学習通信070822
◎日本が「子どもを大切にしない国」になっている

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第1章 子どもの貧困としあわせの課題

自己責任VS「子ども福祉」の公的責任

 この国の子どもたちは、しあわせな子ども時代を過ごしているでしょうか。みなさんは、しあわせな子ども時代を送ったという実感を持っていますか。

 「子ども期」は「人生最初の時期」です。このまたとない時≠ヘ、みんなにしあわせが保障されるべきです。けれども現実はそうなっていません。世界には一九二もの国があります。しかし、どの国に生まれるかによって、子ども期のしあわせの水準には大きなちがいがあるのが実際です。しかも経済的には高度に発展しているはずの日本で、子どもが大切にされていません。

 本書の冒頭になるこの章では、その現実をしっかりとみつめ、私たちに何が求められているのかを考えていくことにします。

▼子ども福祉の基盤としての親の生活状況

 「サラ川(せん)」と呼ばれる「サラリーマン川柳コンクール」が毎年おこなわれています。これをまとめた『「サラ川」傑作選 ごにんばやし』(講談社、二〇〇五年)から、現代の働く人たちの悲哀と親子関係を表わした「サラ川」をいくつか紹介してみましょう。

教育費かけた頃には夢があり
イチローの三日分だよ 我が年収
窓際と覚悟してたら窓の外
目の前を回って過ぎる寿司と運
やめるのか 息子よその職俺にくれ
イジメはね 会社もあるよ さとす父
やめてやる 子供の寝顔でまた出勤
子はニート父リストラで母パート

 みなさんはこれらの「サラ川」から、どんなことを感じるでしょう。そうそう、こんなサラ川大賞受賞作が以前にありました。「老人は死んでください国のため」。

 ここに表わされている日本の家族基盤の現状を、子ども福祉を考える場合もリアルに把握しておくことが必要です。しかしみなさんは、この厳しさの結果、所得が少なく生活保護を受給することなどは、その人の努力不足や個人責任の問題であると思っていませんか。子どもの生活水準は、親の努力の結果でしょうがないと考えていませんか。

 この問題を考えるには、もう一歩踏み込む必要があります。「勝ち組」と「負け組」を生み出す社会のしくみ、これを考えることです。

 とくに子育てまっただなかの若年の親世代の生活状況を視野に置きながら、子ども福祉を子ども個人に保障する福祉として捉えること、家族責任にせず、社会的に保障していくという、個人を人として尊重し、社会の絆のなかで子育てをしていく視点をもつことが大事です。

 ところが今の日本は、社会的な福祉費用を削ることばかり実行し、後は自己責任が当然としています。これでは「子どもを大切にしない国」になってしまうのは、火を見るよりも明らかです。これを解決するには、「子ども福祉」を自己責任にせず、子どもの生活の何を制度的に保障していくのかが間われるのです。このことを一言で言えば、子ども福祉は、人生最初の社会保障だということです。

▼人生最初の社会保障としての「子ども福祉」の重要性

 では、その内容として間われている課題を保育を例に紹介していきましょう。

 まず、世界ではどのように考えられているでしょう。これを示すのに、とてもよい報告書があります。それはOECD(経済協力開発機構)の調査報告書『人生はじめを力強く I』(二〇〇一年)です。これを見ると、世界の保育政策の動向は、@保育料の無料化の流れが広がりつつあり、イギリスやスウェーデンなどの国々では、就学前二年程度の保育を無料化する政策が大きな流れとなってきている、A「就学準備のための保育」から、「いま、ここにある生活を豊かに幸せにするもの」としての保育の重要性が指摘されている、B保育の質の向上のためには、その目標を政府として明確に示し、その実現のために責任を持つ必要があると考えられていることがあげられています。

 このように保育分野だけでなく児童福祉の時代の潮流は、「公的な責任でやるべきことは公的に」という方向です。これが、子どもを大切にする国の基本的な方向となっています。具体的な国名を詳細にはあげていませんが、厚生労働省が編集した『世界の厚生労働』にもとづきながら表1にしてみると「子どもを大切にする国」と「子どもを大切にしない国」の国際格差の基準が、どこにあるかを明確に知ることができます。日本が「子どもを大切にしない国」になっていることも一目瞭然です。
(浅井春夫著「保育の底力」新日本出版社 p16-21)

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近代は子どもが拓いた

 筆者は、そう確信する者のひとりです。
 世の大人たちが、わが子はもちろんのこと、子どもたちのいまとこれからを国の未来にかかわって真剣に問いはじめたのが近代なるものの夜明けであったといえましょう。

 フランス革命を経て、社会主義革命への道は、より一層、この問いを深め、確かなものにしました。

 社会主義革命を経たソビエトにあって、国づくりの基礎に教育あり、と追求した人々(レーニン、クループスカヤをはじめとする多くの人々)のなかにあって、マカレンコは、こう指摘したものでした。

 子どもの教育ということは私たちの生活のいちばん大切な分野である。私たちの子ども──それはわが国の未来の市民であり、世界の市民である。将来歴史を創るのは彼らである。私たちの子ども、──それは未来の父であり、母であり、彼らもまたやがて自分の子どもの教育者になるだろう。私たちの子どもは大きくなってりっぱな市民、よい父、よい母にならなければならない。

しかし、それだけにとどまるものではない。私たちの子どもは、とりもなおさず私たちの晩年である。正しい教育こそは、私たちの幸せな晩年であり、悪い教育こそは私たちののちの悲しみであり、それは私たちの涙の種であれ、それは他の人たち、国全体に対する私たちの罪となるのである。(南信四郎訳『愛と規律の家庭教育』青木書店)
(秋葉英則著「子どもの発見 教育の誕生」清風堂書店 p47-48)

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 子どもの教育ということはわれわれの生活の大切な一分野である。われわれの子ども、──それはわが国の未来の市民であり、世界の市民である。将来歴史を創るのは彼らである。われわれの子ども、──それは未来の父であり、母であり、彼らもまたやがて自分の子どもの教育者になるだろう。われわれの子どもは大きくなってりっぱな市民、よい父、よい母にならねばならない。

しかしそれだけにとどまるものではない。われわれの子どもは、とりもなおさずわれわれの晩年である。正しい教育こそは、われわれの仕合せな晩年であり、わるい教育こそは、われわれののちのちの悲しみであり、それはわれわれの涙の種であり、それは他の人たち、国全体にたいするわれわれの罪となるのである。

 親愛なる親たち、なにをおいても先ず諸君は、このことがひじょうに重要であり、それにたいする諸君の責任が大きいことを、かたときも忘れてはならない。

 さて今日これからわれわれは家庭教育の諸問題にかんして一連の講義をはじめるわけだが、教育活動の個個の部分、つまり規律や親の権威、遊びや食物や服装や作法などにくわしくたちいたっておいおい話をすすめで行くつもりである。以上のことはいずれも、教育活動の有益な方法についてものがたるきわめて大切な部門であるが、それらのことをはなす前に、一般的な意義をもち、教育のあらゆる部門、あらゆる部分に関係があり、かたときも忘れてはならないいくつかの問題があるので、それにたいして諸君の注意を向けたいとおもう。

 まず第一につぎのことに注意してもらいたい。つまり、子どもを正しくあたりまえに教育するほうが教育しなおすよりもはるかにやさしいということである。

ごくおさない子どもの時分から正しく教育するということは、多くの人たちがおもうほどそんなにむずかしいことでは決してない。そのむずかしさからいって、このことは、どんな人でも、どんな父でも母でも、できることだ。自分の子どもをよく教育してやるということは、どんな人でも、もし心からその気になりさえすれば、たやすくできることだ。そればかりか、それは、気持のいい、たのしい、仕合わせなことだ。

ところが再教育となるとまったくべつである。もし諸君の子どもがまちがって教育されたりすると、またもし諸君がなにかをうっかりみすごしたり、その子のことをさっぱり考えなかったり、でなければ、往々あることだが、無精をして、その子をほったらかしたりするとこんどはやりなおしたり、あらためたりすることをどっさり背負いこむはめになるだろう。ほかでもないこの矯正の仕事、再教育の仕事となると、そうそうたやすいことではない。

──略──

──もしその人がはじめから正しく教育されていたならば、彼は生活からもっとたくさんとるべきものをとり、もっとたくましい、もっとそつのない、つまり、もっと仕合せな人間として世の中に巣立ったであろう。それからまた、再教育、やりなおしという仕事は、いっそうむずかしい仕事であるばかりか、悲しい仕事である。そういう仕事は、よしんば申し分なくうまく行ったにしても、しょっちゅう両親に悲しいおもいをさせ、その神経をかきむしり、ときには両親の性格をきずつけることすらちょいちょいあるものだ。

 人の子の親は、このことをかたときも忘れないで、あとからやりなおしなどをぜんぜんしなくてもすむように、はじめから万事正しくやってしまうように、常日頃から教育に努力してほしいと忠告しておく。
(マカレンコ著「愛と規律の家庭教育」三一書房 p5-7)

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◎「世の大人たちが、わが子はもちろんのこと、子どもたちのいまとこれからを国の未来にかかわって真剣に問いはじめたのが近代なるものの夜明けであった」と。