学習通信070831
◎女子供をだますことはいとたやすい……

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自由民権の花 岸田俊子

女たちの自由民権運動

 自由民権運動が高揚した時期、全国各地でさかんに演説会が開かれた。その演説会に、男達の間にまじって、男女同権と女子教育の必要性を訴えたのが岸田俊子であった。彼女の演説は、遊説の行く先々で聴衆を魅了し、多くの女性にも影響を与えた。

 自由民権運動は、男達の運動ではあったが、その中でも、岡山女子懇親会、鹿児島婦女同盟党、豊橋婦女協会、仙台女子自由党などの女性民権結社も結成されていた。少ない例ではあるが、女性もまた、自由民権運動に参加し、あるいは、陰で支えていたのである。

 俊秀の子

 俊子は、呉服商小松屋茂兵衛と妻タカとの長女として、京都市下京区松原通東洞院下ル東大ル大江町で生まれた。下京第十五番組小学校(後の有隣校)に人学し、一八七一年には俊秀生(成績優秀)として表彰され、官費で中学へ人学したと伝えられている。第十四番組小学校(後の修徳小)には、「当校卒業生 中島潮煙女史」と書き添えた軸(陶潜=陶淵明の「帰去来辞」の全文)が残っている。どちらに在校していたのかは、不明である。名前も、もとの名は不明で、俊秀生の「俊」をとって、俊、俊女、俊子、などと名乗り、雅号は湘煙女史と名乗った。他に、筆名として、月州、千松閣女史、花の妹などがある。

 一八歳のとき宮中女官(文事御用掛)となったが、二年後に職を辞している。当時、女官はほとんどが華族出身で、士族出身が小数、平民出身は例外中の例外であった。京都府知事槙村正直と山国鉄舟が、京都の新教育が生んだ俊秀として、推薦したのであった。

自由民権運動との出会いと活動

 一八八一年、京に帰るとすぐに、丹後へ嫁いだが、ひと夏で七つの理由をつけて離縁された。俊子は、そのまま母トシと旅に出、西日本を廻って土佐の高知に至っている。ここで、書家として活動し、立志社の人たちと出会うことになった。

 一八八二年一月に高知を発ち、四月一日には、大阪道頓堀の朝日座で「婦女の道」の演題で初めての演説を行った。中島信行、小室信介などの立憲政党役員に続いての演説である。その後、徳島、長崎、和歌山、津山、熊本、と遊説の旅に出ている。俊子の演説は、緋ちりめんに黒帯、文金高島田、黄ハ丈など衣装をとりかえ、その容姿と流暢な弁舌で多くの人をひきつけていった。弟子もでき、女ばかりの演説「岸田社中」をつくっている。

 大阪を拠点にして、遊説をしていた俊子だが、一八八三年一〇月二日、北の芝居(北座)で、京都で初めての演説会を行うことになった。演題は「函入り娘」であったが、野次で騒然となり、演説を中断して演壇を降りなければならなかった。その一〇日後、大津四の宮町演劇場での演説で逮捕され、集会条例違反で罰金五円の判決を受けることになった。

 翌年、関西を引き払って、東京へ移った。この年の五月から新聞「自由の燈」に連載した「同朋姉妹に告ぐ」は、日本の女性自身が男女同権を主張した最初の論文であると言われている。「吾が親しき愛(うつく)しき姉妹よ、何とて斯くは心なきぞ。など斯く精神の麻輝(しびれ)たるぞ。」という呼びかけで始まる文は、「悪しき風俗の最も大なるものは男を尊び、女を賤しむる風俗」であり、男女の不平等が「人間第一の幸福たる男女愛燐の楽しみを撲滅して、ともに面白からぬ境界におちいっている」と説いている。また、「民権を重んずるの諸君に問わん。君等は社会の改良を欲し玉へり。人間の進歩を欲し玉へり。……而して何とてこの男女同権の説のみに至りては守旧頑固の党に結合なし玉ふぞ」と、女性に対しては、旧態依然たる民権家をも批判している。

結婚そして男爵夫人

 女性民権家として、華々しく活躍していた俊子であったが、元自由党副総裁の中島信行と熱海で遊んで結ばれ、後に人籍し中島俊子となった。このことは、ゴシップとして報道され、俊子の活動を支持していた人たちからは批判を受けることとなった。

 結婚後は、演壇に立つ俊子の姿をみることはなかった。彼女が、演説をしてまわったのは、わずか三年ほどの間であった。自由民権運動の高揚期を華々しく駆け抜けていったのである。

 一八九〇年、夫中島信行が、第一回総選挙で当選し、衆議院議長にも選ばれた。その後、イタリア公使や男爵にもなったので、俊子も、衆議院議長夫人、公使夫人、男爵夫人としての人生を歩むことになった。晩年は、結核で病床に臥し、四〇を迎えずに早逝した。

文筆家、教育者として

 結婚後、演説をやめ、民権運動の表舞台から離れた俊子ではあったが、築地の新栄女学校や横浜のフェリス女学校で漢文などを教え、自らの主張であった女子教育を実践している。また、一八八六年、「女学雑誌」に「女子教育策の一端」という論説を発表し、その後も、女権論を発表していった。彼女の文筆活動は、小説、漢詩、随筆、日記など多岐にわたり、その豊かな才能がうかがえる。作品には、「善悪の岐」「山間の名花」「潮煙日記」などがある。

俊子の史跡はいま

 小松屋のあった大江町は、五条通から少し北へ東洞院通をはさんだところにあり、俊子が逮捕された時の住所である北政所町は、四条通から南へ鳥丸通をはさんだところにある。どちらも、阪急電鉄鳥丸線・地下鉄四条駅から、歩いて五〜一〇分ほどのところである。北政所町は、ビルが建ち昔の面影はないが、大江町は、今も問屋街である。しかし、そこに小松屋はもうない。北の芝居も一八九三年に焼失している。跡地は市営駐車場となり、近くの井筒ハツ橋本舗の看板に「北座」の文宇が見られる。今は向かいの南座だけが残っている。

 第十五番組小学校(有隣校)と第十四番組小学校(修徳校)は、どちらも統廃合されてなくなっているが跡地は、デイサービスセンターや京都市教委の管理となっている。修徳校跡地には修徳校の歴史を記した石碑が建てられている。(羽田 純一)
(「女たちの京都」かもがわ出版社 p108-111

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あれこれ京女お忙し

 師走から正月へ。女月(オンナヅキ)と言ってよいほど、昔から女たちは忙しい。とりわけ京の女人はしきたりを大切にするから、きまりきったおせちも、心をこめて作る。

 あまりしきたりにとらわれない方の私も、いやしんぼうが手伝って、わりにていねいに何やかやをこしらえる。秘密法反対や何やら忙しかったなあと思いつつさまざまの品をお正月だけに使う重箱につめた。中でも黒豆はすばらしい出来だった。それは豆そのものがよいからだ。ふっくらとして大ぶり、歯の悪い父も抵抗なく口にすることが出来る。

 「この豆、M子さんが作ってくれはったんよ、父さん。戦争反対婦人集会の時のバザーの出品。なあ、豆も作らんならん、秘密法反対もやらんならん、戦争反対も言わんならん、京女大忙しやなあ」

 私はしみじみとした思いで父と語りあった。お雑煮の中のしいたけは、これまた丹波でがんばってやっぱり12・8の戦争反対婦人集会にかけつけてくれたS子さんのしいたけ。

 一九八六年はほんとうに女たちは忙しかった。どうかするとさまざまの法律面でのたたかいや憲法闘争は、「えらい人」からタイヘンダ、アブナイと声をかけられて、そんなら学習しましょうということになり、勉強の結果、これはいけませんと反対運動にキビに付すという形での参加になるものだ。

 しかし去年は、受け身の行動ではなかった。女たちがとらえた切り口というものがあって、そこを手がかりとしていろいろ考え話しあった。女の暮らしと国家秘密法がどうかかわるのか、それを男の発想の下請けとしてでなく、女の体験、女の暮らしと構造と秘密法とのかかわりを私たち自身でたしかめたのであった。語り口はたどたどしいかもしれないが、話はきわめて具体的現実的で、その集会はまことに生気に溢れていた。おのずと運動のあり方の本質のようなものについて考えることも出来た。

 十二月八日は、ヒットラーのやったことが、なぜドイツの女性に受け入れられるに至ったかについて勉強した。これはすでに「婦人通信」にそれについての好論文をのせておいでの望田教授に問題提起をして頂き、あと参会者でとっくり当時のドイツの情勢、女性史的状況、日本のただ今との比較などについて勉強した。

 ヒットラーは、女子供をだますことはいとたやすいことと、「我が闘争」において豪語している。私は以前からそこが大そう気になっていた。女は男より知能が劣っているのではないのに、なぜだまされやすいのか、だまされるということは、しばしば被害者的レベルで論じられるが、私はやはりだまされるということもよくないことと考える。とりわけ、もはや私たちはだまされてはいけない、テキの謀略を見抜くのだと決意するとき、だまされるのは既に罪の一種ではないか。

 もうだまされしまへんえ、と京女たちはこもごも話しあったのだった。反戦を語るとき、おのずと国家秘密法に話は及んだ。また非核運動にも言及する人があった。どちらかというと書いたものにはなじみがなく、耳からの情報を生々しく論ずるとき、「ヒカクの政府」というのはわかりにくいことばだ、比較≠ネんかとごっちゃになる、田ァで働らいているもんにはもっと聞いてわかることばにしてもらいたい、などという発言もやはり農村の人から出た。

 さまざまの運動やたたかいがこれはこれ、あれはあれというようにばらばらにともすればなりがちなのが日本の抵抗運動の特色のように思う。それらの「根」の把握をしてゆかねばならぬとしみじみ私は思う。

 おそらく女たちがいろいろの抵抗運動にかかずらってゆくとき、従来の男中心の運動のあり方はかなり訂正を必要とするのではないかと思われる。具体的に、根元にかかわって、シンプルにものを見てゆくということ。忙しさの中で、くっきりと私の考えたことであった。(「婦人通信」一九八七年二月)
(寿岳章子著「はんなり ほっこり」新日本出版社 p139-142)

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◎「女は男より知能が劣っているのではないのに、なぜだまされやすいのか、だまされるということは、しばしば被害者的レベルで論じられるが、私はやはりだまされるということもよくないこと……とりわけ、もはや私たちはだまされてはいけない、テキの謀略を見抜くのだと決意するとき、だまされるのは既に罪の一種」と。