学習通信070905
◎「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」のスローガン……
■━━━━━
《潮流》
「夜また……月見橋のほとりに至れば、東京の火災いよいよ猛に、一望大いなる溶鉱炉をみるがごとし」。ことし没後八十年の作家、芥川龍之介が記した一九二三年九月一日の「日録」です
▼彼は一日昼、東京・田端の家でお茶を飲もうとしていたとき、大地震に襲われました。大きな被害はまぬかれますが、姉や弟の家は全焼しました。翌日の日録に、「東京全滅の報あり」とあります
▼地震がおさまり、街に出ます。避難した人々は、向こう三軒両隣を問わず親しく交わり、たばこや果物をすすめ合ったり、互いに子守をしたり。彼は、その「美しい景色」の記憶を永久に「大事にして置きたい」と書きます
▼作家仲間、菊池寛との会話も興味深い。芥川が朝鮮人が放火した≠ニのうわさを口にすると、菊池は一喝します。「うそだよ、君」。しかし、うその情報にもとづき大勢の朝鮮人が虐殺されました
▼関東大震災から八十四年。日本列島は、地震の活動期に入っています。一ヵ月半前、新潟県中越沖地震が起こったばかり。日本共産党の相談センターによせられた、被災者の声は切ない。「地震の前日おじいちゃんが亡くなった。涙が乾く間もなく地震」と話す、一人暮らしのおばあちゃん。「『一部損壊』では支援制度がなく、『半壊』でも県から五十万円しか支援を受けられない。家を再建できない」という人
▼芥川は書きました。「自然は人間に冷淡なり」。実感がこもります。しかしだからこそ、政治が人間に冷淡であってはなりません。
(「赤旗」20070901)
■━━━━━
野 分
九月一日は「二百十日」で、立春の日から数えた日数である。野分(のわき)とは台風のことで、台風は野山の草木を吹き分ける。『源氏』の最初の「桐壹」の巻には、「野分たちて、にはかにはだ寒き夕暮のほど」とあり、「野分」の巻には、「野分、れいの年よりもおどろおどろしく、空の色かはりて、吹きいづ」に始まるくわしい野分の描写がある。芭蕉は、この古典的なイメージをふまえて、
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
深川の草庵で、芭蕉の大きな葉が野分にはためき、屋内では雨もりのしずくが盥にたえまなしに落ちてくる。上五の字あまりに、急迫した声調がある。
吹とばす石はあさまの野分哉
元禄元年の『更科(さらしな)紀行』の巻末の句で、「あさまの野分」と「吹とばす石」を倒置して、浅間山の野分のあらあらしさを、真にせまるようにあらわしている。元禄三年、近江の幻住庵で、
猪もともに吹るゝ野分かな
野山の草木がすべて吹きまくられるなかに、猪も「ともに吹るゝ」と、猪の姿をクローズアップして、野分のすさまじさをえがいている。
一九二三年の「二百十日」の日、九月一日、関東大震災がおこった。死者九万、行方不明は四万にたっした。二日、京浜地区に戒厳令がしかれ、「朝鮮人と社会主義者が暴動をおこす」との流言が意図的にながされ、朝鮮人の虐殺がはじまった。四日には、南葛労働会の川合義虎や、純労働者組合の平沢計七らが軍隊の手で殺害された(亀戸事件)。十六日には、無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝らが殺された。これは、朝鮮人と社会主義運動の上に吹きあれた「野分」であった。
十六年後の一九三九年九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵入し、第二次世界大戦がはじまった。それはファシズムによる残忍な「野分」であり、戦車は山野をふみにじった。国破れて、山河もその姿を変えたのである。
私は東京・江東区の中学校に勤めて二十五年になる。その二十五年の問、まとめなければならないといつも思いながらまだ果たしていないのが、亀戸事件の研究である。亀戸は江東区の北部にある。私が所属している歴教協(歴史教育者協議会)は、「地域の掘りおこし」を提唱している。亀戸事件こそ、地域の掘りおこしにふさわしいではないか。亀戸の浄心寺には「亀戸事件犠牲者之碑」がたっている。それには、「惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である」と書かれており、その碑文をみるたびに、今なお「不明」にのこしていることを、歴史研究者として恥じざるをえない。
一九二三年の関東大震災のさいに、朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、大杉事件など一連のテロがおこされた。もっとも有名で、よく調べられているのは、大杉事件である。朝鮮人虐殺事件も、とくに最近の在日朝鮮人の努力によって、かなりくわしくわかってきた。いぜんとして「不明」のまま残されているのが亀戸事件である。
この三つの事件、とくに朝鮮人虐殺事件と亀戸事件は、並列的にばらばらにおこされたのではない。日本が植民地にしていた朝鮮では、一九一九年に三・一独立運動がおこった。一九二二年には日本共産党が創立された。渡辺政之輔が東京・江東地区に、日本でもっとも革命的な労働組合である南葛労働会をつくったのが、一九二三年一月である。南葛労働会には日本人の労働者だけでなく、朝鮮人の労働者も参加していた。二三年五月のメーデーには、「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」のスローガンがかかげられた。天皇制権力は、日本の労働者階級が日本共産党の指導のもとに国際的に連帯し、なによりも朝鮮人民の民族解放闘争とむすびつくことをおそれたのである。
姜徳相(カントクサン)は、朝鮮人虐殺事件と亀戸事件とを、「本来異質の事件が重層化して登場しただけなのである」とする。そして「一〇人の社会主義者の生命(亀戸事件)と六千人以上の生命(朝鮮人事件)の量の差を均等視することはできない。量の問題は質の問題であり、事件はまったく異質のものである。異質のものを無理に同質化し、並列化することは官憲の隠蔽工作に加担したと同じである」という。しかし私は姜徳相と同じようには問題をとらえない。川合義虎ら南葛労働会の人びとがとらえられた亀戸警察署には、朝鮮人がいっしょに検挙されていた。そして川合らは朝鮮人とともに虐殺され、屍体もいっしょに捨てられたのである。東京で朝鮮人がもっとも多数虐殺されたのは、南葛労働会の人びとが活躍していた江東区の亀戸、大島の地であった。しかし、亀戸、大島の地に、朝鮮人がもっとも多数住んでいたのではない。日本帝国主義の軍隊、それも天皇の親衛隊である近衛師団(習志野騎兵十三連隊はその一部である)が、集中的に配置されたのは、亀戸であった。なぜ、亀戸に、ということが問われなければならない。
私の研究の中心は、天皇制権力の全構造からして、なぜ、朝鮮人の虐殺と社会主義者の虐殺とが、同時に、しかも亀戸を中心にしておこったのかという点にある。なお、中国人王希天も、亀戸署から習志野へ送られる途中で虐殺された。関東大震災のもとでの虐殺事件を統一して把える鍵は、亀戸事件にある。そのばあい、亀戸事件を、日本の十人の社会主義者にたいする虐殺事件だと狭く考えないで、亀戸署を中心とした朝鮮人、中国人をふくむ披抑圧民族と日本の労働者階級にたいする弾圧事件だと私は把える。
十人の社会主義者だけを追っても、南葛労働会の川合義虎は足尾で生まれて茨城の日立で育ち、北島吉蔵も秋田の小坂で生まれて日立で育った。鈴木直一は茨城、加藤高寿は栃木、近藤広蔵は群馬、山岸実司は長野、吉村光治は石川、佐藤欣治は岩手の出身である。純労働者組合の中筋宇八は不明だが、平沢計七は新潟の出身である。これだけでも、関東から北陸、東北の歴史にまたがっている。これら東日本全体の歴史を、江東区の亀戸という地域の中で描くこと、しかもそれを一九二三年九月という歴史的時点に凝集して叙述すること、それが私に課せられた宿題である。
この文章を書いているのは一九七七年九月一日であり、これが本となって出る七八年は亀戸事件の五十五周年にあたる。一年間でできなければ、私のライフ・ワークとしてやりたい。
(加藤文三著「昭和史歳時記」青木書店 p180-183)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「関東大震災のもとでの虐殺事件を統一して把える鍵は、亀戸事件にある」と。