学習通信070828
◎民同幹部の協力によって遂行……

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 病院当局の、弾圧のための手立てと対応は、すばやかった。

 免職辞令を発表したその日の夜に、一人ひとりの組合員に、脅迫や、懐柔の手を伸ばしていたのである。
 タケ子たちは、このことにまったく気づかなかった。

 病院当局のやり方は、まず、何よりも先に「民同系」の労働組合員と結託してこの工作を進めたのだが、タケ子たちには、間違っても組合活動家を名乗る者が当局と結託するということを、想定できなかったのである。

 この、「民同系」と称する人たちは、「二・一ゼネスト」以後、占領軍アメリカなどの差し金によって、産業別に組織されていた労働組合内部に「民主化同盟(民同)」という分裂組織を根付かせ、組合活動の中心部をになう共産党員やそのシンパに対して攻撃の矢を向け、組合員に「反共」をあおりたてるという活動が日常的であった。

 千石荘病院でも前年の暮れあたりからこの動きが胎動し始めていた。
 タケ子たちの活動にことごとく難癖をつけ、「共産党の言いなりになると、いずれ怖い目を見るぞ」と噂を振りまいていた。
 日頃の組合活動は、一人ひとりの組合員の要求を取り上げ、ねばり強くたたかう夕ケ子たちがりードしていた。
 だが、彼らはそうしたタケ子たちの活動のあれこれを取り出しては、興味本位の噂で事実をねじ曲げたり、根拠のないデマを付け加えて「情報」を流した。そのうえに「反共」をあおることで、組合員を不安に陥れ、付和雷同させては「共産党が怖いと、普通の人間なら思うよ」と言った。
 卑劣な行為を追及されると「執行部は都合の悪いことを隠すために、意見の違う組合員を排除しようとたくらんでいる」と居直った。

 タケ子は、組合活動の中で、仲間としての会話を交わさざるを得ず、一握りの「民同系」の動きには戸惑い、少なからず、手を焼いていた。

 世間でも、共産党が仕組んだとデマ宣伝が流された「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」など謀略事件が頻発する、騒然とした世情が作られるさなかのことである。

 当局は、病院中に「被馘首者に協力すれば、第二次パージに加えられる」という噂を、その日のうちにまことしやかに流した。

 労働運動の中心的役割をになっていた十八人の首を切り、宣告で勢い込んだ「民同系」が、「それ見たことか、共産党に同調すれば怖いことになる、身を守るために、共産党から手を切ろう」と噂に追い討ちをかけた。

 そして、一人ひとりの組合員を物陰に呼び込んだり、影響力のある人間と見るや個別訪問などの約束を取り付け、近くおこなわれる組合大会のための「作戦」を、開始した。飛ぶ鳥を落とす勢いで、勤務時間中にも、時間外であろうとその動きはタケ子たちの目に触れぬように、当局の擁護を受けながらすすめられた。

 タケ子たち十八人は残念ながら、そうした姑息な動きを見抜く人生経験も、組織者としての力量もなかった。

 ただひたすら、正義感に燃え、不当な弾圧に怒りを燃やし、「首切りを認めず、職場を離れない」という方針で一致団結していた。方針を職場に徹底し、職場の仲間とともに雄雄しくたたかうことしか考えていなかった。

 あの嵐のような一日、首切り宣告を受けた日は、上部団体との連絡や会議のあともビラの用意などの作業に終われ、誰もが二、三時間しか眠れなかった。

 だが、翌日から、「首切りを認めない」ということを身をもって示すために、全員が出勤して、まったく変わらず仕事についた。

 いや、普段よりいっそう心を配って配置につき、仕事に当たったのである。

 当局は首切り宣告後、なにをさて置いても「民同系」と連絡を取り、裏でひそかに懐柔工作などを強めていたのに、表では、首を切った後の人員配置など仕事上の手配は、何も着手していなかった。
 タケ子は言うに及ばず、先頭を切って診療活動を続けた。
 当局による妨害は、何もなかった。
 現場では、何も手を打たない管理職の態度に疑問がないわけではなかったが、仕事は容赦なく押し寄せる。必要な人材が必要な形で動くわけで、表面上は、何事も起きなかったように業務は進んだ。
 仕事をする「十八人」に、よそよそしい態度を取る同僚もいたが、目立ったつまはじきはしなかった。

 早々と「民同系」から「工作」を受けた多くの組合員は、大きな精神的な葛藤はあったものの口には出さず、また話題にもできず心をかくしたまま、以前と同じように仕事を続けた。

 ところが、年の若い人生経験が豊富でない看護婦は、そうはいかない。
 親元を離れて、寮生活を送る少女たちのおののきと心労は、幼いうちから生活苦を背負っているだけに独特の切なさを伴っていた。
 信頼を寄せ、尊敬していた人がこともあろうに、「首切り宣告」を受けたという事態がどうしても飲み込めない。
 仕事を終えて寮に帰った後もどうしていいかわからず、おろおろした。
 そして、親しいものが集まっては、不安を語り合った。
 「話しあるねんて近寄ってくる民同のおっちやんきらいやわ。そうやけど、怖いし、裏の山の中に、しばらくみんなで隠れていようか」
 「隠れてもいいけど、ご飯どうするの」
などと、まともに考えている子も珍しくなかった。

 この首切り宣告の前に、看護婦の中では、労働運動の高揚と「共産党がはびこることを恐れる」総婦長の個人工作によるレッドパージは、ひそかに続けられていた。
 「アカの手先になった子は、親を呼びつけて帰らせます」という手口で、それは一年あまりの間に十五、六人にも及んだという。
 「赤狩り」は基本的に密告や噂を元に実行されたため、狙いが外れて中には共青の集まりに誘われて一、二度のぞいただけ、といった子までが網にかけられてしまうこともあったようだ。あるいは、総婦長派に与(くみ)したものの、なかには個人的怨念が、この際に乗じて相手を「アカ」に仕立て上げるということもあったという。
 そのことが、少女たちの心にじわじわと言い知れない「赤狩り」への恐怖と、密告を恐れる仲間への猜疑心を植えつけてもいた。

 総婦長を中心にしくまれた、若い看護婦に対するレッドパージは巧妙に、密かにおこなわれたとはいえ、同僚がそういう目にあっているのに、寮内で噂にならないということはありえない。総婦長らに病院を追われて去る母親も娘も、みんな泣いていたのを垣間見ている。
 こうして、無理やりつれて帰れといわれても、親はつれて帰りたいわけではない。娘の収入がなくなった後の事態を考え暗澹(あんたん)とする中で、貧しい家にはもう失業者の娘の居場所などあるわけもなかった。
 引き戻された娘はおおむね、一週間くらいで家を出て、看護婦の口はなくても女工など新しい働き口を探すのだということを、みんなそれは決して人ごとではないということで理解していた。恐ろしくてたまらない、人には言えない出来事として、少女たちの胸に刻まれていた。
 総婦長采配の首切りで、去って行った若い看護婦の姿は、自分の身の上に近い出来事だった。

 しかし、今回の「首切り」に遭った看護婦たちはみんな先輩で、立派というか素敵な人ばかりなのだ。それでも、
 「あのお姉さんたちに同調すれば首を切られるらしい、それはなんとしても避けたい」
というのが正直なところであった。

 悩んだ末に、「『民同系』のおっちやんの言うとおりにしたら、首を切られないで済む」という道を選んだのだ。

 「同調すればクビを切られるなんて、今から考えたら、そういうデマを流す人のさもしさに身震いする思いです。でも、生きるために、私の小さな頭で考えて、そういう選択をしたんですね。
 当時、私も総婦長がしていることは、おぼろげながらよいことではないとは思いましたよ。それでも、職場の偉い人の言うことを一生懸命聞いていれば、やがて、自分もえらくなれるんだと思っていましたから。
 みんなで一緒に幸せになるというような、そんな価値観を誰からも教えられなかった。勉強が人よりできればいいという、それだけでしたね。まったく孤独な、貧しい青春です」

 「うんとあとで、結婚し、夫に先立たれ、残された子どもを育てるために、看護婦として頑張る中で、人間として、まともに生きるということとはどういうことかを知りました。看護とは何か、医療とは何かをきちんと考えられる婦長という立場になって、わたしは自分の幼い頃の、上昇志向だけで精一杯だった自分の受けた教育の貧しさ、そのことが、どれだけ恥ずかしいものであるか思い知りましたよ。それから何十年も、やはり申し訳なくて、自分が恥ずかしくて、沓脱先生の顔を面と向かって見ることができませんでした」

 六十年後の今日、当時総婦長の側に立っていた看護婦に、当時を振り返る苦渋の選択の証言を得た。その人は田中米子。千石荘病院看護学校五期生。看護婦を六十歳で定年退職後一念発起し、大学進学をはたす。八年かかって卒業後、専門学校の非常勤講師となり、現在も、若い人たちの指導にあたっている。

 九月十三日、病院の状況は急変した。
 この日は、「十八人の首切り宣告」という大事件を受けて、これとたたかうための全医労千石荘支部の臨時組合大会が開かれることになっていた。

 深刻な状況を反映して、三百人あまりいる組合員のうち、仕事についているもの以外百数十人ほとんどが出席していた。


 ここで、タケ子たちは、初めて、考え及ばなかった事態に遭遇する。
 「大会」会場にしつらえられた職員食堂では、どういうわけか、のっけから出席者どうしが挨拶一つ交わさず、異様にシーンと静まり返っていた。

 やがて定刻となって、議長が、
 「それでは、ただいまから臨時組合大会を開催します」
というや否や、突然立ち上がり、挙手するものがいる。
 「議長、議長、動議を申し立てる」
 大声で怒鳴ったその男は、議長の指名など待たず、執行部席に当てられた側面の「十八人」にむかって指差し、大声で叫んだ。
 「動議だ。あの者たち被通告者は、もはや職員ではなく、したがって組合員たる資格はない。被通告者の、組合よりの除名を動議する」
 男は、事務職の係長だった。「民同系」の旗頭を標榜する人物である。
 間髪をいれず、ボイラーの現業労働者がまた、立ち上がって叫んだ。
 「その動議、賛成。直ちに採決せよ」
 続いて、数人の男たちが叫んだ。
 「そうだ、そうだ、組合除名だ」
 「ヤレ、ヤレ、除名、さっさとやってしまえ」
 公然と「十八人」のたたかいに、まっこうから、挑戦である。
 ここに及んで、「十八人」は信じがたいことではあったが、やっと病院で何が起きているかを理解した。

 十八人は、議長に発言を要求した。
 それぞれの職域を通じて、この首切りが「十八人」だけへの攻撃ではなく全組合員、医療に従事するもの、ひいては日本の労働者階級にかけられた攻撃であること、一致団結してこれとたたかい、はねかえそうと、諒々と述べた。
 タケ子は最後に立って、発言した。
 出席者からタケ子に、何らかの賛意の合図をあらわすものは、見渡して一人もなかった。
 視線をそらし、みんなうつむいて、顔さえあげようとしない。
 物音一つ立てず静まり返る会場に、タケ子の声が沈んで行く。

 「謂れもなく、私たちは不適格者だという理由で首を切られました。こんな理不尽なことが許されるわけがありません。働くものをこんな形で首を切って、一体誰が得をするのですか? 職場がよくなるのでしょうか、よい医療が目指せるのでしょうか」

 「私たちは皆さんと一緒に戦争が終わるやいなや、どん底から這い上がり、自らの手で命と暮らしを守り、本当によい医療を実現するために労働組合を作りました。……」

 あの看護婦は、勉強熱心な人だ。あ、あそこに給食のおじさんがいる。電気室のおじさんは?あ、あそこにいるではないか。
 みんなじっとうなだれていた。
 事務職のあの女性は、夫を戦争で亡くして頑張って子どもを育てるのだといって、つい先日「アカハタ」の読者になってくれた人だ。視線が合った、その瞬間、前のいすの背に顔をかぶせるように隠
れて動かなくなった。

 ああ、これは一体どういうことなのだ。
 会場の人々は石のように動かない。
 タケ子の発言に、いつもの万雷の拍手はなかった。
 執行部席にいた「十八人」は、ただならぬ気配を思い知るものの、もはや打つ手はなかった。
 やがて、静まりかえる会場に、議長の声が響いた。
 「ただいまの動議に、反対の挙手を求めます」
 手を上げたのは「十八人」だけだった。

 参加者は沈黙に終始し、その沈黙に気おされたように当初、動議を叫んでいきり立ったものの声もなく、首を切られた十八人を組合から除名する動議は、可決された。

 役員交代が発議され、「新役員」と称する男たちが壇上に並んだ。
 最初に声を上げていた数人の男たちは、そこにいた。
 各職場の代表というにはいかにもお粗末で、事務職の一部と、現業とはいえやくざまがいの風体が居並び、女性の姿もない。そのことについて、

 「なにぶん今次は火急であり、必要にかんがみ、順次指名し充足いたす所存である」
と、まるで、戦争中の大政翼賛会(一九四〇年に設置された、侵略戦争と天皇制を賛美するための国民統制と動員をする機関。非合法とされた共産党を除くすべての党がこれに合流した)を思わせる口ぶりである。

 たたかいの組織から、当局と結託した組織に再編して、拍手もなく大会は終わった。


 こうして「十八人」は当局から首を切られた上に、たたかいの方針を決め、激励の場であるはずの労働組合臨時大会で、除名された。
 「十八人」は呆然として、立ち尽くしていた。

 しかし、その事態がどうしても納得できず、さりとて、労働組合事務所に戻ることもできずに、すごすごと会場を引き上げざるを得なかった。
 組合結成当時の林医局長や、西村医師との語らい、楽しそうな笑顔や、活動が浮かんでは消えた。
 あふれる涙をぬぐいもせず、声を上げてしやくりあげる看護婦もいた。
(稲光宏子「タケ子」新日本出版社 p15-168)

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反動攻勢の激化

共産党の弾圧と全労連の解散

 一九五〇年五月三日の憲法記念日に、マッカーサーは「共産党を法の保護の外に置くことが考慮される」と重大な声明を行ないました。

五月三〇日、一年前の公安条例反対デモで殺された労働者、橋本金二の死を記念して、「共産党防衛、平和擁護、祖国統一戦線人民決起大会」が、皇居前の人民広場で、五万人の労働者を結集してひらかれました。

この集会におくりこまれていた警察のスパイが発見され、これをかばおうとした警察官や、占領軍下士官と労働者とのあいだにあらそいがおこり、八名の労働者、学生が逮捕され、軍事裁判で重労働一〇年の刑がいいわたされたのです。

六月四日の参議院選挙を前に、一切の集会とデモが禁止され、六月六日、ついに共産党中央委員会の解散と、中央委員二四名全員の公職追放が指令されたのです。

さらに翌日、共産党の機関紙「アカハタ」編集幹部一七名もまた追放されました。

ほんらいは、軍国主義者やファシストを追放するための公職追放令は、いまや労働者階級にたいするフッショ的弾圧の武器とされたのです。

一六日からは、いっさいの集会デモが、全国的に無期限に禁止され、朝鮮戦争がはじまった二六日には「アカハタ」が発行停止に、形をかえて発行された後継紙も、つぎつぎと発行を禁止され、共産党の活動は事実上の非合法状態においこまれてしまいました。

八月三〇日になると、全労連が、朝鮮人連盟にひきつづき団体等規正令によって解散を命じられ、幹部一二名が公職を追放されました。

それは、二・一ストの大統一行動の成果としてうまれた全労連が、その後の反共分裂攻撃のなかで、右翼幹部に指導される組合の脱退があいつぎ、苦境にたたされているなかでも戦闘的な労働組合の中央指導部としての力を、当時、なおもっていたからです。

「産別民主化」運動とレッドパージ

 七月になると占領軍は、共産党弾圧をさらにひろげ、ついに全産業にわたるレッドパージ(「赤追放」)にのりだしました。

かれらが戦争をひきおこすのにみあった国内体制を一挙につくりあげるためには、戦闘的な労働者を首切り、大衆からきりはなす必要があったからです。

パージはまず新聞・放送部門からはじめられ、電産・日通・映画と全産業にわたっておこなわれ、一万二〇〇〇名にものぼる共産党員と活動家が職場を追われました。その犠牲者は、民間産業では二四の産業部門、五三七社の一万九七二名、政府機関の一一九六名といわれています。

 このレッドパージといい、さきに行なわれた共産党幹部の追放といい、それは、まったく、何の法的根拠もなく、思想上の理由だけで労働者を差別し、その生活権をうばうという、まったくファッショ的な弾圧でした。しかもパージは、あらゆるファッショ的勢力を総動員して、暴力的に行なわれ、法律をまったく無視して、民同幹部の協力によって遂行されたのです。

 さきにもふれましたが、民同というのは「民主化同盟」の略称で、二・一ストのたたかいのあと、占領軍の対日政策の「転換」とともに、組合内部にうまれた反共を目的とした派閥のことで、四七年一一月にまず国鉄にうまれ、芦田内閣の加藤勘十労働大臣の労働行政と気脈をあわせて産別会議の内部に結成され、その後、重要な全国の労働組合のなかにひろがっていったものです。

その思想的中心は反共主義であり、日和見主義、改良主義、経済主義であります。かれらは「政党の組合支配を排する」と看板をかけていながら、社会党と強くむすびつきました。民同は、のちに左右二つの派にわかれ、一方は社会党右派(現在の民社党)とむすびついて、全労会議をつくることになります。

 いずれにしても、産別会議のなかにうまれた産別民同は占領軍と連絡をとりながら、産別会議の方針をたえずよわめ、これを分裂させるという反階級的役割をはたしました。かれらは、各単産のなかにできていた民間派や総同盟の幹部と手をつなぎ、GHQの援助をうけて、新しい全国組織をつくることに奔走し、その勢力を組合内で確立していきましたが、同時に、組合の指導権をにぎり、全労連と産別会議からつぎつぎに脱退しました。

 さらに、民同派は、レッドパージにあたって、組合員が不当な攻撃にさらされている時にも、これを守ろうとしないで、見殺しにしました。電産で指導権をにぎった電産民間は、組合員に「極左勢力に属していない」という確認書を提出させ、指令拒否者を除名し、二〇〇〇名をこえる戦闘的な仲間を排除するというように、組合の手で組合員をくびにする「組合クーデター」を実行したのでした。

 こうしたなかで、レッドパージ反対闘争はきわめて困難でした。成功した例もまったくないことはありませんが、広範な大衆の権利擁護闘争として組織することができず、孤立したたたかいに終わってしまいました。しかし、レッドパージによって職場を追われ、損害をこうむったのは共産党と共産党員だけだったでしょうか。

レッドパージのねらいが、平和と民主主義の勢力を労働組合運動から一掃し、孤立させることによって、労働者全部を骨抜きにし、労働組合を右翼社会民主主義者に売り渡し、朝鮮戦争遂行のための収奪と抑圧の体制をつくりだし、「国連協力」という名でアメリカ帝国主義の朝鮮侵略戦争に協力することを強制しようとするものであったことは、時間がたつにつれてあきらかになりました。

 こうして、大部分の労働組合が、労働者の生活と権利を守る組織としての戦闘性を失い、多くの労働者は組合や幹部に不信感をもつようになり、職場は暗くなってしまいました。パージされた労働者の多くは、きびしい困難にたえながら、あるいは政治運動で、あるいは労働組合や民主商工会その他さまざまな分野で活動をつづけ、いまなお日本の民主勢力の一翼として貢献しています。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p137-140)

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◎レッドパージのねらい……「かれらが戦争をひきおこすのにみあった国内体制を一挙につくりあげるためには、戦闘的な労働者を首切り、大衆からきりはなす必要があった」と。