学習通信070906
◎中心幹部たちのあいだに、脅えの気分が……

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《日本共産党 知りたい聞きたい Q&A》

関東大震災直後の亀戸事件とは?
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〈問い〉 関東大震災直後に起きた亀戸事件とは?(山梨・一読者)

〈答え〉 1923年9月1日午前11時58分、死者9万1千人をこえた関東大震災が起きました。2日成立したばかりの山本権兵衛内閣は翌3日、東京府と神奈川県に戒厳令をしき、軍隊を動員しました。混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ…」(内務省警保局長から各地方長官あての電報)としたことなどで、流言は広がり、多くの町内で在郷軍人や青年団が「自警団」を組織し、朝鮮人に襲いかかりました。軍隊も、とくに江東方面では朝鮮人を「敵」として追いたて殺害しました。虐殺された総数は正確にはわかっていませんが、6千人を超えるという調査もあります。

 前年創立の日本共産党にたいして、警察は、震災3カ月前の6月5日、いっせい弾圧を加え、30余人を検挙しました。しかし、南葛(現在の江東、墨田)を中心に労働運動はなお活発でした。このため、軍と警察は一体になって、震災の混乱に乗じて、社会主義者を一挙に根絶やしにしようとします。

 9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(21)=民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(20)、鈴木直一(23)、近藤広造(19)、加藤高寿(26)、北島吉蔵(19)、さらに同会の吉村光治(23)、佐藤欣治(21)、純労働組合の平沢計七(34)、中筋宇八(24)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。

 同署では、その夜から翌日にかけて、多数の朝鮮人が虐殺されました。川合ら10人は軍に引き渡され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺されました。これがいわゆる「亀戸事件」です。

 「社会主義者狩り」は、亀戸ばかりではありませんでした。9日ごろには、共産党の合法部隊だった農民運動社を近衛騎兵連隊の一隊が襲い、浅沼稲次郎夫妻ら8人をとらえ重営倉にいれ、後手にしばったまま梁(はり)につりさげました。堺利彦ら第1次共産党弾圧の被告が収容されていた市ケ谷刑務所にも軍隊がおしかけ、被告たちの引き渡しを迫りました(刑務所長が拒否したため、被告たちは命びろいした)。獄外にいた山川均も追われますが、友人宅を転々と逃げ、助かりました。

士官たちは、吉野作造や大山郁夫ら民本主義のリーダーもねらい、大山は拘引されましたが、新聞社が行方をさがしたので、釈放されたのでした。16日には、アナーキスト・大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きます。このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓です。(喜)
 〈参考〉『亀戸事件〜隠された権力犯罪』(加藤文三著、大月書店)、『物語・日本近代史3』(犬丸義一・中村新太郎著、新日本出版社)
(「赤旗」20070901)

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暴圧下の解党決議

 初期の日本共産党は、こういう形でいろいろな分野の運動に取り組みますが、この党の存在は、相手、つまり国家権力の側にはやがて分かってしまいます。そこには、例によって、スパイの暗躍があるのですが、一九二三年六月、日本共産党にたいする第一次の弾圧攻撃がくわえられ、多くの幹部が追捕されました。

 その三ヵ月後の九月一日、東京とその周辺を大地震が襲いました(関東大震災)。そしてこの大震災が、野蛮な弾圧と暴行の舞台となったのです。まず九月二日、震災で混乱した市民のあいだに、「朝鮮人が暴動を起こした」というデマが広く流され、地域々々の「自警団」や暴徒によって、多数の朝鮮人や中国人が殺されました。

続いて九月三日〜四日、これは警察と軍隊による意図的な弾圧ですが、東京の東部の南葛飾地域で活動していた共産党員を含む労働者や青年十人が亀戸警察署に連行され、そこで軍隊に虐殺されました(亀戸事件)。

南葛飾地域は、「南葛」の言葉で親しまれていた、東京における階級的労働運動の拠点とされた地域で、虐殺された十人のなかには、日本共産青年同盟の委員長川合義虎(二十一歳)も含まれていました。

さらに、九月一六日には、甘粕という憲兵大尉が、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻を震災の混乱に乗じて東京憲兵隊本部に連行し、甥の幼児もいっしょに隊内で虐殺するという事件が起こりました。

震災のなかで、専制国家の残虐さがむきだしにさらけだされ、テロ天下御免という状態がつくりだされたのです。

 第一次共産党事件の弾圧に続き、震災のなかでのテロに直面して、共産党の中心幹部たちのあいだに、脅えの気分が広がったのだと思います。「いまの日本の状態では、共産党をつくるのは早すぎた」とか「弾圧に耐えるためには、もっと選りすぐった人を集めて党をつくりなおすべきだ」とか、理屈はさまざまにつけられたようですが、一九二四年二月〜三月ごろ、会議が開かれて、そこで共産党の解党を決めてしまいました。

この会議は、大会でも中央委員会でもない、どういう基準でどういう資格の党員が集められたのかもわからない、どこかから委任を受けたわけでもない、という奇妙な会議でした。逮捕をまぬがれて獄外にいた人や、逮捕されたが一時的に釈放の状態にあった指導的な人たちが、東京の大森に集まって、解党決議を実に安易に決めてしまったのです。

 ただ、そこで救いになったのは、組織をゼロにしないで、一つの委員会を残したことでした。この委員会が、次の段階で、党の再建に向かう足がかりになります。

 また、この解党の決議を、全国の党員に知らせる仕事もあまり徹底したやり方ではやられなかったようで、中央がなくなったことなど何も知らずに、これまでどおり活動していた党員が、関西などにはずいぶんいたと聞きました。解党決議の執行そのものが、だらしのない方法でやられたようです。
(不破哲三著「日本共産党史を語る 上)新日本出版社 p38-40)

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◎「このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓」と。