学習通信070914
◎しかし、どっこい……

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どっこいしょ

 疲れた人が座るときに「どっこいしょ」といい、一般に力を入れたり、はずみをつけたりするときにも「どっこいしょ」という。もとはドッコイといった。

 ドッコイはドコエ(何処へ)という相撲の掛け声に由来する。江戸時代、村相撲を取る力士は、相手の気勢をそらし、相手のかかってくるのをからかって、「どこへ行くのか」「どんな手にでるのか」という気持ちでドコエと掛け声を発した。

 歌舞伎でも化粧声といって端役が荒事の主役の動作を引き立たせるために「アーリャ、コーリャ」とか「ドコエ」とかける掛け声がある。そのドコエの掛け声がドッコイとなった。そして、相手のすることが気にくわないときに、ドッコイ(どこへ行くつもりなのか、どうする気なのだ)そういうわけには行かないぞと、相手の行動を遮ることばにもなった。そうはさせないぞというときに、「どっこい(どこへ)、やるまいぞ、やるまいぞ」と狂言でも使っている。

 ドッコイを強めて、ドッコイショとショを付けるようになったのは多分、明治以後のことで、相手がいない一人だけのときでも力を入れるときには相手を意識して、「どっこいしょ」というようになった。

 「ショ」はヨイショ、コラショの「ショ」と同じく掛け声である。民謡などの囃しことばでも、ドッコイショとショを添えていう。

 よく知られる「そーらん節」では

「鰊来たかと かもめに問えば
私しゃ立つ鳥 波に聞け」に続いて
「チョイヤサエーエンヤーサノドッコイショ
ハードッコイショ ドッコイショ」と歌う。

 また、ドッコイを二つ重ねたドッコイドッコイは踊りの囃しことばになっている。このときのドッコイドッコイも、やはりどこへと問いかける気持ち、それはどういうことになるのかという意味から出ている。次の踊りの手はどのようかと疑問を発して、ドコエといったのである。

 ドッコイが「どこへ」という疑問から発するのに対して、同じ囃しことばでもコラショやキタサは確認のことばであった。疑問としたものを確かめる気持ちである。

 ドッコイドッコイは、掛け声から転じて、「やっとのことで」の意味になり、勢力が伯仲しているとの意味にも使われるようになった。「収支はトントンだ」のようにいうトントンと同じように、このときのドッコイドッコイは「均等」の意味でもある。

 ドッコイのほかにも、歌や踊りに合わせて間に入れる手拍子や掛け声がある。「合いの手」という。ヨイヨイと入れたり、サンヨナとかヤートセーとかアーヨイヤョーイトナーとかヤーハレなどと入れるのが合いの手である。合いの手といえば、日本だけでなく、たとえばフランス中世の武勲詩『ロランの歌』にもAoi!のような語がしばしば入るが、これも合いの手といえよう。

 力を入れるときにドッコイショと声に出すのは健康を支える証しである。仕事を始めるときにセーノと掛け声を出したり、アテネのオリンピックで若い卓球の女子選手が、うまく行ったときに発していた大きな声なども、自らを励ます勇気づけの叫びである。
(堀井令以知著「ことばの由来」岩波新書 p3-5)

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 歌舞伎や狂言や、新劇や大衆劇や、映画やテレビドラマなどの芝居であれ、落語や講談などの話芸であれ、その他百般の芸能はすべて、演技・演出と称せられる芸の技術を駆使して、観客を口説くことに精を出しています。

観客に向かって、嘘八百を並べ立て、それが嘘八百と先刻よーくご存じのお客さまを、本物を見聞きしているような、一種の錯覚に陥れる。「講釈師見てきたような嘘を言い」というやつです。お客は、そんなことがあるはずがないと思われることでさえ、だんだんひょっとするとあるかもしれない、いや、あるに違いないというふうに思われてきて、次第次第に興奮し、感激し、共鳴し、反発し、びっくりし、悲しみ、笑い出します。

今舞台の上で役者が涙を流している。あれは空涙なのだ。いやいや、今日のあの迫真の演技では、もしかすると本当に泣いているのかもしれない。しかし、幕が降りればケロリとして、すぐに相手の女優さんと冗談口をきき始めるに違いない。そんなことを想像しながらも、観客は傍佗(ぼうだ)と涙を流します。それが芸能というものの世界なのです。

 ところで、男女間の口説きや、商談や政争の口説きより、芸能の口説きの方が、成功率は一般的に高いと言えましょう。男女間の口説きでも、商談や政争の時の口説きでも、口説かれる方は、口説かれてしまうことをけっして望んではいません。むしろ多くの場合、口説かれてなるものかと、心に鎧を着ていることの方が多いでしょう。

ところが、芸能の口説きでは事情がまったく異なります。だって観客はもともと口説かれに来ているのですから。巧く口説かれることを期待して、彼らは客席に座っているのです。安くはないチケット代を捻出したり、整理券応募の官製葉書を何枚もポストに投函する手間をかけた結果、今このホールの「Dノ一六番」の椅子に腰を下ろしているのです。心地良く口説かれることに心をわくわくさせながら……。本来口説かれたい相手ですから、芸能者にとっては観客はまことに口説きやすい、文字通りの良いお客さまです。まさに「お客さまは神様」なのです。

 しかし、どっこい、いつも巧く口説きおおせるとは限りません。あるいは、口説き損なうことの方が多いかも知れません。演者がシャカリキになって口説けば口説くほどかえって舞台がみょうに白けてしまって、役者は今すぐにでも楽屋へ消えてしまいたい……、そんな気持ちになってしまうことだって間々あります。

もうそうなってしまってはお客を口説くなんて思いもよりません。そんな悲惨な舞台になった時は、役者もたまりませんが、お客だってたまったものではありません。せっかく口説かれに来たのに巧く口説いてくれないのです。彼らは口説かれたくてたまらないのにかかわらず、です。そこで期待を裏切られた観客は怒ります。「真面目にやれ!」「そこの役者、お前ら引っ込め!」と叫ぶお客も出てくるというものです。アメリカなんかではブーイングが始まり、その罵声はいよいよ高まります。

 男女間や商談・政争の口説きでは、こんな情景は滅多に見られません。口説かれる当人にもともと口説かれてしまいたい気持ちがないのですから、口説きが成功しなくても、文句を言うはずがありません。むしろ彼はセイセイしているかも知れません。チョッとくらい心残りがあっても、ホッとしているのが普通ではないでしょうか。しかし、芸能の口説きでは口説き損じると大変な事態になること、前述した通りです。

 そこで我々芸能者は、観客の口説きの欲求に応えるため口説きの技術の向上に努めなければなりません。通俗的に言うと、上手にならなければなりません。演技力・理解力・体力、あらゆる力を培うことが必要です。そうした基礎的な力をつけて、しかし、それで観客を口説けるかと言うと、それだけではそうはいかないから面白くもあり、怖くもあるのです。

 観客を口説くのに一番大事なのは、私の経験では「間」です。マとよみます。
(茂山千之丞著「狂言じゃ、狂言じゃ!」文春文庫 p27-29)

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◎「力を入れるときにドッコイショと声に出すのは健康を支える証しである」と。