
代用教員という肩書だったが、二十三歳か、そのあたりだったろう。
先生がいなくなっても教室は凍りついたように空気が動かない。
「先生が切腹をする」という場面が一人一人の頭の中にあった。
この先生は竹槍の訓練や体当たりの方法も教えてくれたが、万が一のことがあったらと、切腹の作法や刺し違えて自決する方法まで教えてくれていた。
「鬼畜米英の捕虜になる場合は自決」
僕たち少国民もそう教えられていたのである。
だとすると、先生が切腹したら、僕たちも刺し違えて後を追うのだろうか。
みんな黙りこんでいる。
僕は村の子とは違う。
東京に帰って、父や兄に逢いたい。
僕にとっては疎開というより転地療養になったのだろう、体重も増え、顔色も良くなってきていた。
疎開先で無理に退院した体がもつだろうかと心配していた父に、こんなにも元気になったことを知らせたい。
しかし、先生が切腹したらどうするのだろう。
その時、級長だった村の子が教壇に上がった。
みんなの視線が級長に集まった。
「先生が切腹するって言った」
僕たちはうなずいた。
「ここで切腹するって言った」
おそらく全員がうなずいて唇を噛みしめていた。
そして級長の次の言葉を待った。
「ここで切腹するとしたら、その日の掃除当番を増やしたい」
僕たちは、強くうなずいた。
(永六輔著「昭和」知恵の森文庫 p88-93)
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ひろしまの火光は
人類の寝床に映り
歴史はやがて
すべての神に似るものを待ち伏せる。
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