学習通信070809
◎専制主義は打倒されねばならぬ……
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潮流
宮本顕治さんの葬儀のあいだ、斎場の庭からセミの鳴き声がひっきりなしに聞こえてきました。六十二年前の八月六日の広島も、朝からセミがにぎやかだったでしょう
▼その日、宮本さんの弟の達治さんは、広島で原爆にあいました。戦争が終わり、まだ網走刑務所に入れられていた宮本さんは、お母さんからの手紙で知ります。行方知れずの達治さんは、死体もみつかっていません
▼宮本さんは、「こんなざんこくなことはありません」と嘆く母に、返事を書きます。「こんどの大戦の一般人民の莫大な犠牲は、こんな犠牲をふたたび反復しない生活と世界の建設に向かって人びとの心をゆりおこさずにはおかないでしょう」と
▼宮本さんの予見は、現実となります。秋葉忠利広島市長は、きのうの平和宣言で、被爆者の苦難を振り返りつつ語りました。「しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です」
▼平和宣言は、『こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ』と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来永劫忘れてはなりません」と続きます
▼核廃絶を妨げる勢力は、簡単には悪魔の兵器を手放さないでしょう。しかし、二人の小学六年生、森展哉さんと山崎菜緒さんが記念式典でのべた「平和への誓い」も、人々の心に頼もしく響きました。「私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです」
(「赤旗」20070807)
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八月十五日の午後三時ごろ、窓の外を囚人をつれて通っている若い看守が、防空壕を指さして、「これも二十世紀の遺物か」と言っているのがふと耳にはいった。広島、長崎の「新型爆弾」の投下の報や、ソ同盟の参戦などで、もう大詰めの近いことを感じていた私は、戦争終結かとハッとした。やがて夕方、雑役が「ポツダム宣言受諾」と通知してくれた。私はまだポツダム宣言のくわしい内容は知っていなかったが、無条件的降伏であることはおぼろ気に分かっていた。二、三日たって、天皇の勅語のことが正式に所内マイクで独居房の私たちに知らされた。
それから雑役は、来るたびに新聞記事の取次ぎをした。看守長は、私を作業後、特別呼び出して、これからは日本はどうなると思うかと新聞をみながら聞いた。治安維持法は撤廃され、われわれの公然とした活動も可能になろうと答えると、黙って聞いていた。私は、毎日のようにはいる新しい情報をたのしみにしていた。看守たちは、旭川師団からの大量除隊者が持ち帰った物資の話とか、武器がうめられているとか、北海道はソビエト軍が来るらしいというような話をしていた。
九月五日、山口県光市にいる母からの速達が届いた。八月二十二日に投函されているもので、七月に召集されて広島にいた弟の達治が、原子爆弾で負傷して、トラックの上で三日間すごしたまでは分かるがどこかに運ばれて行方不明というしらせだった。私は弟の嫁の友子宛に、詳しい問い合わせと万一の場合の激励を封鍼(ふうかん)葉書に書いた。間もなく福島の妻から山ロ県へ行くという電報が届いた。つづいて九月二十五日ごろ、九月十二日付けの母の手紙が届いた。
私の故郷の家は、父は一九三八年、拘禁の五年目に私が巣鴨にいたとき病死し、次弟の隆治は、現役から召集されて兵卒として「濠北派遣軍」に編成され、めったに音信もないありさまで、男手は一人もなく、六十歳の母と幼児二人をつれた弟の嫁がいて、塩とか煙草とか細々した女手だけの小売りでどうにか暮らしている状態だった。母たちは、近所の男の人に頼んで広島市の付近で弟の消息をさがして貰ったが分からないとのことだった。「こんなざんこくなことはありません」と母の手紙は、こんどの爆弾のおそろしさ、広島のおびただしい死者の話、弟のことを知らせてくれた。ちょっと傷をうけた除隊兵が、間もなく重症になって死んだことをたどたどしい筆で知らせていた。その中には「近所の兵隊は続々帰るが、達治は永久に帰ってきません」と書いてあった。
苦痛と三人の息子が一人も近くにいない前途の生活の不安がその手紙を貫いていた。私は月二度の発信になるので、特別手続きをとって、一通の封緘葉書に母と妻宛の手紙を書いた。私は、母をなぐさめ、同時に、今度の大戦の一般人民の莫大な犠牲は、こんな犠牲をふたたび反復しない生活と世界の建設に向かって人びとの心をゆりおこさずにはおかないでしょうと繰り返さずにはいられなかった。百合子からは島田へ出発する直前までの手紙と葉書が数日ごとに届いていたが、母たちの世話のこと、なおしばらくのあいだに備えて本やその他の事務的な依頼を書いた。
この死体もみつからなかった弟と私は十四年間も会っていなかった。私が党活動のため地下にはいってから、弟は貨物の自動車の小運送をやったりして、中風になって働けない父を養い、借金の多かった家のやりくりを母たちと一緒にやってきていた。私は一家の困難を顧みることもせず、困難な運動の中に身を投じたことをくやむときは獄中生活を通じて少しもなかったが、私に代わって一家を背負って苦労し、二度目の応召で終戦直前、若い妻と幼児を残して混乱と苦痛の中に、おそらく誰にも十分みとられず、行方も分からず死んだだろう弟のことを壁にもたれて静かに考えていると、まぶたに涙を感じた。
専制的天皇制は、われわれから何と多数のものを奪い去っただろう。しかし、歴史は審判する。審判しなければならない。専制主義は打倒されねばならぬ。私はこの思いをリフレインのようにくり返した。
(宮本顕治著「網走の覚え書き」新日本文庫 p18-21)
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◎「私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです」と。