学習通信070820
◎戦時教材は墨で消され、先生は「民主主義」「民主化」を語り始めた。

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 タケ子は、三朗が機嫌よく時計に向かう横顔を見て、遠縁の幼な馴染みが、すっかり大人の男であることに、少し戸惑った。

 母は、三朗に茶を出した後、蝦姑(しゃこ)を洗うつもりか、近所の井戸端に出かけたらしい。

 シン、と静まり返った気詰まりを払うように、三朗は仕事の手を休めず、少し大きめの声で話す。

 「戦争が終わって、民主主義や言うけど、婦人参政権も実現するらしいなあ、新聞を見てびっくりしたわ。いよいよタケちやんが輝く時代やで。仕事も女が、がんばる時代や」

 時代が変わったとはいえ、兵役からマラリアを抱え込んで、やせ細って帰ってきた三朗に、タケ子はかける言葉が見つからないでいた。

 「価値観が変わるというのは、一日では難しい、変わり際に、いろいろ矛盾もあるよ」
 話しつつ、話題を自分に振り向けることで、三朗を癒すことを考えた。

 「私、戦時中、女学校に文句を言うただけやなしに、終戦になってから、ついこないだは、今度は、医専に文句言いに行ってきてんよ」
 「ええっ、また、かいな。そないに怒ったらよけ腹減るで、ハハハハ。今度は何でや?」
 「腹減るけど、しょうないがな、黙ってられへんもん。いや、事の発端は、母校の後輩が病院に実習でやって来てな、その情報にショックを受けたんよ」

 話はこうである。
 後輩が言うには、戦争中、教授たちの講義は救急外科、戦陣外科、航空医学と戦争一色であったのに、それが終わってからは、まるでそれらがなかったことのように変化したという。

 「沓脱先生も戦争中の講義は、覚えがおありでしょう。それが今は戦争中の話は、けろっと忘れて先生方は、デモクラシーの権化のような顔をして、講義をなさいます。新入生の歓迎コンパにも出てこられて、自分が自由主義、民主主義のチャンピオンのようにお振る舞いです。変わり身の早さ、驚きでしょう。馬鹿らしくって、わたしたち」
 タケ子はこの話を聞いて、自分を軍国少女に駆り立てた教育のおぞましさを自覚しつつあっただけに、胸がムカムカした。人間として許せないものを感じ、怒りがこみ上げてじっとしていられない。

 医局長の林にわけを話して、
 「半日、ひまをください」
と頼んだら、林は、ニヤニヤしながら、
 「まあ、気の済むようにしたまえ」
と言った。

 タケ子が向かったのは、医専時代進路指導を始め、もっとも親切に指導してくれた高原高三教授。
 一目散である。
 後輩の話では、あの高原教授でさえ「変身なさっている」というのだ。高原教授は耳鼻科が専門であったが、戦時中はタケ子も「航空医学」などといった軍学共同の研究や講義を聴いている。

 くりくり坊主の頭で、あごの張ったいかつい顔に大きな丸めがね。その奥の細い目がいつも笑って見える。いつもの高原が、やさしく迎えてくれた。
 「やあ、元気でやっているかね」
 一番やさしかった、しかも、タケ子に理解を示し丁寧に導いてくれた高原に、厳しい抗議をぶつけることの葛藤が襲ってきたが、ここをどうしても突破しないでは、自分が自分でなくなるような切実さが、堰を切ったようにあふれる。

 「先生、今日は先生のご意見をお聞きしに参りました」
 タケ子は手短に後輩からの側聞を話し、自分が聞いた戦時中の高原の講義内容についても触れた。
 「先生方の世代は、大正デモクラシー華やかな頃に青春を送られたのでしょう。民主主義の大切さは、お分かりになっていらっしやったはずですよね。それを、知らない顔をして、軍国主義教育をやっていたとおっしやるんでしたら、いかにも勇気がなかったのではないですか?」
 「そして今、先生はどんな顔をして、民主主義を説いていらっしやるのでしょう。時代が変わったからといって、民主主義の権化のようなお顔で戦後の何も知らない学生に接していらっしやるのかと思うと、私、ムカムカするんです。まちがってますか?」

 たまりにたまったものを、ぶちまけたのだが、タケ子の心はどういうわけか、よどみを残して、晴れなかった。

 目をつぶって、こぶしを作りじっと聞いていた高原は、目から微笑が消えうせた。
 「久しぶりにやってきたと思ったら、厳しいことを言いに来たんだなあ」
と、静かに口を開いた。

 「いや、僕だって、確かに最低うそは教えないようにしていたつもりだが。しかし、本当のこと、真実は、教えていなかったなあ。けどなあ、わかっておっても、あの時代、どうにもならなかったんだよ。解ってくれよ、沓脱君」
 「すみません、先生に申し上げても、お門違いであるかもしれませんのに……」

 高原は口を閉ざした。
 机の引き出しから愛用の「ひかり」を取り出して火をつけて深く吸い込んだ。ヘビースモーカーの高原の指はわずかに茶色に変色していて、紫の煙のにおいがタケ子に届いた。
 タバコに火をつけては吸い、また新しく、火をつけている。
 沈黙が統く。

 夕ケ子は、そっと言ってみた。
 「先生、相変わらずヘビーですね、お気をつけにならないと」
 「うん……」
 高原が、軽くうなずいた。
 長い沈黙の後でぽつり、ぽつりと途切れがちにつぶやいた。
 「どうにもならなかったんだよ。勘弁してくれよ。あやまるよ」
 眼鏡越しに薄く涙がにじんでいた。

 タケ子は、悲しそうな高原を見た。
 高原のつらさというものが、初めて理解できたような気がした。
 時代を生きることの現実を、自分に引き寄せてみれば、重大さが深く胸に迫る。
 自分がどう生きるかを抜きに、高原を責めることはできないと思った。

 タケ子は、それ以上言葉を続ける力量を持たなかった。
 学生時代、指導教官としての高原は、知的好奇心の格別強いタケ子を丁寧に指導した。中には女子医専ということで、むき出しの学問的追求を好まない教員もいて、タケ子はそういう教官から疎ましがられるということもないではなかった。

 高原は、いつもタケ子をかばい、励ましながら、そうした矛盾が拡大しないよう指導の心配りを続けた。
 さらに、タケ子が子どもの頃の中耳炎が完治せず苦しみ、それが元でわずかな難聴さえ併発しているのを聞いて、徹底的に治療し耳の病気からタケ子を解放したのも高原であった。

 夕日が斜めに校舎を照らす中で、無言のまま、校門まで送ってきた高原は、
 「がんばれよ、これからは、君らががんばる時代だからな」
 そういって、左手を軽く上げて振って見せた。
(稲光宏子「タケ子」新日本出版社 p74-79)

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日本共産党創立85周年記念講演会
日本共産党史85年と党発展の現段階
不破哲三前議長の講演(大要)

──略──

 いまの日本には、「靖国」派というきわめて特殊な政治グループがあります。この「靖国」派というのは、過去に日本がやった戦争を正義の戦争だと思い込み、この戦争をやった当時の日本こそ「美しい日本」だったと信じ込んで、いまの憲法をこわし、昔に逆行したいと願っている人たちであります。

 今度の選挙は、その「靖国」派で固めた安倍内閣が初めて国民の信を問うた選挙でありました。一方、その自民党が固い同盟を誓い合っているはずのアメリカでは、議会が、日本が戦争中におかした「従軍慰安婦」問題をとりあげて、日本に謝罪を勧告する決議をおこないました。ここには、自民・公明の政治がいま落ち込んでいる矛盾がきわめてはっきりと現れています。つまり、いま日本の政治と日本の政党は、世界から、戦前・戦時の日本をどう見るかが問われているのであります。

 この問題でも、日本共産党の立場は明白であります。

 私たちは、日本の戦争が何なのか、植民地支配があったのかどうかなど、自分たちと関係のない「歴史」の問題として研究し、答えをあとから出しているわけではありません。その戦争が準備され、火をつけられ、植民地支配が広がり、国民が強権でそこに引き込まれつつあるさなかに、命がけでこれに反対した政党であります(拍手)。いいかえれば、天皇という絶対者の名で、国民を問答無用で戦争の惨害に引き込んでゆくその現場で、これは間違った侵略戦争だと主張し、国民主権の民主政治への転換の旗をかかげた政党であります。これが日本共産党であります。(拍手)
(「赤旗」20070812)

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昭和二十(一九四五)年
切腹はしなかった先生

 掃除当番を増やして、先生が教壇で切腹した場合の後片付けまで考えたのに、その後、先生に切腹するチャンスは来なかった。

 東京では阿南惟幾陸相を始め、切腹、自決した人が相次いだと聞いた。
 僕たちは、責任をとる大人と、責任をとらない大人がいることを知った。

 でも、先生が切腹しないでよかったと思った。

 そのころ、マッカーサーが厚木に到着し、やがて東京・赤坂の米国大使館を昭和天皇が訪問した写真が新聞に載った。

 先生は教科書に墨を塗る作業をつらそうに命じ、子供たちは嬉しそうに指示に従った。

 軍国主義の文面だけではなく、地図で赤い日本の領土を黒く塗るのが難しかった。朝鮮半島、台湾、サハリンを僕はとても上手に黒くした。
 北方領土のことは覚えていない。

 こうして戦時教材は墨で消され、先生は「民主主義」「民主化」を語り始めた。
 僕たちも、どうやら死なないで済みそうな気がしてホッとした。
 勝つはずの戦争に負けたことで大人たちは呆然としていたが、子供たちは負けたことで気落ちするほど世界がわかるわけではなかった。
 もっぱら解放感を味わっていた。

 例えば朝礼の皇居遥拝がなくなっただけでも、スッキリした。
 なんだか遠くにいる、姿の見えない人に毎朝、お辞儀をしていたことが理解できなかったのだ。
 「民主化」という言葉に後光がさしてきた。
 「婦人参政権」「労働組合」「農地改革」「教育の自由」「財閥解体」などなど。
 夏まで戦っていた「鬼畜アメリカ」が、秋になると「憧れのアメリカ」になりはじめていた。

 そして戦後映画の第一作「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」(並木路子)が大流行。
 東京では歌だけで口に入らないが、信州では歌って食べられた。
 そうした情報源はタブロイド判の信濃毎日新聞「シンマイ」だった。
 新聞は学校に届けられ、当番制で子供が自分の集落に配達しながら帰るようになっていたので、誰よりも早く読めることが嬉しかった。

 軽井沢に米軍のジープが来たという噂もあり、米兵を見かけた子供たちは、赤鬼のようだったと言った。
 後で肌が赤いのは沖縄戦で日焼けしていたことを知った。
 進駐軍は赤く、駐留軍は白いということを訳知り顔に話す子もいた。
 黒人兵の存在も初めて聞かされた。

 あれだけ憎んでいたアメリカ兵を多くの日本人が手を振って迎えた。
 みんな疲れきっていたのだろうし、考える余裕もなかった。
 そして都会では餓死者が続出していたのである。
 そんな東京に家族で帰れるわけがなかった。
 国民学校を卒業したら帰京して早稲田中学へ、という予定は先延ばしされて上田中学ヘと聞かされた。

 こうしてしばらくは信州暮らしが続くということになった。
 信州といえども食料はなかった。
 イナゴ、サナギ、ザザ虫を捕らえ、食べるためだけに鮎を釣りに行った。
 おいしいというより、栄養のバランスで食べるだけだった。
 以後、僕は鮎を食べない。

 疎開で来ていた伸間が、次々に帰京してゆくのを見送りながら寂しい思いをしたが、一つだけ良かったのは体が丈夫になってゆくことだった。
 当時の最先端医療が、何の役こもたたず、信州暮らしが体力を取り戻してくれたのだ。
 以後、僕は近代医学を信用しない。

 この年、僕は十二歳。
 そして、マッカーサーは後に帰国してから当時の日本人について、「十二歳」と発言する。
 大人たちはムカッとしたかもしれないが、思えば十二歳の当事者は、日本人の代表という気がした。
 日本でのマッカーサーはまさに権力者の面構えで、笑顔とは縁のない顔をしていた。
 『昭和群像』(大竹省二写真集、日本カメラ社)で笑っているマッカーサーが撮られていたので、ビックリすると同時にホッとした。

 そのマッカーサーの仕事で知られていないのが「ボランティア募集」。
 阪神大震災にたくさんのボランティアが集まったように、五十三年前にもアメリカからたくさんのボランティアが日本にやってきた。
 「日本でボランティアを。一万人の善意を日本へ運びたい」
 呼びかけたのがマッカーサー、さすがにボランティア先進国で「リメンバー・パールハーバー」のジャップの国へ多くの若者たちがやってきた。

 そのボランティアの男女が日本で結ばれて定住し、子供が生まれる。
 ケン・ジョセフ。
 九八年の冬、ケン(前世夫・健)と『あがぺ・ボランティア論』(光文社)という本を出した。
 ケンは世界の被災地を飛びまわって親子二代のボランティアである。
 マッカーサーが、このボランティアを呼びかけたことに関しては、今さらながら脱帽する。
 そして、日本でボランティア史を書くなら、この時の記録を忘れてはならない。

 敗戦でグッタリした日本。
 激戦地になった沖縄。
 五十四年たって、沖縄ではまだ戦後処理ができていない。
 アジアに対しても、戦後処理がくすぶっている。
 あの時、日本人を十二歳と言ったのは、こうした不始末のことを言っているのだろうか。
 今、十二歳がしやがんで携帯電話をかけながらバタフライナイフを弄んでいる。
(「永六輔「昭和」知恵の森文庫 p94-99)

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◎「時代を生きることの現実を、自分に引き寄せてみれば、重大さが深く胸に迫る……自分がどう生きるかを抜きに、高原を責めることはできない」と。

◎「いいかえれば、天皇という絶対者の名で、国民を問答無用で戦争の惨害に引き込んでゆくその現場で、これは間違った侵略戦争だと主張し、国民主権の民主政治への転換の旗をかかげた政党」日本共産党。