学習通信070808
◎動物とはなにか……

■━━━━━

哺乳類の特徴
―生物の最高の発展段階としての哺乳類──

 哺乳類は新生代、第三紀の動物である。中世代に地球上は優位を占めていた昆虫類からその初期にしだいに分かれて別の進化の道を辿りはじめ、中世代末期になって哺乳類中の真獣類が適応放散した。真獣哺乳類は昆虫類と異なって、いくつもの決定的に優れた形質を備えていた。ひじょうに形質が優れている哺乳類の適応放散が、当時の自然環境の変化と関連しつつ、昆虫類を直接間接に絶滅に追いやった。

 恐竜の絶滅はよく謎だといわれてる。確かに生物の絶滅とは謎を含んでいる。しかし、これを殊更に謎というのには恐竜が強いという迷信があるからだ。しかしよく考えてみると、「種」としての強さはライオンよりネズミが強い。適応力や繁殖力の問題なのである。優占的巨大動物の繁殖力は弱い。また、からだが大きくなっていくのは、進化の一つの傾向の頂点であるので、大動物ほど特殊化が進んでいる可能性がある。恐竜類はそうである。特殊化とは、形質がある一定の環境条件に対してよく適合し、それが一定の条件のみに極めて適応度が強まった場合といえよう。その特殊化の度が強ければ環境変化に対応しにくくなるのである。その点だけに着目すれば、小さなスケールでは進化の度が進むほど特殊化が進むのである。特殊化したものは、環境が変化すれば種として弱いともいえる。

 ところで恐竜はその点で弱者だとしても、なお絶滅が謎めいた感じがするのは、多くの種が一度に(地史的タイムスケールでは)絶滅した点にもある。そこで様々な説明が試みられる。卵を哺乳類にとられたとか、糞づまりになったとか、新しいバクテリアによる病気だとか、しまいには放射能説まででてくる。今までの生態的地位や生物界の構造についての説明から判断すれば明白なように、これらの説は天敵が食われるものの絶滅要因になると誤解したり、新しい天変地異説だったりして話にならない。

 ごく普通に、今までの論理から考えればどうなるであろうか。生態的地位を哺乳類に奪われたと考えてみることもできる。そしてもし草食恐竜が絶滅すれば、肉食恐竜も絶滅するに至るのである(生態的地位の章参照)。以下SF的発想として許していただき、その簡単な推論をしてみよう(詳しくは拙著「恐竜の世界」〈山王書房〉「SF人類動物学」〈早川書房〉によられたい)。

 恐竜にとっては、当時気候条伴などからの植物相の変化や、また気候の変化自体も生活場所の滅少などで不安を与えていた。本能に依存する恐竜は、そう簡単に新しい餌に変われない。しかも新しい餌は哺乳類がそれを食べつけていた。この競争は爬虫類に不利である。管理のうまくいかない経営革新のない大企業が、新鋭の小企業で近代的な経営のものと不況下に政治的な保護なしに競争するようなものである。

 恒温動物の哺乳類は、変温動物の恐竜より優れていた。それをたとえば体表の「毛」と「汗腺」や「脂腺」の働きで保持していた。心臓は二心室二心房で、横隔膜が呼吸運動を円滑にさせて血行をよくし、運動も活発に行なえるのである。当時の哺乳類は真獣類でも現生の有袋類より鈍重であったろうが、それでも恐竜類をはるかに凌駕していた。運動能力の差は脳にもはっきり示されている。たとえば体重ニトンのステゴサウルスの脳はネコより小さく、ブラキオサウルスなどで体重の二万五千分の一の重さであって、しかも大きな脳下垂体をもち大脳の発達は悪かった(ゾウは千分の一で、恐竜に比べてクジラでは大脳の発達がよくて、脳重数キログラム以上に及び、体重比は最も大きい類で一万分の一から三千分の一ほど、イルカ類では千三百分の一あるいは百二十分の一くらいである)。

 当然その知能は劣っていて、条件反射形成上の比較では間題にならなかった。哺乳類は本能ももっているが、行動の発達の仕方に後の環境条件が関連してくる度合が大きく、それが習得でいわゆる刷込み≠ウれるのである。感覚の分化も哺乳類は進んでおり、運動も細かくできる。そのうえ臨機応変の能力が少なくとも昆虫類より可能である。運動が鈍いことは、草食動物の世界でも速いものに比べて損である。荒らされて植物が少なくなってしまえば、巨大な恐竜は余分に体だを動かして少ししか食物が得られず、生きる収支が償われなくなる。気温がさがれば活動力は鈍る。そのうえ、哺乳類の歯は門、犬、臼歯と分化して、消化器系のうえでも効率よく食物を得る。こういう哺乳類が増加し、ある数以上になった時、草食恐竜に絶滅の危機が訪れる。

 初めのうち、哺乳類は昆虫類のものかげに生きて夜だけ動いていたが、その進化が進むにつれてついに逆転の時が到来したのであろう。気候変化への適応として毛を発達させる(初めは季節変化の著しい地方で恒温性を発達させつつ進化し、様々な形質に分化したのであろうか)など、発展の契機は気候条件の変化が大きく働いたかもしれないが──。

 昆虫類は、ワニやニシキヘビなどが卵を守るといった程度であるが、真獣哺乳類は胎生である。母体から胎盤を通して栄養をとられるので大変ではあるが、巣にこもって動きのとれぬ鳥などよりは自由であり、放っておくのに比べれば子は安心である。生まれてからは乳を飲む。哺乳類の名はそれから由来した。この性質は卵生のカモノハシでも共通である。

 乳を飲むのは、ひどく条件の悪い時を除けば、子は始終安定した栄養を受けられる結果となる。鳥のように餌を運ぶのならば、子の餌は限られる。しかし、哺乳類は母の餌が固くても悪くても乳汁を受けられるのである。

 一方巨大な恐竜も子のうちは一層無力であり、それは哺乳類の餌食になったと思われる。卵もまたそうであったろう。かりに親がある程度守っても、動作は鈍くてほとんど役には立たなかったと考えられる。気温がさがってきつつある気候条件下で夜ともなれば、動きは一層鈍って問題になるまい。体が大きいために数が少なく、そのうえ見つかりやすくもあった。普通の条件のもとでは、それでもこれが絶滅の原因にはならない。食物や気温変化など様々に重なった悪条件のもとでは、恐竜にとってやはり生存をむずかしくさせる条件の一つだったと思われる。こうして草食恐竜が滅少した後の肉食恐竜の場合には、絶滅ははるかに簡単に起こったであろう。かれらはもう小さい動物を捕えること(本能ではそうはできなかったろうが)ではエネルギー収支のうえから生きられず、繁殖率は悪かったろうから(数のピラミッドの上位)。子はまして餌をとるのが下手でのろかったろうし、餓えて死んだのである。

 哺乳類は恐竜類との生存競争に勝ち、一層適応放散した。ところで陸上では哺乳類は恐竜より小さい。これは陸上が草食大動物を養える条件がない(植物の状態からもそういえるかもしれない)ことを示しているのであろうか。とすれば気候条件から植物の状態に関してなどそのような条件が当時も生じて、それが大爬虫類の絶滅を物質的に決定づけたとする考えもできる。

 小さくても運動能力が優れ、脳の進化、つまり知能の生活を営む生物界の傾向、それが新しく現われて大型化の傾向に加わったとも見られよう。海のクジラはもちろん恐竜類より大きいが──。

 ともかくも、哺乳類の優れた形質は今までのべたような点にある。

 哺乳類は恒温であっていろいろの点で適応力が一般に広く、地理的には北極にもそして高山でも海抜六〇〇〇メートルにもナキウサギやヤク(野生ウシの一種)が分布している。

 また、北極の極寒でもホッキョクギツネなどは活動できる。一説ではマイナス八十度Cでも生きていられる。海中ではマッコウクジラが一〇〇〇メートルの深海でも生活できる。形態も変化が多く、鳥類と比べてみれば形態上のその分化の著しさは明らかである。恒温という点で共通に優れ、爬虫類から進化した鳥類も、哺乳類に比べるとやはり生物の発展上では特殊な一分岐であるように見える。鳥は変化しても鳥らしい。ところが、哺乳類になると分化の仕方は魚、鳥、爬虫類的形態といったところが見られる。したがって、生態的地位の分化もまた著しいといえるのである。

 某新聞の子供科学欄で、ある時音波による魚類探知について書かれているなかで、イルカを魚類のなかにいれているのを見たのを記憶している。話題がその装置にあるのだから、魚類だとのいい方についてはそれほど厳密に定義しなくてよいのかもしれないが少々粗末である。しかしまた骨がないのに形成されている背鰭、尾鰭を見たうえに、生活感覚のうえでは市場に並んでいるイルヵを見れば、これを魚類と考えるのもムリのないことであろう。

 他方、鳥なき里のコウモリではないが、コウモリもまた翼を有しているため鳥類と見られかねないし、また嘴状の口器を形成しているカモノハシも鳥に近縁と思われるであろう。鱗ばかりで全身を包むセンザンコウと甲らで身を固めたアルマジロとは、爬虫類と誤られても不思議はあるまい。全く知識のない人間がはじめてこれらの動物を見れば、イルカやクジラを魚類に、コウモリを鳥類にと区分することであろう。それらは生物学史のエピソードにつづられており、カモノハシの分類的地位は当時の学界を混乱させたりもした。

 爬虫類はどうだろう。ヘビとトカゲ、ワニとカメなどは同じ類と見なすだろうか。両わきに皮翼をもったトビトカゲはどうだろうか。これらはすべて陽虫類の基本型とあまり異ならない。爬虫類について語る時、現生のものは残骸にすぎないということもできようから、恐竜時代を考えてみよう。翼竜類、魚竜類はそれぞれ鳥や魚類に近い大きな変化を示す。しかし、その変化は哺乳類には及ばない。

 両棲類はどうか。また現在栄えている魚類はどうか。タツノオトシゴや深海魚の一部などに極めて変わった形態の種類もある。鳥類はどうか。嘴の変化はあっても、また翼の退化したキウイやダチョウ類、あるいはペンギンがあっても、その多様さは哺乳類のような大きな変化はない。

 哺乳類の特徴には、樹上や空中、水中そして北極から南極の海洋までまたヒマラヤの高山にも、極めて広く地理的生活的空間ヘ進出し、それが形態上大きな差異を生じていることである。トガリネズミ類の数センチメートルの体長と数グラムの体重から、体長三〇〇〇センチメートル体重一三〇トン、すなわち一位三千万グラムのシロナガスクジラに至る大小の変化から、コウモリ、クジラ、ゾウ、ゴリラに及ぶ形態上の変化にと、変異は非常に著しいのである。

 形態の変化に対応して、哺乳類では生態の変化も著しい。哺乳類の生態も運動性が豊かになるとか、食性も適応力に富み、求愛行動にも変化が多いなど生活上でもまた他の動物に比べて分化が著しい。生活様式各々が進化していて(たとえば、ポルトマンが一般化した育児の型の違いのように)多様であるうえ、個体差もあって実態はまことに多様で(注)ある。そのことがまた、哺乳類において多様性そのものも最高の発展をしたことを語ってもいる。哺乳類についてのその形態の多様さや、種の生活の多様さはここでは省略するが、要するにそれが動物の発展方向の現在の最高の発達段階に達しているのである。

(注)その結果よく事実をみれば見るほど例外的な事例が多くなる。だが、仮説的に普遍化することから、個々の事象をそのなかに位置づけたり、普遍的な法則を補正強化するなどして法則化せねばなるまい。と同時に、個体差やある特殊な条件での事例を性急に一般化するといったやり方には、考慮が払われねばならない。が、また事例だけに限るのでは、研究は進まない。)

 博物学段階での羅列的多様さから、生物学に普遍化の重要さが認識されてから久しい。動物のすべてについても普遍的な基礎が追究された。物質変化としてその基本を求めれば、単純な形態の動物にモデルを見い出し、研究上は着目せざるを得ない。だが多様な現実を見るには、やはり普遍的な性質が具体的に現われているところを見なければならない。同じ多様さでも羅列されたものと違った現象が生じているのである。動物とはなにかを間う時、多様性の研究は避けることのできない間題である。したがって、動物の追究には多様性の最もよく発達している哺乳類に、もっと重点が置かれねばならないと考えるのは、哺乳動物学の重視のしすぎであろうか。ただし、このことは、現在の哺乳動物学を重視すべきだというのとは違うが。

 動物とはなにかを問う時、動物的な特性の最も発達したものを中心に考えねばはっきりしないし、そうなると哺乳類について考えねばならないということなのである。
(小原秀雄著「動物の科学」国土社 p217-229)

■━━━━━

トリの学習、サルの学習

 話を「学習」のことにもどしますが、この学習能力を増大させる方向に進化のカジをとった動物、それが哺乳類なんですね。

 鳥類もかなりの学習能力をもってはいます。ハトが自分の巣にかえるというのは本能のはたらきですが、学習によってそれを強化させることができる──これを利用したのが伝書バトですね。十姉妹を飼いならしたことのある方もいらっしゃるでしょう。あるいは、クロツグミがウグイスのなきまねをしたり、カケスが「ニャオー、ニャオー」とネコのなきまねをしたりすることもあるそうです。オウムなんかはじつにたくみに、人のコトバをまねますね。もっとも、鳥類には声帯がなく、鳥のさえずりやものまねは、気管支のところにある鳴管という器官を振動させてやられるんだそうですが。

 でも、鳥類の学習は、あるところまで以上にはでないんです。なぜかといえば、鳥は、空中に生活圏を求める方向に進化のカジをとった動物でしょう。空をとぶためには体をできるだけ軽くしなければならないし、体全体にたいする頭部の割合も、あまり大きなものであることはできません。ということは、大型の脳を発達させることができない、ということですからね。

 というわけで、哺乳類こそが、脳の大型化、それによる学習能力の増大という方向に進化のカジをとった、その意味でもっとも高等な生物、ということができます。この場合「高等な」というのは、複雑な環境にたいして柔軟に対応できる能力、環境にたいする能動性、主体性をそなえた、という意味ですが。

 イヌなんかの学習能力はたいしたものです。だから、猟大にしたてたり、羊の番をさせたり、ソリをひかせたり、あるいは盲導犬、警察犬として活躍させたり、ということができるわけです。

 サルなんかの学習能力はもっと大で、「サルマネ」なんてコトバがあるくらいです。というと、マネすることだけが学習みたいにきこえかねませんが、そうではありません。「生後の経験をつうじて新しい行動様式をかくとくすること」が学習なんですから。サルくらいになってくると、ずいぶんいろんな「発明」をやるんですね。子どもの手から上手にお菓子なんかをかっさらうすべを発明したり……。

 谷川俊太郎さんの『ことばあそびうた』(福音館書店)ご存知ですか。そのなかにこんなのがあります。

 さるさらう
 ざるさらさらう
 さるざるさらう
 さるささらさらう
 さるさらささらう
 さらざるささらさらささらって
 さるさらりさる
 さるさらば

 もちろん、かっさらうことだけにしかサルの発明能力がないかというと、そんなことはない。温泉につかることを発明するサル、海水浴を発明するサル……いろいろな発明をやるんですね。
(高田求著「未来をきりひらく世界観」ささらカルチャーブック p33-36)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「この場合「高等な」というのは、複雑な環境にたいして柔軟に対応できる能力、環境にたいする能動性、主体性をそなえた、という意味」