学習通信070927
◎全身の神経が緊張する……

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《潮流》

知人の息子が通う塾は、実に興味深い。父母会が運営し、規約まであります。二十一年前、東京都小金井市の親たちが、子どもたちに生きる力、考える力をつけさせたいと、スタッフを雇い、手づくりの学びの場をつくったのが始まりでした

▼創立当初から今日まで続く伝統行事ともいえるのが、夏の合宿です。いわゆる夏期講習ではありません。小学四年生から高校生までが同じ内容に取り組みます。今年のテーマはヒロシマ。四泊五日で原爆ドームの模型をつくりました

▼模型をつくること自体は、目新しくはありません。ここのオリジナルは、「ヒロシマの有る国で」の歌詞の読み解きと結びつけ、原爆が落とされた日、ヒロシマで亡くなった五万人の被爆者までつくったこと

▼こん包用の詰め物を素材にしました。チームに分かれ、一人ひとりの顔を書く。「いいかげんにしたら被爆者に悪いだろ」「せめて目と鼻は描こうぜ」……。スタッフの予想に反し、子どもたちはまじめに夢中で取り組んだようです

▼ゴマンニンとはどれはどなのか。報告集にはその五万人を、原爆ドームの模型の周りに埋め尽くしたときの驚きがつづられていました。原爆についてはテレビや映画や漫画で「知っているつもり」だった知人の息子も目の前の五万人に圧倒されたようです

▼五感すべてを使って、実感を積み重ねる。例え、数を忘れても、このとき受けた衝撃は体に刻み込まれたのではないでしょうか。学ぶとは何か。いろんなヒントが隠れています。
(「赤旗」20070918)

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文化としての体

 「人間は文化によって育つ」というと、それはもっぱら人間の心についてのことで、体は文化とは無関係、というふうに考える人がもしかしたらあるかもしれない、と思います。でも、それはおかしいんですね。だって、スポーツだってれっきとした文化でしょう。「赤ちゃん体操」だって、「ピンポンパン体操」だって、りっぱな文化なんですから。

 それに、心と体とは、もともときりはなすことができないものです。脳のはたらきをはなれては、心のはたらきなんてありえない──このことをあなたはみとめるでしょう。脳は体の一部分じゃないでしょうか。そして、体の他の部分ときりはなされては存在できないものじゃないでしょうか。

 「文化としての体」ということを、竹内常一さんが主張していらっしゃいます。(『教育への構図』高文研)いい表現だと思いますね。オリンピックの体操競技なんか見ていると、ほんとにこの表現、ぴったりだと思います。ハシをあやつってご飯を食べてる子、ゾウキンをしぼってる子、スキップしてる子、ナワとびしてる子なんかを見てても、そう思うんです。

 だって、そういうことが、サルからわかれてきたばかりの私たちの先祖にできたかといえば、たぶんできなかったろう、できたとしてもおそろしくぎこちないものだったろうと思うんです。根拠もなしに勝手にそう思ってるわけではありません。残された骨から推察されているところでは、体つきも顔かたちも、今日の人間とはだいぶひらきがあるんですね。

 すでに二本の足で立ってはいたものの、かなり前かがみで、体を左右にふりながら、小またでよたよたと走ったらしいんです。脳は小さく、その容積はゴリラなみ、歯とあごが前へつき出、目の上のところがひさしのようにはりだしていた。

 でも、すでに粗末な石器をつくってつかうことを知っていたんですね。そういう文化をもっていた。この文化が人間の手にしだいに器用さを与え、手の神経を動かす脳を発達させていったのです。ドイツの哲学者カントは「手は外部の脳である」といったそうですが鋭い洞察だったといえるでしょう。今日の人間の脳のなかでいちばん広大な領域をしめているのは、手の運動にかかわる部分なのです。

もちろん、労働にあたっては、手の神経だけが活躍するわけではありません。全身の神経が緊張するわけです。人間特有のしなやかな身ごなしは、こうした労働のつみ重ねのなかからつくりだされてきたのです。

それからまた、火の発見により、ものを煮たり焼いたりして食べることができるようになると、歯とあごにかかる負担がへって、相対的にあごがひっこみ、おとがいが形成され、目の上の骨のはりだしもなくなり、ものをかむための筋肉が頭をしめつける圧力もへって、これまた脳の大型化を可能にする条件となり、こうして顔つきもすっかりかわってきた。──サル的な顔つきから人間らしい顔つきへとかわってきたのです。

 このように、人間らしい姿勢、体つきも、顔つきも、すべて文化によってつくりだされたものだ──と、塩原和郎さんは強調していらっしゃいます。(『人類進化学入門』中公新書)
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカルチャーブック p50-52)

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◎「五感すべてを使って、実感を積み重ね……例え、数を忘れても、このとき受けた衝撃は体に刻み込まれ(る)……学ぶとは何か……いろんなヒントが隠れています」と。