学習通信070821
◎日本語には標準語というものが確立していない

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言葉にならない思考
総合研究大学院大学教授 長谷川眞理子

 西洋の概念では、言葉はロゴス、すなわち論理であり、言語化された思考こそを人間精神の高みとみなしてきた。それゆえ、自分の考えを明確に述べることや、実験結果を簡明に描写した論文を書くことなどが、近代の教育で重視されてきた。

 人間が言語を持って以来、確かに言語は思考を助け、人間の能力を大きく広げてきた。しかし、そもそも思考の根源が言語にあるのではない。誰にでも経験があると思うのだが、最初に何かを思いついたときには、その考えは、明確に言語化されてはいないだろう。あとになってていねいに言語に置き換えて初めて、一つの考えとして他の人々に伝えることができる。しかし、もとは言語ではないのである。

 今、「あとになっていねいに言語に置き換て」と言ったが、それは人間のすべての思考や感性はていねいに言語に置き換えることができるのだろうか? 音楽の感覚、匂いや味に伴う感じ、そこからの連想がなぜ生じるか、スポーツに習熟したときのある種の直感的な理解、こんなものは最終的にも言語に置き換えることは不可能ではないだろうか。

 先日来、寺田寅彦の随筆を読んでいる。この人は素晴らしい感性の持ち主だ。そして、その感性を上手に言語化する技術も心得ていた。だから、彼の随筆は、はっとするほどおもしろい。それでも、寺田寅彦が頭に描いていたこと、彼がわかっていたことは、随筆に表現されたことの十倍も百倍もあったのだろうと推測さる。思考を言語にすることは必要だ。しかし、言語化されたものだけ、され得るものだけを知性に限定するのは、人間精神のたいヘんな矮小化であろう。
(「日経」夕刊20060417)

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ことばとの出会い

熊本弁との出会い

 ことばとの出会い、という意味は、私がいつ話しことばとしての日本語というものを意識したか、そのとき自覚的に意識はしなかったとしても、今から考えてあの時が意識した最初だと思われる時はいつであって、そこでの問題は、そのとき問題として意識されたわけではなかったとしても今から考えて何であったか、というようなことであります。そしてそのような意識や問題は、当然、のちの私の、せりふを書くという行為に、どのようにかして収斂されて行くということになるわけでありましょう。

 私と日本語との──くり返しますが日常の話しことばとしての──最初の出会いは、小学校四年の時だったと思います。東京の本郷で生れて本郷で育った私が、父親が隠居したため、父親の郷里である九州熊本へ突然持って行かれて町の小学校に入れられて、主としてことばの点で当分非常にいじめられた。転校して来た子がいじめられるという一般的事情のほかに、いま考えてもその大きな理由は東京弁にありました。

これは予想もしていなかったことであり、それで私はびっくりして必死になって熊本弁を勉強して──勉強、などという感覚とはむろんおよそ違った努力でそれはあったのですが、その努力と、新しい外国語を勉強する時のプフセスとを較べてみるとおもしろいことがないでもないけれども、それはいま別のことです──とにかく必死に頑張って、地元の中学にはいる頃には生粋の熊本人と全く違わないまでに純粋の熊本弁を、ということは、今日の熊本の若い人たちが使っている共通語化された熊本弁よりはずっと純粋なそれがしゃべれるようになっていました。

それから旧制高等学校を卒業するまで、前後十年の青春時代を熊本で過したわけですが、その間も家で母親とは東京弁で話していたはずなのだけれど、大学にはいって十年ぶりで東京に出て来た時は、自分はきれいな東京弁をしゃべっているつもりが、例えば電機≠フつもりで伝記≠ニ、牡蠣≠フつもりで柿≠ニいっいるというふうでありました。熊本では光るほうも人の生涯もアクセントはンキに、海の中のも木の上のもアクセントはキにあります。今でも私は鍬≠ニ桑≠、熱い≠ニ暑い≠うっかりいい違えたりすることがないでもない。

だからアクセントには、それと次に触れる鼻濁音についても大変に神経質であります。それは自分のことばについても、ひとのことばについても。声に出してそれを指摘するわけにも行かないような関係の人には、会話をかわしながらいつもお腹の中でダメを出しています。それと、東京弁ではないことばを(たとえ自身は東京弁のつもりでいても)しゃべる人の話を聞きながら、無意識的に必ず私は、その人のことばと東京弁との、いわば距離を計ってみるというような操作を、頭の中でやっています。だから、いっていい人にはついそのことをロに出す。相手が俳優でない場合は別にとがめるというのではありません。

いわゆる方言をとがめる資格のあるような標準語は日本にはないというのが私の考えですから、とがめるわけではないが気になるのです。鼻濁音にえらくうるさいとひとから、ことに俳優諸君から私はよくいわれるけれどそうではない。発音されることば全体についてうるさいのであって、ただ訂正する頻度が、鼻濁音の場合がとび離れて多いというのに過ぎない。つまりそれほど鼻濁音が消滅しつつあるということであります。もっともある日本語学者から教わったところでは、鼻濁音を美しいと思うか美しくないと思うか、それを日本地図の上で考えると、美しくないと思う人々の住む地域のほうが大分面積が広いということでありました。多数決でいえば負けるよりない。あとで触れるであろうところの、そしてさっきもちょっといったところの、日本語には標準語というものが確立していない≠ニいう私の持説の、これは一つの傍証ということになります。

「よかことば」

 さて、熊本の小学校でいきなりいじめられた。どういうふうにいじめられたかというと、例えば教室で、あの頃は大きな声で読本を朗読させられるというよい習慣がありましたが、転校してすぐのころ、一所懸命手を挙げて当てて貰って立ち上って、「きょうぼくの兄さんが」とが≠鼻濁音で読むとみんなが笑う、というより嘲笑するのです。「ぬしががは鼻ン(に)抜けとる」といって休み時間にも大勢で真似してはやしたてる。

また例えば、これは五年生の時だったか、どれだけか熊本弁がもうしゃべれるようになってからのことですが、あるとき教員室をのぞいて来た私が友達どもに、「教頭先生はおらっさんばい」といったら猛烈にやっつけられた。「おンなはらん」という敬語を使わないのはけしからんというわけです。「おンなはらん」=「おいでにならない」。「おらん」=「いない」。「おらっさん」というのはその中間の、第二級または中クラスの敬語であって、東京弁にはちょっと相当する表現がないようであります。私たちの前の代の(私の戯曲『風浪』に出てくる世代の)熊本士族だったら、「ござらんばい」または「ござらっしゃらんばい」といったのかも知れません。

 ところが、そうやって私をいじめる子供たちの中に、「あの学校はよかことばば使いよるぞ」という声のあるのを私はいつか聞きつけました。あの学校というのは師範学校の付属小学校で、私たちの町の学校と違って、良家の子弟が通うとされていた学校です。ある日たまたま私はその師範付属を訪れました。運動会を見に行ったのだったと思います。ところがそこで、先生と子供の両方が発するいくつかの、何ともいえないねちねちとした節回しと言い回しの、ひとことでいえば不愉快なことばに驚かされました。こういうことばが「よかことば」とはどういうことだろうと、子供心に不審に思ったのを覚えています。

 後に至って分ったことは、師範付属の先生たちと生徒たちが使っていたあの妙なことばは、彼らとしては標準語≠フつもりのものであったのです。良家の子弟の来る学校だから、先生たちも標準語≠使って、それをよかことばだとして奨励する。しかしその先生たちにしてからが 熊本の師範の卒業生だから、まことに不思議な熊本なまりの東京弁ということになる。つまり私の小学校の仲間たちは標準語≠「よかことば」だというていたわけで、それなら純粋に東京山の手のことばをしゃべる私を尊敬すればよさそうなものだのに、実情はそうでなかったというわけでありました。

東京中心主義

 以上お話しして来た現象に対する後年の私の分析は以下の如くであります。日本の近代文化というのはすべて東京中心主義であった。今でも汽車は東京行きが上りで東京発を下りというのは考えてみれば地方の人々には失礼な話で、これなどは江戸時代の封建遺制というべきでしょうが、戦前まで強く残っていた文化の東京中心主義は、今の若い人々には想像もつかないほどのものでありました。

本来価値の上下のあるはずがないことばについても同様でしたが、この場合はそういう一般的事情のほかに、あとでいうような、東京山の手のことばに洗練を加えたものを標準語≠ニして政府がいわば制定したという事情が加わって、殊に東京中心主義は甚だしかった。

方言と称せられるものの中でも東北弁などは、それをズーズー弁と呼んだのは一種の蔑称だったのでしょうがひどい扱いで、東北弁の人がいわれなきインフェリオリティ・コンプレクスを抱いて買いものに行くと、きれいな東京弁の店のおやじは、意識はしていなかったとしてもシュペリオリティ・コンプレクスを持って品物を売ってやるというのが、戦前までの東京でよく見かけた風景であります。

もっとも──少し脇道にはいりますが──寒い東北地方はそれだけ近代文化の開発がおくれたという事情はあったかも知れないが、同時に幕末維新の時の賊軍≠ナあったというコンプレクスが、どうも戦前までは陰にあったのではないかという気が、明確な根拠を示せといわれると困るのだが私はします。戦後になっても、これはほんの十数年前のことですが、NHKの友人が半ば冗談で話してくれたのは、転任者を東京駅で送る時は景気よくバンザイということになるけれども、上野駅で送る時はどうも気勢が揚らない。

十年も前でしたか、仙台のNHKから、言語学者の柴田武さんたちと東北の方言≠ニいう題で全国中継のTV座談会をしたことがありましたが、そのとき柴田さんが、東北文化の(あるいは日本文化の)ために、上野駅のイメイジ・アップをしなければいかんということを、これも半ば冗談でいわれたのを覚えています。東北地方の少年の集団就職ではことばのことでよく問題が起る。自殺事件までもかつてはあったということを記憶している人は少なくないでしょう。

地域語≠フ提唱

 ついでながら、〈山本安英の会〉が毎月開いていることばの勉強会≠ヘ一九八二年で十六年目、その一月で第一六〇回を迎えますが、一九六七年十二月の第一回で発題講演を行なわれた上原専禄氏が、方言の代りに地域語≠ニいうことばを使われました。爾来勉強会≠ナは原則としてこのことばを用いていますが、標準語≠ノ対して方言≠ニいうのは一種の差別的ニュアンスを持っている。地域語≠ニいえば、それは狭くは熊本地域の、広くは九州地域の、そして狭くは東京または青森地域の、広くは関東または東北地域のそれぞれのことばを、同一平面上で考えることができるという、それが地域語≠フ発想だと思います。もっとも、これは決して冷かしとしてではなく、便所をトイレといい換えてみたって中身が変るわけじゃないといった人がある。これも確かにそうだと思います。

そしてここ二十年来、十年来、地方コンプレクス(いい換えれば文化の東京中心主義)は急速に薄れつつあるように思え、従ってことばにまつわるコンプレクスもなくなって来つつあるのはいいことだと思いますが、それが共通語を媒介とする単なる平均化、地域語の特色を水増しによって薄めてしまうことであったら、これはまたこれで問題だというようなことについては、後に触れることになるだろうと思います。

例えば地方のどこかで観光バスに乗る。バス・ガールが共通語化された標準語≠フようなもので名所の説明をしてくれる。それはしばしば尻のこそばゆくなるような調子のものであるが、さてバスがとまっているとき、そのバス・ガール嬢と運転手君が純粋に地元のことばで話しあっているその会話は、意味は十分にわからなくとも大変魅力的である、というような現象をどう考えたらいいか。

地域語との距離感覚

 さて、脇道が長くなりました。少年のころ熊本弁でいじめられたことについての、後年の私の分折に戻ることにします。つまり、熊本の小学校の友人たちは、無意識ともいえないほどの意識閥下において標準語=i=東京文化)なるものへのインフェリオリティ・コンプレクスを抱いていた。(「よかことば」である師範付属のあの変なことばと、私のしゃべる純粋な東京弁とを標準語≠ニいう概念で一つにくくることまではできなかったとしても。)それが私をいじめることの一つの大きな理由であった。それに対して私は、シュペリオリティ・コンプレクスを抱くひまもなくびっくりして熊本弁を覚えた、ということであったと思うのです。

 しかしやっぱりシュペリオリティ・コンプレクスを私は持っていたと鮮かに思い起せるのは、例えば、もう純粋な熊本弁を自在に駆使して毎日を送っていた中学の二年か三年の頃、考古学の鳥居親裁さんがお嬢さんを連れて調査にこられた。日頃はおっかない中学の先生がたが、鞠躬如というような格好で鳥居さんの発掘現場について回られる。それにくっついて歩き回った私が、何かというとしゃしゃり出て行っては鮮かな東京弁でお嬢さんと応対して、中学の先生がたを尻目にかける気分であった。思いだしても気恥かしい次第であるのですが、しかしやはりこれは、日本語というものを考える上で、ここに挙げておくに値いする一つの例だと思います。

 そのほかにもいろいろと、何だかんだがあったけれど、後年戯曲を書くということにはからずもなったとき、私は大変トクをしていたと思えることになったのは疑いありません。それはまず、一つの地域語を完全に自分のものになし得ていたということにおいて。それから、さっきもちょっといいましたが、東京弁と熊本弁の違い、距離を常に意識させられつつ暮したというところから、熊本弁に限らない、どこの地域のことばであっても、それと東京弁との違い、距離を本能的に計算するということが身についてしまったお蔭で、話しことばに対して異常に意識的になってしまったということにおいて、などであります。

ことばのもとにあるもの

 ところでもう一つ、ことばの裏、またはもとにある発想という問題で、熊本の小学校で体験した忘れられない一事件がある。転校してすぐのころ、次は体操の時間というのであったかどうか、運動場へ出る出口の簀の子(すのこ)に腰を下ろして運動靴をはいていたら、いきなり猛烈な冷かしのことばが二階の窓から降って来ました。何人もが顔をつきだして囃したてたそのことばはいま覚えていませんが、自分では気がつかないうちに、私が女の子と並んで腰を下ろしていたという、ただそれだけのことなのです。

熊本では男子組だったが、東京の中産階級の息子として通っていた東京の小学校は考えてみれば男女組で、男、女ということなど、ほとんど私の意識になかった。お上品に、そういう問題は意識させられない、または意識してはいけないというふうに育てられていたのかも知れないが、考えてみると標準語≠ニ呼ばれた東京弁は、そのことと表裏するようにして、ある抽象性というか、男女ということでいえば生々しいニュアンスを抜いてしまった一種お上品なことばとしてあったように思われる。家庭の階層ということもむろんありはするでしょう。

しかし東京では割と捨象されてしまっていたそういう要素が、地方には非常に濃密にあるということを、私はそれ以後次々と教えられることになります。露骨に猥褻なことばもどんどん覚えることになる。猥褻なことばというのが一番象徴的だと思うのですが、人間心理のいろいろと絡まりあったものというのが、東京では、というより標準語≠ナはわりと抽象化または捨象されているのに対して、地方ではそれが具体的に、生き生きと存在していたといったらいいでしょうか。いわゆる方言というものを考える場合、単なる表現や単語というのでなく、ことばの生れる発想ということを含めて考えないと問題がとらえられないと思うのですが、熊本へ行って実はあのとき、初めてそのことに気づかされていたのだなということに、後になって気がついたというわけであります。

 後年、私が戯曲というものを書きだした最初の作品は、敗戦後二年目の一九四七年に発表した『風浪』の原型で、それを書き上げたのは戦争中、一九三九年だったと思いますが、これは一八七五〜七七年(明治8ー10)の熊本を舞台にしている、純粋に熊本弁の芝居です。次には一九四三年頃の戦争中に、後に民話劇とひとが呼んでくれることになる一連の小品を、発表のあてもなくいくつか書いていました。『彦市ばなし』や『二十二夜待ち』や、『夕鶴』の原型である『鶴女房』その他です。

『彦市ばなし』は熊本弁に、ある普遍性を与えたもの、『二十二夜待ち』はどこと地域を限定することができないいわゆる方言で、これらは当時のまま全く手を加えないで戦後発表しましたが、そういう作品を書く場合、以上述べて来た私のことばまたは日本語との出会い¢フ験が、この章の初めにいったように、どのようなふうにかして、せりふを書くという私の行為に収斂されたということは自然でありました。そのことについては、追々触れて行きたいと思います。
(木下順二著「戯曲の日本語」日本語の世界K 中央公論社 p5-14)

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「言語」か方言か

 言語の自律性を信じ、またそれを守ろうとするたちばをとるものにとって、言語の分類が、言語にとって外的な民族や国家などの単位によっておこなわれるなどとは、がまんのならないことである。すなわち、国家が出現する以前から言語は存在し、むろん人々は民族にならずとも言語を話している。だから、言語はこれらの集団に対して絶対的なプライオリティーをもっているのである。

 しかし、さきにのべたように、これは一つの言語、あれは別のもう一つの言語というふうに数えていくばあい、言語固有の原理による分類がどこまで貫徹できるであろうか。やっかいなのは、「言語」と「方言」との区別である。これらの表現の区別は日本語ではいずれもことばと言いかえられるように、はっきりと自覚的に保たれていないが、言語学の概念としては重要なので少しふれておきたい。

 これら二つの用語の区別をはっきりさせておくことは、二重の意味で必要である。まず第一に、「方言」という語の日常的な用法においては、それと対立する「標準語」に対して、価値の低い、劣ったことばとして受けとられることがある。しかし言語学で言う方言とは、一定の地域内で話されている、その地域特有のことばと言うほどの意味であって、そこには地域による差別感を介入させてはいない。

だから、東京という地方の土着のことばは東京方言と呼ぶことにしている。そのばあい、東京方言と茨城方言とを並べて、一方が他方に比べてより劣っているとかいないとかということを問題にする人があるとしても、それは「方言」ということばの罪ではなくして、土地そのものに加えられた社会的、文化的差別感のせいである。

方言とは、抽象的な「言語」あるいは「〇〇語」というものが、土地ごとにあらわれた具体的なすがたである。しかし、一つ一つの方言と、これら方言を超越した「言語」像とのあいだの距離(感)は、個々の方言によってちがうのである。その中心的な「言語」像から離れれば離れるほど、その方言度は高くなり、さらに遠のくと、もはや方言ではなくて別の「言語」になる。方言にとどまったほうが好もしいと思うか、いっそ別の「言語」になってしまうほうを選ぶかは、いちじるしく話し手、あるいは言語共同体の意志にかかっているのである(第七章参照)。

そして、中央政府は「方言」が「言語」になってしまうことをおそれ、つねに警戒を怠らない。方言の「言語」化は、その地方の話し手を分離独立運動に導く危険をはらんでいるからである。

 ヨーロッパの諸言語では、この区別がはっきり意識にのぼっていて、言語はlanguage, lan-gue, Spracheなどと言いあらわされて、方言dialectと対立している。「言語」も「方言」もいずれもことばである点ではかわりがない(だから私も以下で、「言語」であるか「方言」であるか、はっきりさせたくないときには、その対立から逃れられる、より一般的なころばということばを使ってやりすごすことにする)。しかし、言語は方言より格が高く、方言は言語に依存する。すなわち、方言というのは、それより上位の、より大きなことばである言語の下位単位である。日本語、ドイツ語はそれぞれ言語であるのに対し、茨城方言、アレマン方言は、それぞれ、日本語あっての茨城方言あるいはドイツ語あってのアレマン方言だと考えられている。

 以上の考察から引き出せるのは、言語とは、それを構成するさまざまな諸方言をまとめて、その上に超越的に君臨する二極の超方言とする考え方である。それは頭のなかだけで描き得るきわめて抽象的なものであるから、誰にも話されていない、いわば日本語という名と、それについての観念とだけがある抽象言語とも言えよう。

したがって言語とは、多かれ少なかれ頭のなかだけのつくりものである。別の言いかたをすれば、言語は方言を前提とし、また方言においてのみ存在する。それに対して方言は、言語に先立って存在する、よそ行きではない、からだから剥がすことのできない、具体的で土着的なことばである。それが観念のなかのことばではないという意味において、首都で話されている日常のことばは、厳密な言いかたをすれば、極度に観念のなかの標準型に近づけられた首都方言である。
(田中克彦著「ことばと国家」岩波新書 p16-19)

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◎「言語化されたものだけ、され得るものだけを知性に限定するのは、人間精神のたいヘんわわな矮小化であろう」と。