学習通信070824
◎女なんか大したことないんです……

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女の力と社会と

 昨年(一九八三年)公けにされたNHKの日米意識調査というものを見せてもらっていろいろのことを考えさせられた。多くの調査項目にそれぞれ意味があって、どれもおもしろかったが、中でもおもしろいどころか深刻でさえあるものには大そう心ひかれた。

 「女は男にくらべて考えたりまとめたりする力が劣るといわれますがあなたはどう思いますか」がそれである。その股間に対して、日本では男も女も含めて多くの人がそう思うと答え、思わぬ人は少数。アメリカではそれがまるで逆転。「女はアカン」「人まねをしたり、言われたことを忠実にするのが女、創造力を発揮するのが男」。こんなことを思っている人が日本にはたくさんいて、アメリカでは少ない。

 あっちこっちへ話しに出かけた時、私はたびたびこのアンケートを持ちだして、「ちがう、なるほど人によってその能力の差があることもあろうが、それは男と女にわけられるものでない、それは男にも女にもそれぞれ言えること」と、くどいほど強調してまわっている。

 女は考えるな、黙って男に、あるいは権力についてこいという社会の要請の裏がえしがこのまちがった思いこみである。ほんとうは女もしょっちゅう考えたりまとめたりしている。お正月の迎えようからはじまって、家事のとりしきり、さまざまの社会的活動。すべてすべて考えないで何もできはしない。どうしようかな、なぜかな、じゃこうしよう。こんな思考から実践へのプロセスは、女の暮らしの中にもいっぱいある。そしてその中には、とてもすぐれたおもしろい着想や結果がいっぱい生まれてきている。

 女なんか大したことないんです。こんな風に自分で自分をしばったら、それは何者かの思う壺である。平和運動も、反核運動も、公害防止運動もみんな空気の抜けた風船のようになってしまう。そうなったらいったい誰が喜ぶだろうか。

 女が考え、行動するとき、光がある。だいたい、女の力なしに世の中がよくなるだろうか。女が変わらねば社会は変わらないのだという実感を持っている人は、現在の日本にずいぶん多くいるであろう。

 幸い、私もその確信を持つ一人である。おのずとそう信じることができる日本の女の歴史をいとしく思う。今年もまた女たちの可能性は花開くにちがいない。
(寿岳章子著「はんなり、ほっこり」新日本出版社 p12-13)

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 どうせこんなものといってしまえば、その人がこの人生に存在する意味さえも失われる。どうせこんなもの、という投げかたは、人生に対する一番傲慢な卑屈さであると思う。

 人は一人一人に複雑な性格や肉体の条件をもっているのだから、どのひとの一生も、不屈であるというわけにゆかず、あらゆる青春が歴史の推進の中軸に立つことはできない。あるとき、心ならずものわかりよさに敗けたとして、私たちはやはり明瞭に自分をごまかさずにその敗北を認め、その中での努力をおしまず、善戦をつづけている人々への喝采と励ましとその功績を評価するにやぶさかでない精神をもたなければならない。

 今日、ものわかりよさは、そこまでの歴史性に歩み出しているべきではないだろうか。

 女の一応のものわかりよさは、時に醜いことがある。近頃は、情勢の変化につれて、女のひとのなかにもいろいろ役所関係との接触を多くもつひとが出てきている。そういう役人の一人が、ある一タ何人かの指導的な婦人たちを招待して、意見交換ということをした。

そのとき一人のひとが、割合ふだんのままの気持で日頃から思っているままの意見を、女の生活の改善という立場から話した。そしたら、その婦人たちのなかでも主だった人と目されている一人が傍の友達に次のようにいったそうだ。あの人は、こんなにして御馳走になっているのに、それに対してああいうことをしゃべるのは失礼だ、気をつけるようにいっておあげなさい、と。

わずか一円か二円の食事を御馳走といい、そういう御馳走にあずかった以上、相手のお気にかなうように振舞わなければならないというそのひとのものわかりよさは何と清潔でないだろう。

餌をまかれてそれに支配されてきた男たちの遊泳術を、それなりに追随したものわかりよさを、女も社会に出るにつけて身につけてゆくというばかりでは、あまり悲しくはないだろうか。

男の世界では同じ餌にしろ大きく、遊泳のゴールも華々しいということがあるが、女の場合、御馳走の程度も男仲間のいわゆる供応とは桁がちがい、そのようにしてゆきつくゴールははたしてどこにあるのだろう。

あとには、よごれたものわかりよさだけがそのひとの身と女の歴史に重ねられてゆくばかりとしたら。

 今日では、個人を超脱した何かより高いもののように仮装されがちな皮相なものわかりよさが、女の実質をたかめるものでないことを理解するところまで、ものわかりよくならねばなるまい。

外からこうしろといわれ、そうしていれば無事だからというものわかりよさから、そうしながらも、なぜそのような要求がされるのか、それを知ろうとする心をすてないものわかりよさ、そういうものわかりよさを女の成長のモメントとしてつかまなければならないと思う。

 世界で一番きたない本はバイブルである、という意味のニーチエの言葉が警句というより深い意味をもっているとすれば、それは、ガリレオ・ガリレイの生涯やホーソンの「緋文字」を見てもわかるとおり、どっさりの人類の英知や生命や愛が、その一冊の分厚い本の頁のあけたてによって殺戮(さつりく)されてきたからである。常識の中に、浄きいかりを腐らしたからであると思う。

 女のいつわりない女心は、ものわかりよさが腐臭を放っていることをよろこばないのである。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 p29-31)

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◎「外からこうしろといわれ、そうしていれば無事だからというものわかりよさから、そうしながらも、なぜそのような要求がされるのか、それを知ろうとする心をすてないものわかりよさ、そういうものわかりよさを女の成長のモメントとしてつかまなければならない」と。