学習通信071003
◎ぐじゃぐじゃと好きほうだい……

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働く者のモラルと規律を

 日曜参観のおりなどに、「子どものようすを見ていると、あいさつができなかったり、先生と友だちみたいに口をきいている、学校でも、道徳教育をもっとやっていただきたい」という、素朴で善意からでた意見が聞かれます。このような意見をだされるのは父親に多いようですが、おかあさんのなかにもうなずいている人がかなりいます。

 子どもの自主性をのばそう、子どもたち自身の考える力と判断力を尊重しようと考えている民主的な教師も、その時代、その社会にふさわしい働く者のモラルを体得させる道徳教育は必要だと考えています。子どもたちが、社会のにない手になることを考えれば、「仲間を大切にする」「ものを粗末にしない」などのモラルは、しっかり教えるべきだと思います。

 ただ教育のなかでも、とりわけ道徳教育は学校だけではできません。「教育をするのは公衆であり、社会施設であり、あらゆる周囲の環境であり、全社会機構です。諸事件も教育の役目を果たします」というクルプスカヤのことばは、こと道徳教育に関してもっともよくあてはまるというべきでしょう。学校で、文部省が決めた道徳の指導要領どおり「公共物をたいせつにし、公徳を守り、人に迷惑をかけない」と徳目どおり教えたとしても、たとえば田子の浦港の製紙会社のヘドロのたれ流しは、いったいどう考えたらいいのでしょうか。まさか、「人の気持ちや立場を理解して、広い心で人のあやまちも許す」と、ヘドロをたれ流す企業側に好都合な徳目の方を教えるわけにはいきません。

 学校で社会を維持・発展させてゆくにふさわしいモラルをしっかり体得させる責任を、少しも回避しようと思いません。それどころか学校では、集団で生活している点で家庭にはない良さを生かすことができます。たとえば「学級づくり、班づくり」では、集団とともに個人ものび、成長していける道徳を身につけさせることが可能です。しかし、文部省や教育委員会のいう道徳教育とは、政府や資本家に好都合な徳目を、なぜそうするのがいいのかも考えさせずに覚えさせるものです。この点についても、クルプスカヤは「教養のある労働者は、資本家にとって危険です。だからあらゆる国の資本家は、自分ののぞましい精神で労働者大衆を教育する事を、特に重視するのです。」と指摘しています。

 民主的な教師たちが努力している道徳教育は、働く父親や母親の喜び、怒り、悲しみがわかり、やがて社会をささえてゆく者にふさわしい仲間への愛情や規律です。そういう教師たちの努力もふくめて、社会自体がはたしている役割を改めて考えてみたいものです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p186-187)

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しつけ、美しくやさしいもの

 私以外、誰一人として、爪さきを玄関に向けてはきものをそろえて上がっている人はないな、とある医院で今日も私は思いました。大半は母子づれ、ちらほらの男、ほぼ十名あまりがいる耳鼻科の待合室からの観察です。

 昔から男はほとんど脱ぐときはそのまま、、爪さきを内に向け、いわば脱ぎ捨てのかっこうで上がってきたものです。女はいろいろ人目を意識する礼儀作法を持っていて、爪さき外向け型がほとんどでした。で、私は男女同権意識から、なぜ男はこうも行儀悪いのだろう、女に見習えと思っていました。一ぺん、ある国会議員候補が我が家に見えたときもそういう脱ぎ方でしたから、私はあとで人を通じて、おっしゃるように庶民のためにはたらいて下さるのでしたら、靴の脱ぎ方もお考え下さいと申し上げたことでした。

 それでも我が家を訪う男性の半分はきちんと脱がれます。やはり何かを意識しておられるのでしょう。しかし、トイレのスリッパとなると、また少々比率がちがって、気のゆるみが見えるようです。

 個人の家なら、まだまだ靴脱ぎエチケットは規制として有効なようですが、医院のように公開性の強いところでは、女も九割は脱ぎ捨ての時代になりました。男の悪い方を見習うというか、女だけを支配していた規制がゆるんだというか、とにかくまあ乱雑きわまる脱ぎっぶりなのです。母がそうなら、もちろん子もそうです。ポンポーンと脱いで上がってきて、乱暴に待合室の本をめくっています。私はこんな光景を憎みます。

 まず見苦しい。きちっと外向きに爪さきがそろえられて脱がれたはきものは美しい。ぐじゃぐじゃと好きほうだいにゆがんで脱ぎ捨てられた同じ靴やつっかけはきたならしい。それに、トイレなどでは次の使い手のためを思ってすぐはけるようにしてあげるやさしさが大切でしょう。しつけとは、美しさとやさしさとをしんにしているものではないでしょうか。
(寿岳章子著「はんなり ほっこり」新日本出版社 p40-41)

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第七章 社会の道義的な危機を克服する国民的対話と運動を

 (23)日本社会の直面している危機には、政治的危機、経済的危機だけでなく、道義的危機というべき深刻な問題がある。この危機は、子どもたちにもっとも深刻な形で影響をおよぼしている。重大で衝撃的な少年犯罪があいつぎ、いじめ、児童虐待、少女買春などが起きていることにたいして、多くの国民が不安を持ち、心を痛めている。

 わが党はこれまでも、人間をおとしめ、粗末にする風潮とたたかい、健全な市民道徳を形成するための対話と運動をすすめることを、くりかえし呼びかけてきた。党自身の責任としても、前党大会の規約改定において、「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす」ことを、党員の最優先の義務と位置づけてきた。

 今日あらためて、社会の道義的な危機を克服する課題−−わけても子どもたちに健全な成長を保障することを、二一世紀に民主的な日本社会を築いていくとりくみの重要な内容の一つに位置づけ、国民的な対話と運動でともに解決方向を探求し、現状打開のための努力を強めることを呼びかけるものである。

 (24)今日の道義的危機の根本には、自民党政治のもとでの国民の生活、労働、教育などにおけるゆがみや矛盾、困難の蓄積があり、それらの民主的打開のために力をつくすことが重要である。

 たとえば大企業のリストラ競争のもとでの雇用破壊や長時間過密労働は、家族のだんらんやコミュニケーションを破壊している。「勝ち組・負け組」といった弱肉強食の競争至上主義の風潮がつくられ、他人を思いやるゆとりが奪われ、国民の精神生活にも殺伐とした雰囲気が持ち込まれている。若者の深刻な雇用危機は、青年の社会参加の権利を奪い、就職・結婚・子育てなど、将来の希望を閉ざす重大な問題となっている。

 国連子どもの権利委員会は、日本政府への勧告のなかで、「極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子どもが発達のゆがみにさらされている」とするきびしい批判をよせた。自民党政府が長年つづけてきた世界でも異常な競争主義の教育、管理主義の教育は、子どもたちの心と成長を、深刻に傷つけている。政府・自民党は、今日の教育の矛盾と困難の原因を教育基本法に求め、その改悪の策動を強めているが、これはまったく根拠も道理もないものである。

反対に、政府・自民党が長年にわたって、教育基本法に明記された民主的教育の理念と原則−−「人格の完成」を教育の根本目的とし、国家権力による「不当な支配」を許さないなどの理念と原則を踏みにじってきたことこそが、今日の教育をめぐる矛盾と困難をつくりだしているのである。わが党は、教育基本法改悪の動きに、強く反対してたたかう。

 政治や経済にかかわるあいつぐ腐敗・不正事件は、子どもにとってはかりしれない有害な影響をおよぼしている。この分野での道義的腐敗の一掃は、健全な社会道徳を築いていくうえでも、きわめて重要である。

 さらに、他国への戦争をけしかけ、テロを容認し、あおりたてる政治家の発言が問題となったが、こうした発言の生まれる根本にはアジア諸民族を侮蔑(ぶべつ)する独善的な排外主義の潮流が一部に台頭しつつあるという危険な状況がある。

 市民道徳に有害な影響をおよぼしている、自民党政治のもとでのさまざまなゆがみや矛盾をただすたたかいが必要である。わが党は、日本社会を「民主的なルールある社会」にするたたかいを、日本社会に健全なモラルを確立していく課題と一体のものとしても位置づけ、力をつくすものである。

 (25)これらの努力をはかりつつ、それには解消できない、社会が独自にとりくむべき問題として、わが党は、つぎの四つの角度からのとりくみを呼びかける。

 −−民主的社会にふさわしい市民道徳の規準の確立……民主的社会の形成者にふさわしい市民道徳の規準を、国民的な討論と合意で確立していくことは、今日とくに重要である。

 戦前、わが国の「道徳」は、「教育勅語」を中心として、天皇絶対の専制政治への忠誠に国民をかりたてることを第一に、国家権力から押しつけられた強制的規範としてつくられた。それは真の意味での市民道徳とは無縁のものであり、この「道徳」のもとで、他民族への侵略戦争という人間の道義を蹂躙した蛮行がおこなわれた。

 この歴史的誤りの反省のうえにつくられた日本国憲法と教育基本法は、戦後の民主的な市民道徳を形成していくうえでの土台となりうるものだった。すなわちそれは、主権在民の原則、人権と人格の尊重、平和的な国家および社会の形成者、真理と正義の探求、勤労と責任の尊重、男女の平等・同権など、人類の進歩に立脚した普遍的価値観をふくんでいる。これらを土台にして、民主的社会の形成者にふさわしい市民道徳の規準を確立するための、さまざまな自主的なとりくみもおこなわれてきた。

 わが党も、一九七〇年代、八〇年代に、教育の場で、学力、体育、情操とともに、市民道徳を身につける教育の重要性を呼びかけ、九七年の第二十一回党大会決議では、市民道徳にふくめるべき内容として、十項目の諸点を提起してきた。

 こうした努力にもかかわらず、“何を市民道徳の規準とするか”という問題について、必ずしも国民的合意が存在しているとはいえないという現状がある。これは、政府によって上からの押しつけで決めるべき問題でなく、もとより一つの政党が決める問題ではない。社会的に認知された市民道徳の規準を、国民的な討論と合意によって形成することが重要になっていると考える。

 −−子どもを守るための社会の自己規律を築く……「子どもに対して特別の保護を与える」(子どもの権利条約)という、社会が持つべき当然の自己規律の面で、日本が国際的に見ても重大な弱点をかかえていることは、深刻な問題である。

 少女買春など性の商品化が子ども社会をむしばんでいるが、この分野での社会の自己規律は、国連子どもの権利委員会から、「児童のポルノグラフィー、売春および売買を防止し、これとたたかうための包括的な行動計画が欠けている」と勧告されるなど、国際的に見てもきわめて不名誉な地位にある。

 メディアやゲームの映像などにおける暴力や性のむきだしの表現が、子どもにたいして野放しにされていることにも、多くの国民が心を痛めているが、この分野の自己規律も、わが国は国際的にきわめておくれている。さらに、子どもをもうけの対象とみて、その欲望をかりたてつつ、子どもに大量の商品を消費させている社会のあり方も、世界から見ればきわめて異常な状態である。

 サッカーくじは、子どもたちが買えないことが建前とされたが、実態は子どもたちを巻き込むギャンブルとなっている。政府・文部科学省が、子どもを引き入れる賭博の胴元になっている現状は、とうてい容認できない。

 幼児虐待の増加などにもかかわらず、子どものための専門機関の整備が遅れていることも放置できない問題である。

 この分野での日本社会の異常な立ち遅れを克服し、子どもの健全な成長を保障する社会の自己規律を確立することは、急務である。

 −−子どもの声が尊重され、社会参加する権利を保障する……子どもの意見表明権や社会参加の権利を、学校や地域など社会の各分野で保障することは、子どもの世界を明るく積極的なものにするうえで大切なことである。

 少年事件や少年問題の原因はさまざまだが、その背景の一つに、子どもの自己肯定感情(自分を大切な存在と思う感情)が深く傷つけられているという問題があることは、多くの関係者・専門家が共通して指摘していることである。自己肯定感情が乏しければ、他人を人間として大切にする感情も乏しいものとならざるをえない。国際比較調査でも、「自分自身への満足」「私は価値ある人間である」と感じている子どもの比率が、日本ではきわめて小さいことは憂慮すべきことである。

 子どもたちが、自分が人間として大切にされていると実感でき、みずからの存在を肯定的なものと安心して受け止められるような条件を、家庭でも、地域でも、学校でも、つくることが切実に求められる。

 そのためにも、子どもの声に真剣に耳をかたむけ、子どもの思いや意見を尊重し、子どもを一人の人間として大切にする人間関係を、社会の各分野でつくることは、きわめて重要である。子どもが自由に意見をのべる権利を保障し、その意見を尊重し、子どもの社会参加を保障するとりくみが求められる。社会の一員として尊重されてこそ、自分を大切にし、他人を大切にし、社会のルールを尊重する主権者として成長することができる。

 子どもの権利条約は、「子どもに影響を与えるすべての事柄について自由に自己の見解を表明する権利を子どもに保障し、その意見は子どもの年齢および成熟度に応じて正当に重視される」と定めている。世界では、生徒が学校運営に参加するなど、子どもの社会参加が大きな流れになっている。この間、日本でも、学校や地域など、さまざまな場で、子どもの意見表明や参加を重視する新しい流れが起こっている。こうした積極的な流れを、大きく前進させることが大切である。

 −−子どもの成長を支えあう草の根からのとりくみを……家庭、地域、学校が共同して、子どもたちの成長を見守り、悩みにこたえ、支える、草の根からの運動をすすめる。市民道徳は、言葉だけでなく、現実の人間関係、社会関係をつうじてこそ、身についていくものである。

 いま全国各地で、読書運動、舞台・映画鑑賞、スポーツ、リズム体操、自然・社会体験、自主的子ども組織づくりなど、豊かな人間関係を育てていくための多面的なとりくみが広がっている。いじめ、非行、不登校、ひきこもりなど、子育てに悩む親たちの自主的な組織も無数に生まれている。党がこれらの草の根からのとりくみを応援し、ともに解決の方途を見いだしていくことが、重要になっている。

 社会的道義の問題は、モラルの問題という性格からいって、上からの管理、規制、統制、押しつけを強めるという立場では、解決できないどころか、有害な作用をおよぼすだけである。少年犯罪の加害者の親に制裁と報復をくわえるのが当然とする閣僚の発言は、その最悪のあらわれの一つである。

 この問題は、国民の自発的な力に依拠してこそ解決の道が開かれる。わが党は、社会の道義的危機を克服し、未来をになう子どもたちに健やかな成長を保障する社会をつくるための、国民的な対話と運動を呼びかけるものである。
(「日本共産党第23回大会」前衛臨時増刊 2004年4月号 p84-88)

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◎「しつけとは、美しさとやさしさとをしんにしているものではないでしょうか」と。