学習通信070910
◎たたかいは一生かかってやるんだ……

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二・一スト弾圧と正体をあらわしたアメリカ帝国主義

二・一ゼネストと全労連の結成

官公労のたたかいとゼネスト情勢

 一〇月闘争によって、民間労働者の労働条件はかなり改善され、たたかいは大きく進みましたが、一方、官公庁労働者の賃金は、戦時中のままで民間に比較して四五パーセント前後にすぎず、しかも、戦前からの封建的な官僚機構が維持されていたのですから、そこには、はげしい不満と要求が満ちていました。産別の一〇月闘争が、日鉄、全逓、教員、公務員のたたかいへと発展していったのは当然なことでした。

 賃上げ、越年資金、最低賃金制の獲得をめざす官公庁労働者のたたかいは、それ自身、破滅寸前の生活を守るという必死の経済闘争ではありましたが、相手が政府であり、政府の経済政策とのたたかいであることから、たたかいは、おのずから政治的性格をおびざるをえませんでした。しかも、官公庁労働者の数は、当時の全労働者数の四割もあったのですから、その統一闘争の意義はきわめて大きいものがありました。

また、勤労所得税の撤廃、総合所得税の免税点の引き上げ、労働関係調整法の撤廃などの要求項目は、民間産業労働者にとっても共通した切実な要求であったので、産別会議をはじめ民間組合もこれに合流しました。しかし政府は、全官公庁労組共闘委員会の共同要求を全面的に拒否し、社会党右派をだきこみ、共闘態勢の切りくずしをはかりました。

 こうしたなかで、官公庁共闘はスト態勢を確立し、一二月一七日には、全国各地で吉田内閣打倒・生活権確保国民大会が、産別、総同盟、国労、都学連、社会党組合委員会、共産党の参加で開かれ、倒閣実行委員会が設置されました。

 一九四七年一月一日、産別会議は全労働者にむけて「用意はよいか前進だ。民主主義革命の年一九四七年!」とよびかけました。ところが、その同じ日、吉田首相がラジオをつうじて行なった年頭のあいさつのなかで、労働者をさして「不逞の輩」とののしったことから、労働者の怒りをいっそうおおきくしました。一月一五日には、全官公庁共闘、産別会議、総同盟をはじめ民間もふくめて、ほとんどすべての全国組合が参加して全国労働組合共同闘争委員会が結成され、「血涙をのんで建設的大手術を断行せざるをえなくなった」と、二月一日午前零時を期して、ゼネストに突入するという宣言が発表されました。

 こうして、二・一ストという参加予定人員六〇〇万(四〇〇万ともいわれる)の、かつてないゼネラルストライキをめざして、労働者と労働組合のたたかいは発展していきました。

 闘争の先頭にたっていた産別会議の聴濤議長は、右翼の暴漢におそわれ、負傷しましたが、たたかいはますます発展し、政府の態度に憤激した労働組合は、つぎつぎとスト決行を決議しました。職場はどこへいっても、二・一ストの話題でもちきりで、工場でも、地域でも、人民政府樹立が討議の中心となりました。学校といわず、役場といわず「吉田内閣打倒」のポスターがはられ、汽車も電車も、吉田内閣打倒の張り幕をつけて走りました。都市では夜となく、昼となく内閣打倒決起集会がひらかれ、デモのうたごえが街中をおおいました。労働組合では、職場ごとに闘争委員会が設置され、青年行動隊を中心に防衛隊が編成されました。弾圧にそなえて、第二指導部を準備した単産さえありました。

 こうした労働者の統一と団結の前に、政府は二二日、待遇改善暫定案を出し、現行給与五割引き上げという譲歩をみせ、中央労働委員会に正式に斡旋を依頼しました。このころからアメリカ占領軍の干渉がはげしくなり、マーカット代将は各組合の委員長をよび、命令だといって、六時間以内にスト中止指令を出すよう強要さえしました。しかし、労働組合は動揺せず、これに応ずるものはありませんでした。ニ八日には、吉田反動内閣打倒・危機突破国民大会が開かれ、東京では五〇万の労働者が集まって、吉田内閣打倒を宣言し、三〇日夜、共闘会議は満場一致でスト決行を再確認し、GHQと中労委会長にスト決行を伝えました。

 三一日、どの職場もどの工場も、明日からのゼネストにそなえて、労働者の決意がみなぎっていました。交通がとだえることにそなえて、数日分の食糧や寝具がもちこまれ、職場にたてこもる準備がはじめられました。それはまさに、日本人民がはじめて体験する支配権力との組織的な対決であり、すべての労働者がゼネストについての態度をはっきりさせないわけにはいかないような、階級闘争の力がするどくはりつめた雰囲気でした。

 ところが、一月三一日午後二時三〇分、マッカーサー司令官は、ゼネスト禁止声明を発表し、出頭させた共闘議長伊井弥四郎にたいし、スト中止のラジオ放送を強要しました。軟禁状態のまま、放送局のマイクの前にたたされた伊井議長は、「一歩退却二歩前進、労働者・農民万歳、われわれは団結しなければならない」と悲痛なスト中止指令を発表しました。

 マッカーサーのゼネスト禁止声明をも恐れず、たたかいの決意をかためていた全国の労働者にとってゼネスト中止指令は、まさにショックでした。みんな男泣きになきました。

 こうしてゼネストは中止され、日本の反動勢力の危機は、またしてもアメリカ占領軍の介人によって、救われました。

二・一ストのたたかいの成果と全労連の結成

 二・一ストはこうして終わりましたが、アメリカ帝国主義の占頷下で、六〇〇万の労働者が統一してたたかいにたちあがろうとした意義は、きわめて大きいものがありました。このたたがいをつうじて、日本の労働者階級と人民の闘争のまえにはアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配があり、アメリカ占領軍は解放軍でも、労働者の味方でもないことを労働者は身をもって知りました。

 同時に、全労働者の団結のまえには、いかなる政治権力も動揺するということを知りました。事実、二・一ストヘのたたかいのあと、官公庁労働者の賃金は平均二倍になり、労働者に有利な団体協約が各組合ごとにむすばれました。

しかし、このたたかいの成果のなかで、もっとも大きく評価されなければならないのは、何といっても、労働者階級の統一が大きく前進したことです。すなわち、二・一ストヘのたたかいのたかまりのなかで達成された統一を組織的に具体化しようと、二月一日に全官庁労組連絡協議会、二月四日には全国労働祖合会議準備会がつくられ、教員、国鉄、私鉄、炭労、鉱山、化学などの組合の産業別統一の運動がはじまりました。

もちろん、アメリカ占領軍の態度が露骨さをまして、反動的、弾圧的になると同時に、総同盟の一部右翼幹部による反共攻撃や分裂策動がおこなわれましたが、戦線統一をのぞむ大衆的な機運のなかで、総同盟もふくめて全国労働組合連絡協議会(全労連)を結成することに成功しました。日本の労働組合の全国的統一ができたのは、今日までに、これがはじめてのことです。それは満場一致制という、ゆるい協議体ではありましたが、共通の問題にたいする共同行動をうながし、世界労連への加盟を促進するという全労働者階級の統一の母体となりうるものでした。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p116-120)

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 「さて、皆さん、沓脱君が来てくれたので、最後の案件に移ります」
 議長の桑原康則は言った。

 「病院関係のレッドパージの中で、最後まで残ってたたかっている千石荘病院の問題について、皆さんがたのご意見を出していただきたいと思います。そういうわけで、沓脱君には、はるばる遠いところを出てきてもらいました。沓脱君、よく来てくれました。ありがとう。あなたが知っているのは林君だけだろうが、ここにいる医師は、よりよい医療をすべての国民が受けられるよう、長年頑張っている仲間だよ、よろしくね」

 タケ子は会議に出席している顔ぶれを見わたして、自分が一番若いことを自覚し、立ち上がって、深く礼をした。

 「いや、そんなに堅苦しくしないで、仲間じやないか。沓脱さんの噂はみんな聞いているよ。すごいね、よくやるよ。僕も、民間ではあるが、大野病院をレッドパージされたんだよ、山本漸(すすむ)というんだ、よろしく」

 一人が立ち上がって近づき、握手を求めた。
 他の男たちは、一斉に拍手をした。

 続いて桑原英武、稲次直己、そして懐かしい林喜彦、最後に岡谷実が簡単に自己紹介をした。
 みんな穏やかで、和やかな雰囲気だった。ちょうど千石荘で林が医局長だった頃、医局で林や西村と話し合っていたようなこだわりのない、気の置けなさだ。
 千石荘では、林が去って以来何年か、打ち解けた医師の間での会話は望むべくもなかった。タケ子は朗らかに過ごしてはいるものの、同業の仲間意識に飢えていた。
 初対面である会議の場に、どういうわけか、頑張りの塊が解けてほぐれるように感じられる以心伝心がある。そうした気分の広がりが、タケ子には心地よかった。

 会議出席の発端は、千石荘のタケ子に林喜彦から一通の手紙が届いたことによる。
 開いてみると、林の簡単な走り書きのメモと、共産党関西地方委員会主催「保険対策部・医師グループ会議」という会議の招集状が入っていた。
 「沓脱君、ご活躍の噂は聞いています。元気で頑張ってくれていることは、何よりうれしいです。このたびあなた達が奮闘してくれている千石荘病院の争議について、大阪で活躍する医師のグループで話し合うことになりました。委細は案内状の通りです。もちろん、党の会議ですよ。大事な会議ですから、万障繰り合わせてご出席くださるよう頼みます。会議で会いましょう。林」

 メモには、そう書かれていた。

 タケ子は共産党員であったが、病院内での活動しか知らず、大阪市内で開かれるという党の医師ばかりの会議などは、これまで出席したこともなかった。

 「一体、何を話し合おうというのだろう」

 タケ子は、会ったこともない医師がより集まって、自分たちのたたかいについて話し合うという、一体何を話そうと言うのか、内容をいぶかった。
 仲間の西野に話を向けてみると、西野も組織的なことに明るいわけではないが、案外あっさりと言う。

 「お医者様の集まりというからには、さすが大阪レベルともなると、たたかい豊富な林先生のようなすてきな先生が、たくさんおられるのでしょうよ。そんな人たちの意見が聞けるのならすごいじやないですか。先生、何事も経験ですよ。行ってらっしやいませ、きっと参考になりますよ」

 釈然としない気分と、西野の言う通りかもしれないと思う気持ちが相半ばしつつ、「沓脱殿は、案件進行の都合により、午後七時に来られたし」という指示に従って、タケ子は会議に赴いたのだった。会議に出席している医師の多くは、実は、戦前から互いにつながりと交流を持っていた。

 一九三三年(昭和八年)、東成区猪飼野大通(当時)に、東成無産者診療所が開設され、そこに患者として出入りしていた川上貫一が、赴任した新任の医師に思想的に成長してほしいと願い、医師のために社会主義の話をしたり、マルクスの『資本論』学習会を開いていた。

 それが縁で、国民医療に関心のある京都大学医学部の学生が集まって来るようになり、学習会は定着していった。

 しかし、日本が戦争への道に突き進んでいく中で、まもなくそれぞれが、弾圧の嵐を受け、ちりぢりにならざるを得なかった。

 戦後、川上貫一の学習会でまとめ役をしていた岡谷らは活動を再開し、音信不通になっていた仲間が連絡を取り合い、関西に民主的な医療機関を建設する運動に乗り出すのである。

 会議に集まった医師の多くは、そうしたつながりの中で活動していた。戦後、党が再建されるに従って、関西委員会の組織の中に医療に携わる専門家集団として、「医師グループ」が、位置づけられていた。

 戦後活動を始めたタケ子を受け止める彼らの目線は、林を通じて成長の経過が伝わり、まるで、妹に接するような温もりがあったようだ。

 「沓脱君、この会議はそんなにしょっちゅう開かれているわけではないが、必要に応じて同じ医師の立場で、運動上意見を交流する必要が生じたときに集まって知恵を出し合うのだよ。個人では見えにくいことも、広い立場で様々な角度から検討するとより客観的な判断ができるし、間違いを防ぐことができるからね。あなたのたたかいも、そういう立場からいま一度、みんなで見直してみる時期が来ていると感じませんか?」
 桑原康則は静かに言った。

 タケ子は、ああ、そういうことかと納得した。

 「私は、党員になって、このような場に出席したことかありませんので、まだ、不思議な気分ですが、林先生から皆さん方のお話は、わずかに伺ったことがあるのを思い出しました。林先生が千石荘を去られて、医者として心を許した会話ができていませんので、こんな集まりに呼んでいただけてうれしいです。聞きしにたがわぬ雰囲気に感動しています。どうぞご指導よろしくお願いします」

 タケ子は素直に、思った通りを発言した。

 「おっしやるとおり、レッドパージのたたかいは千石荘でも熾烈を極めており、明日何が起きるか予測できないままに、一日送りで過ごしている状況です。私たちは、アメリカ占領軍とその手下のように振舞う政府、直接執行者である当局に、不当な思想弾圧攻撃への人間としての怒りをよりどころに、今日まで悪戦苦闘を続けてまいりました。あの戦争を体験し、やっと国民のための医療に取りかかろうとした私たちに対して、共産党員であるということを理由に賊首されるという、いわれのない攻撃をかけられたわけであり、たたかうのは当然のことであります。その中核にいるものは皆、たたかいのために、それこそ命がけといっても過言でないほどの決意で立ち向かっています」

 会場では、医師たちが物音一つ立てず、静まり返って、タケ子の発言に耳を傾けている。

 「たたかう集団という点では、職種の違いを乗り越え、たまに意見の違いもありますが、よく団結して頑張ることができていると、判断しています。先ほど『医師の立場で』とおっしやいましたが、私は林先生が去られた後、労働組合の委員長として責任ある立場を貫こうとしていますが、組合問題については、ことさら医師としてという問われ方を、されたことがありません。桑原先生が、いまなぜ、私にそういう問い方をなさっているのか、よくわかりません。そこのところをもう少し突っ込んで、教えていただきたいと思います」

 タケ子は、早くこの場に慣れたい思いで、一気に、心の内を言ってしまった。

 「よく、わかりました。ここからは、今の沓脱君の意見にかみ合うように、それぞれの発言をお願いすることにしましょうか」

 議長が、議論の方向へ進めた。

 後で振り返ると、初対面の人が多いだけに誰がどの発言をしたかが、十分定まらない。しかし、表現に個性の差があっても、一つの流れとして、発言のすべてはタケ子への問題提起を含むアドバイスであったように思える。

 だが、その場では、はじめからスムーズに議論が進んだわけではなかった。

 「戦後労働組合は合法化され、組織化が進んだものの、新たな右翼再編が起きているのと呼応する形で、共産党と民主主義を目指すたたかいへの弾圧はいっそう激しくなっている。情勢は、決して一直線に前進の方向をとっていない。戦後のたたかいでレッドパージなどというものが出てくるとは、我々も想像もつかなかった。しかし、戦前のたたかいを経験している者としては、ここは、一つ息の長いたたかいということを見据えて、腹をくくらねばならないであろう、そんな風にも考える」

 「全医労の方針はあるだろうが、それは全体として方向と流れを示すものであって、単一の労組のたたかいの進捗(しんちょく)はやはり現場判断があってしかるべきだろう。責任者の沓脱君が、今後の千石荘のたたかいの方向について、一定の決断をしなければならない時期に、さしかかっているのではないかと、われわれは考えた。沓脱君の意見も是非聞かせてほしいし、よりよい展望を見いだすため、沓脱君をひとりぼっちにしないで、多少立場が違っても、一緒に考える必要があるのではないか、とみんな思ったということだ」

 岡谷が口火を切り、それに稲次が続いた。

 「医師が国民の医療を確立する運動の、中心的な役目をになうのは当然のことだ。戦前からそうであったように、医療や福祉を豊かにする活動は、人類の発展の中で勝ち取られたヒューマニズムの到達の度合いを側るものだと国民に知らせていく仕事は我々がになうものである。同時に、それらを実行するためには、制度として、病院運営をはじめ様々な状況整備に力を注ぐ役割もある。そういう立場からの総合判断を医師という立場では求められるということだ。そういう判断を日常的に行なうことが求められている。ここで交流すべき内容はそういう医師としての沓脱君が適切な判断が出来るよう、みんなで力を出し合おうということになる」

 ここまで聞いて、タケ子は黙っていられない。

 「ちょっと待ってください。一つ一つのご意見は私へのご指導として、一般論としてはよくわかります。皆さん方は、差し迫った問題として、何を言いたいために私を呼ばれたんですか? 回りくどく言わないで単刀直入におっしやってください。私は、千石荘のたたかいについては、みんなで民主的に話し合いながら今日に至っていますが、それのどこがいけないのですか?」

 進行役の桑原は、なるほどハッキリした物言いをする人だと、思わず微笑んだ。

 「沓脱君、そのたたかいについて、一定の判断をすべきときが来ているんではないかと、ここにいる皆が考えているのですよ。ひょっとして、あなたはそういう話を、客観的に考えられる人間と出会うことができなくて、誰ともしていないのではないかと心配しているのです。それで、われわれは、労働組合という組織の中で指導的役割をになう医師のあなたが、そういう局面でも、大きな役割を果たさなければならないということを、言いたいわけです。みんな医師ですからね。あなたの立場がよくわかるのです」

 桑原が、彼女を配慮して遠まわしの発言にならざるを得ない雰囲気を察知してズバリ、提起した。

 「え? 一定の判断とは、どういうことですか? 今、たたかいを収束しろということですか?そんなことできません。いかに先輩の皆さんのアドパイスであろうと、ああそうですか、というわけには行きません」

 言下にタケ子は言い切った。
 桑原は、予期していたとおりの発言であったが、穏やかに聞いた。

 「どうしてそのように思うのですか?」
 「だって、そうでしょう、まったくいわれのない、不当な攻撃を受けているのですよ。具体的には定員法という名目で、仕事のできが悪いから、などとまったく見当違いの悪罵を投げかけられ、共産党員であるからと有無を言わさずクビだと。そんな、でたらめな話がありますか。言われのない理不尽を飲み込んで、引き下がりますか? 私は、断じて許せません」
 「不当な攻撃を許したり、理不尽を前に屈服しろと言っているのではありませんよ。全体の流れの中で、残念だが引くべきときは引かなければならない、そういうことも眼中に入れて運動というものは進めねばならない、といっているのです」

 「引くべき? 相手が理にかなわない無法な攻撃を仕掛けているのに、どうして引かなければならないのですか。正しいことを通すために、たたかうのは人間として当然ではありませんか?」

 「たたかうことで、正しいことが、即、正しいと、共通の認識にならないことは往々にしてある。戦前と戦争中に、命を賭してまで侵略戦争反対のたたかいを貴いた共産党の存在を考えてください。あの時、報われることのない命がけのたたかいと見えたけれど、やがて、戦後たたかいの重要性が国民の間で認識され始めています。いま、また、その共産党を弾圧しようとしている権力に、我々はどう立ち向かっていくかを、考えようということです。大きなたたかいをきちんと見据え、当面するたたかいの戦略を考える。その場合、引く必要があるという判断もあるのです。それはわかっているでしょう?」

 「いま、引くことは、みんなの気持ちが納得しないと思います。これまでのたたかいはなんだったのか、ということになります」
 撫然として、タケ子は言い放った。

 議長の立場にある桑原が、タケ子とやり取りをする形になってしまったことに責任を感じてか、車座に座った男たちが一斉に手を上げた。
 「ねえ、ここは、堅苦しいやり取りでなく、みんなが思いのたけ、言い合おうよ」
 岡谷の提案に「そうだ、そうだ」ということになる。

 「では、右回りで」ということで、岡谷の隣にいた林が発言した。
 「沓脱さんたちの頑張りは、貴重ですよ。千石荘のたたかいは、本当に歴史に残るたたかいです」

 タケ子は、林をにらみつけて言った。

 「私たちは、歴史に残るために、こんな苦しい思いをしているのではありません。食べるものもろくになく、毎日、就労闘争をどんな思いでやっていると思いますか? 患者さんが持っている、家族のために働き続けたい、よい医療がしたい、そういったまともな当たり前の要求で、たたかっています。その思いで首を切られたものは団結しています。自らの要求で頑張っているのです」

 タケ子には、林の言葉が、辛いものに聞こえた。
 あなたが去ってから私がどれほど頑張ってきたか、そんなきれい事の言葉ですまさないでほしい、という思いが胸に渦巻いていた。

 「右回りでしょう、次は僕ですね」
 稲次は、林が何か言おうとしたのを遮るようにして、ここは自分が発言するのだと言わんばかりに、続けた。

 「たたかいは、みんな自分の要求でたたかう、これはあたりまえのことです。労働者階級は権力を手に入れるまで、自分の要求で、たたかいつづけるのですから。そのときに、場合によっては敵の不当な力が大きすぎて、こんちくしょうと思いながら、次のたたかいに力を養う時だってあるのではありませんか? 沓脱さんは全体をまとめる立場にあって、そういうことを今まで考えたことがないのですか? そんなことはないですよね。正しいことのために頑張らねばという建前で、いま、無理に目をつぶって頑張っているのと違いますか?」

 タケ子は、切なさと、くやしさで、涙がポロポロこぼれた。
 いままで、どんな思いでこの苦しいたたかいを乗り越えてきたことか。
 全身全霊をかたむけて、首切りを許さないという執念と、不当な権力の行使に渾身の怒りを表わしてきた。
 年老いて弱くなった母を、またもや貧しさのどん底と不安に落としてもなお、歯を食いしばってきた。
 たたかう仲間が攻撃にさらされてつらい思いをするたびに、「我々が正しいのだ」と自分は、励まし続けてきた。
 それを、引けと? 引けるか?

 「今、引くなんていうことは、人間の誇りにかけて、絶対に、できない……」
 人の前で、泣いて取り乱すなどということは、二十七年生きてこの方、タケ子の歴史には一度もなかった。

 しかし、タケ子はついに、号泣した。

 嵐のように激しく泣き叫ぶタケ子を、男たちはじっと見守っていた。
 世の中をまともに正面切って生きようとする、あまりに激しい情熱と魂の持ち主を見守り、静まり返って、言葉を失ったように時間が流れた。

 男たちは、それぞれ戦争中の弾圧の嵐の中で、肉親に降りかかる敵の攻撃と、いつ命を奪われるかもしれない怯えとに、人知れずたたかった日々を思い起こした。「この戦争は間違っている」という確信と、自分の命を脅かす権力の力とを冷静に見定める力を、どこで身につけたかを考えた。同じ思いで頑張っている仲間がいたこと、間違ったことをよしとしない自分らしさを貫くねばり強さの爽快感を思いおこした。

 こうして、自分を振り返ることで、しやにむに、たたかうタケ子が一層いじらしく、いとおしく感じられた。この後輩をなんとしても育て、見守りたいと願った。

 タケ子にどう話せばそれが伝わるのだろうか、それぞれが、模索を始めるようにきり出した。
 「沓脱君、つらいだろうが、泣かないで同じ医者の立場にある僕の話を聞いてください」
 「ああ、僕にも言わせて欲しい、これから手を携えて、頑張るために」
 彼らはポツリ、ポツリとかみしめながら、言い出した。

 「医者は、患者の治療をするときも、そのときの医療体制の状況、患者を取り巻く環境や家庭の様子など様々な条件を考慮して適切な治療方法を決断していくでしょう。それと同じように、このたたかいでのあなたの判断力というものは、今後の医者としての活動を進めていく上で、重要な素地を作ることになると思う。あなたほどの人が、ここは賢明に乗り切って、仲間を統率するりーダーとして、絶妙の力量を発揮して欲しい。そういうあなたに成長してもらうために言う。どうだろう、いま、争議団はどんなたたかいの展望を持っているのだろうか? そんなことを皆に提起し、話したことがありますか?」

 医者が病気を治そうと、患者に語りかけるように、たたかいの展望を仲間と話し合ったことがあるか、と問われて、タケ子は考えた。
 われわれの、たたかいの展望は、何だろう? そんなことを考える暇もなく、今日にいたっていたのだ。

 「日本の医療を変革する事業は、まだほんの緒についたばかりだ。たたかいはこれからだよ。これで終わりではなく、これから始まるんだよ、沓脱君。負けないで、粘り強く、我々の一生をかけて悔いない事業なのだ。そうじやないかい? いま、撤退するのは苦しいが、それが後になってよかったと胸を張ることができる判断力を持とうではないか。それが真の変革者じやないかい? お互い真の変革者を目指そうよ」

 たたかいは、これから? ほんの緒についたばかり? そんな馬鹿な。しかし、まてよ、たった三ケ月しか経っていないのだ、争議団の活動が。今の自分にはそれが本当に長く感じられる。負けないということが、もし、一生の課題であるのなら、わたしは、いま、争議団に提起すべき課題はなになのか、明確な持ち合わせがない、ここで、私はどんな意見を言えばいいのだろうか──タケ子は登山の途中で濃い霧に行手をはばまれるように、ふと、思考が行き止まってしまった。

 「沓脱君、争議団にも、みんな家族を抱えている。みんな苦しいが歯を食いしばって頑張っているのでしょう。その人たちの思いを洞察して、今後どうして食べていくのかを考えてあげるのもあなたの大事な仕事だよ。そのために、いま、あなたがともにたたかう仲間の先陣を切って決断するんだ。みんなの思いを汲み取るんだ。持っている力を、よい方向に生かす判断が必要なんだよ。こういう判断力というものは、医師として病院の経営にどのように関わるかも、基本は同じだ」

 仲間がかけがえのない存在なら、その仲間に対しての関わり方は、かけがえのなさにふさわしい自分の意見と判断を持つべきだという意見は、タケ子の心に無条件にしみ通った。本当に人間らしい関係は、そういうものであろうと思った。

 タケ子は、口を開いた。

 「わたし、必死で考えています。持ってください。もう一度言ってください。なぜ、今、私たちの争議団が、一定の判断をすべき時なのですか?」

 「沓脱くんと仲間たちの争議団が、精一杯たたかった。職場の労働者はみんなそれを見ていた。人間はこうしてたたかうのだということを十分示した。だが、このまま、争議団として千石荘でたたかいつづけられる基盤はあるのだろうか? アメリカと日本の政治権力は、凶暴な牙をむきだして職場から共産党員を追い出そうとしている。戦後の再編をそういう方法でやろうとしているのだ。終戦直後占領軍がとった民主的な措置がそのまま息づいているわけではないのだよ。新たな再編に向き合うには、それにふさわしい立て直しが必要だと、僕は考える」

 林がタケ子に向かって、久しぶりに、諒々と話した。タケ子はその林に向かって聞いた。

 「立て直しは、戦後の敵の再編を見て、判断するというのですね。私たちのたたかいは、そうすれば値打ちを下げなくて済むのですね。たたかいは、一生かかってやるんだというのはそういうことですか?」

 「そうだよ、沓脱君。たたかいは一生かかってやるんだ。仲間に、いま、そう提起する必要があるんだよ。そのことが大事なんだよ。君たちは素晴らしいたたかいをやったんだ。だからなおさらだ。そのたたかいを生かして、次にどういう方向を見いだすのかも、労働者は、みんな見ているんだよ」
 林は、にこやかに言った。

 岡谷は二人のやりとりを聞いて、新しい提起をした。
 「僕たちは、いま貧しくて医療が受けられないで苦しんでいる患者さんたちを助けるために、民主的な医療機関をつくろうとがんばっている。日本の医療事情をよくすることや国立病院でよい医療が出来るたたかいも大事だが、沓脱君とあなたの仲間を必要とするところはたくさんあるよ。千石荘でたたかったその精神と医療労働者としての力量は、民主的医療を目指す人たちの中では責重な戦力だ、これからも一緒に頑張ろう」

 議長の桑原は、かみしめるように言った。
 「あなたの、あの仲間はすばらしい。あの仲間が、これからも輝いて生きられる方法をみんなで一緒に考えようではないか。あなたは医者として、その責任を果たせる人だよ」

 タケ子の涙はまだ乾いていなかった。
 涙を流しながら、恥も外聞もかなぐり捨てて、先輩の医師に、自分の気持ちを正直に投げかけていた。
(稲光宏子「カケ子」新日本出版社 p247-260)

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◎「仲間がかけがえのない存在なら、その仲間に対しての関わり方は、かけがえのなさにふさわしい自分の意見と判断を持つべきだという意見は、タケ子の心に無条件にしみ通った。本当に人間らしい関係は、そういうものであろう」と。