学習通信070921
◎心身不離の……

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スポーツサイト
 永井洋一

日本柔道ピンチ
「精神性」無視していいのか

 日本柔道がピンチです。世界選手権で期待していた成績が残せず、世界柔道連盟(IJF)の役員選挙でも重要なポストを失いました。

 そんな中、世界の潮流は、精神性も含めた「武道」としての柔道ではなく、勝敗の結果のみが問われるスポーツとしての柔道、いわば「ジャケットレスリングJUDO」の推進に傾いています。そして、柔道がJUDOに変わっていく過程で、これまでは伝統的な価値観の中で「卑怯(ひきょう)」「汚い」「醜い」とされてきたような行為さえも、容認されつつあると感じられます。

 「正々堂々と組んで技をかける」というスタイルは、日本人の柔道家が重視している概念です。ところが、こうした柔道の持つ「精神性」を無視し、とにかく勝てばいいという現状の感覚でとらえていくなら、「組ませない」方法を工夫することは戦略の一つです。その結果、「差し手争い」で目に指を入れられるような事態がたびたび起きてきます。また、柔道着の襟を必要以上に分厚くして、相手につかませない対策もでています。

 カラー柔道着が採用されて久しいのですが、これも、対戦の組み合わせが明確になるための「スポーツ的」な発想です。しかし、欧州人にはただの色としての「白」であっても、柔道の価値観の中での「白」は特別なものだったはずです。「無垢(むく)」「虚心坦懐(たんかい)」「心やましきことなし」という状態の象徴としての「白」を身にまとうことは、ほんらい精神性をも含めた柔道では、欠かせないことだったはずです。

 時代遅れなことをいうと思われるかもしれません。しかし、考えてみてください。たとえば、レスリングで胸元に白のハンカチを入れるのは何のためですか? 乗馬の服装はなぜあのようなものなのですか? サッカーのハーフウエーラインの外に立てられている旗など必要ないのでは?。

 近代スポーツとして発展してきた競技でさえ、合理的な視点で見れば、「ナンセンス」のように思える事項はそこかしこにあるのです。しかし、それも伝統・歴史の一部として受け入れ、了解があって楽しめるのです。それが、それぞれの文化ではないでしょうか。

 柔道の様変わりには危ぐを感じます。日本の柔道関係者は、国際舞台での「政治的」立場に対して、捲土(けんど)重来を期してもらいたいものです。そのためには、現場上がりの元一流選手にこだわらず、柔道精神を深く理解しつつも語学、交渉、人脈などの面で腕をふるえる人物を組織に招き入れ、国際舞台に送り出すことも必要でしょう。オーストリア人の国際柔道連盟の新会長は、柔道経験はわずかだそうですが、ビジネスマンとしては相当の実力者と聞きます。

 くしくも、高校の授業で武道が必修になるというプランが推進されています。私は柔道を含めた日本の武道を、その精神性も含めて若者が理解しておくことは好ましいと思っています。ただし、ともすれば神道思想の身勝手な解釈から、あしき全体主義の価値観を強要しがちになることには、強く歯止めをかけておく必要があります。あくまでも、冷静で客観的な視点から、武道の持つ心身両面の文化を理解することは大事だと思います。
 (スポーツジャーナリスト)
(「赤旗」20070921)

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心身不離の世界を求めて

 本書でお話したいのは、なぜいま時、武術の見直しが重要なのか、ということです。

 よく、現代のようなミサイルや核のある時代に、いまさら力を振り回したり、ましてやカも持たない、素手の体術──体術というのは、普通、柔術と呼ばれているようなものですが──でもないだろう、というふうに言われたりします。

 しかし、どんな近代兵器を操っているのも、実は人間ですよね。人間が指でキーボードを叩いたりとか言葉で命令したりとか、とにかく「肉体」を通して、一つの表現をする必要がどんな近代兵器に対しても生じる。

 ところが現代では、何かを行なおうとする場合、その元になる人間そのものの、身体の使い方というものを考える機会は、ほとんど無いに等しい。日本を含め東洋というのは、心身を分けていませんでしたから、身体の使い方ということは、すなわち精神の使い方でもあるわけで、つまり、「心身不離の世界」というものを掴むことが、昔の武術の目的であったのです。

そして、その「心身不離の世界」というものはどういうものであったかを、単に「精神修養のために」といったレベルの考え方ではなく、具体的かつ術理的に検討し直して、現実に再現してみることも現代においては意味があるのではないかと思うのです。
(甲野善紀著「武術の 新・人間学」PHP文庫19-20)

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 高度経済成長を通じて、たしかに「生活の便利さ」は格段に高度化したみたいです。でもそれは、それだけでは、ほんとうの意味で文化が高度化したということにはならない、と思います。むしろ、もっと基本的なところで、文化の質の低下、貧困化が進行しているのではないでしょうか。

 これは、物質文化はゆたかになったが精神文化がそれにともなっていない、といったようなことではないと思います。よくそういういい方がされるのですが……。

 たとえば、厚生省がまとめた「児童環境調査」(一九八三年)をとってみましょう。それによると、いまわが国の子どもたちは、小中学生の八割が自分たちの部屋をもち、専用のテレビや百科辞典ももっていて、とりわけ中学生になると、ステレオやカセット、電卓などをもっているのはごくふつう、というぐあいに、物質的にはきわめてゆたかな状態にある一方、心の面ではきわめて不安定な状態にある、とされています。

 しかし、「物質的にゆたか」とはどういうことでしょう。「物質がたくさんある」ということとそれは単純にイコールではない、と思います。だって、「物質」といっても、いろいろなはずですから。ゴミの山、ヘドロの山にかこまれていて「物質的にゆたか」という人はいないでしょう。人間の人間らしい生活にとって有益な物質的手段がたくさんあってこそ、真に「物質的にゆたか」というのであるはずです。

 では、子どもが人間らしくすこやかに成長するために、もっとも欠かしえない物質的手段・条件はどのようなものでしょうか? たっぷりした日光、きれいな空気、澄んだ水、そして緑、アメンボとのつきあい、トンボとのつきあい、それから安心して遊びまわることのできる空間、栄養ゆたかな(そして危険な添加物などをふくまない)食べもの、等々ではないでしょうか? さて、では、それらは高度成長を通じて、ゆたかにされてきたのでしょうか、それとも?

 答えは明らがです。つまり、高度経済成長をつうじて、もっとも基本的なところでの物質的貧困化が進行してきたのです。子どもの「心」の問題も、このような、もっとも基本的なところでの物質的貧困化と不可分のものとしてとらえられねばならない、と思います。

 もちろん、すべてが物質的に貧困化しているわけではありません。物質的にゆたかになった面は山ほどあります、ただしそれが、もっともかんじんなところでの貧困化を条件としてなりたっているところに、問題があるのです。そして、なぜそうなってくるのかといえば、独占資本の利益を軸として事柄がすすめられているからです。独占資本の利益のために、「人間」の利益が犠牲にされているのです。

 たとえば、スーパー・マーケットなどの食料品売場に、見た目にはいかにもあざやかに、そしていかにも清潔に、きちんとパックされて並んでいる商品たち──それらには、着色料、発色剤、漂白剤、結着剤、乳化剤、殺菌剤、防腐剤、酸化防止剤、合成香料などの添化物が、またさらに野菜の場合には残留農薬が、肉類の場合には成長促進剤(できるだけ早く肉にするために用いる)や抗生物質(不自然な環境でのすしづめ飼育が必然的にもたらす病気をおさえるための)などが、というぐあいに、えたいの知れない物質がいっぱい入っていて、それらを食事とともに人が摂取する量は、成人一人あたり年間四キログラムに達するといいます。年間四キログラムということは、六〇年で二四〇キログラム、つまり小錦の体重にほぼ相当する分量ということです。

 先に引用した田辺聖子さんの文章も、次のように述べていました──

「私は、近頃日本の町や村でよく見かけるスーパーの食料品売場が嫌いである。蛍光灯の下、みなパックに収まり、サランラップにくるまれて値札をはられている、あんなことは肉や野菜に対して無礼である。私はあんな死んだ食料品を買う気になれない。私の家の近くに湊川市場という大きな市場があって、そこはパックで値札なんぞという売り方はしないから、私はもっぱら、そこを愛用する」

 じつは私は、スーパーを一概に否定したくはないのです。スーパーの開拓者となった「おしん」への思い入れもありますし、それに何といっても「便利」です。そして、この便利さというのは、時間的なゆとり、気もちのゆとりのないものにとっては、かなりの代償をはらってでも確保するに値する「ゆたかさ」の基本的な構成要素の一つであるのです。でも、その代償が人間の未来そのものだとすれば、どうでしょうか。「かなりの代償をはらってでも」という、その「かなり」の範囲をそれははみだしてしまうのではないでしょうか。

 先ほど述べた「小錦をたべる話」は、便利さということをもふくめた現在の「ゆたかさ」が、人間の未来を質に入れてなりたっているものだということ、そして、その質に入れられた未来が質流れにされてしまう危険性が現実に存在することを物語っていると思います。

 もっとも、「質に入れる」とか「質流れ」ということがよくわからない──ピンとこない──という若い世代もいることです。そういう人は『ドラえもん』の「デビルカード」の話を順に浮かべてほしいと思います。

 「デビル」というのは悪魔のこと。この悪魔のカードは、ひとふりするごとに三百円の現金が出ます。その代償としては、夜中の十二時に一ミリだけ背が低くなる、というのです。たかが一ミリくらいなら、と甘く考えたのがまちがいのはじまりで、主人公ののび太は、もう二日目には四十万円ほども使いはたして、夜中の十二時にはちぢんでなくなってしまうという危機を迎えることになります。漫画では、この危機は、ドラえもんがポケットからとりだした「ビッグライト」でのび太の体を大きくしておいたため、ちぢんでもとの背たけになってとまるという形で回避されるのですが──そして、「ビッグライトがあるから」ということで、のび太が性こりもなくまたデビルカードを使おうとする、というのが「落ち」となるのですが──現実の世界に「ビッグライト」は存在しないということを、私たちは心得ておかねばならないでしょう。

 先ほどもふれたことですが、たとえば民主商工会(全商連)に結集しているような業者たちの運動は、衣・食・住といったもっとも基本的な文化にかかわる仕事を業としている人びとの運動です。それは、ほんとうの意味での「文化人」の運動だという自覚をもつことが必要だと思うのです。それは、労働運動とともに、独占資本本位の人間不在の文化、人間の未来を帳消しにしかねない文化の支配にたいして、人間の人間らしく人間くさい生活、人間の人間くさく人間らしい文化に滲透された生活をまもり育てていく運動だと思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p72-77)

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◎「冷静で客観的な視点から、武道の持つ心身両面の文化を理解することは大事」と。