学習通信071004
◎根源は確固として正当……

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学問 文化
小繋事件90年
未来につながる
山の入会(いりあい)型管理と
利用の知恵
 早坂 啓造

 岩手県北部・小繋(こつなぎ)村(現、一戸町)で、山村の民が山を自由に利用する入会(いりあい)の権利を踏みにじられたのに抗する訴訟がはじまって、この十月で九十年になります。

 一九一七年(大正六年)十月十三日、岩手県二戸(にのへ)郡小鳥谷(こずや)村小繋に起こされ、裁判は、六十年近く続きました。それまで村人たちは、山で木を伐(き)ったり牛馬を放牧したり山に入り合い、山と共に暮らしてきました。誰のものでもない山、みんなの山でもあったのです。山を荒らさぬ厳しい掟による、管理と利用の知恵も持っていました。

村人たち決死の
たたかいの軌跡

 明治政府の地租改正・林野官民有区分が、課税のため山に上から「所有」の枠組みを押し込み、国有・公有・私有の山としました。小繋では、「代表名義人」が地券を受けて官没(国有化)を免れたのですが、その名義人の息子らが山を無断で金貸しに売り渡し、さらに転がされて、村人が気づいたときには、すでに山師・鹿志村亀吉の手に渡っていたのです。

 一九一五年(大正四年)の小繋大火で家も証拠の書類も失った村人たちに、彼はチャンスとばかり、仮小屋を建てるための木さえ伐ることを拒み、「オレの山だ」と、用心棒を雇って入山を拒否したのです。「所有とは盗奪である」を地でいく暴挙でした。訴訟は、村人たちの生きるたたかいだったのです。

 それはまた、資本主義化・富国強兵・対外侵略、戦後は高成長と、「近代化」路線をひた走って来た日本の政策路線のもとで、入会慣行が「前近代的」・「非効率的」として切り捨てられ、歴史の「スケープゴート(生けにえ)」とされた全国無数の事件の一つでした。戦前の岩手だけでも三百件におよんだ裁判は、山の民の決死の闘いの軌跡です。

 入会権をめぐり
 広がる研究、交流

 小繋裁判は敗訴に終わりましたが、その結果はどうあれ、入会権は生きています。小繋の中にも、岩手にも、地球のいたるところにも。

 貿易自由化・高成長から新自由主義政策・市場万能主義による地球規模の乱開発と格差社会が極限に達し、国内林業も荒廃したころ、それに対抗して熱帯林破壊の巨大企業に立ちはだかる道路封鎖の抵抗や慣習権擁護の裁判闘争が、アジア・アフリカ・中南米各地で澎湃(ほうはい)として広がって来たことに、私たちは目を見張ります。その中で、国連など国際諸機関やNGO・NPOが「住民主体の入会型管理・利用」をひな型とする地球環境保護の方向を打ち出してきました。

 マッキーンらによるアメリカ生まれの「コモンズ(共有財産)論」が、日本の入会権の歴史をモデルとしながら、この方向に理論的支柱の役割を果たし、各国の事例研究による裏付けも与えつつあります。昨年来、関西コモンズ研究会の若手研究者グループが二度も小繋を訪れ、泊まり込んで交流していったのをはじめ、宮城・東京・京都などからの来訪者が増え、相互の研究協力関係も進んでいます。アジアからの来訪も予定されています。

 若きマルクスがライン州議会の「木材窃盗取締法」論議を批判して、もともと私有とも共有ともいえない重層的な所有権を、富者の権利としてだけ一面化し、貧者の権利を切り捨てたことが根底にあると指摘したこと、晩年には、共同体を柔軟に捉え、それが「資本の論理」によってただ否定されるのではなく、条件次第では資本主義をとび越える「未来社会のひな型」となりうるとして、そこに歴史の弁証法を見たこと──こうした見事な洞察力と、これら現代の動向とは重なっているのです。

 自然環境保護や
 山村再生と結び

 日本政府も、国際世論の圧力で、森林法を改め、生産至上主義からの転換と、「定住促進」を謳(うた)うにいたりました。しかし、百三十年余にわたる定住者追い出し=入会権排除の悪政への反省は一片もないのです。暮らしを壊され、散り散りになった村人たちの「定住復権」こそ、最優先の政策課題でなければなりません。

 私たちは、未来社会が現実に見通せるようになったことに確信を抱き、小繋事件をはじめとする入会権擁護の運動を、現時点における自然環境保護、山村再生の課題と結びつけて位置づけなおし、未来へのステップとする努力を注ぐ必要があります。

〔裁判経過〕
 裁判は三次にわたります。第一次は戦前二十二年かけて敗訴。第二次は、職権調停で、村人たちの委任状もないまま一五〇町歩の山林受贈との引き替えに入会権放棄。これに抗議した調停反対派に、調停有効の判決と、反対派をねらい打ちした窃盗・森林法違反……容疑の逮捕。これが第三次の刑事事件です。刑事第一審が、調停無効と入会権の存在を認め無罪に。だが控訴・上告審ともそれをし、入会権消滅、刑事有罪の線を押し通しました。
 都立大学教授の法社会学者、入会研究家の故・戒能通孝が職をなげうって法廷の弁護にたったことは、有名なエピソードです。

 はやさか・けいぞう
 一九三二年生まれ。岩手大学名誉教授。経済史、経済理論。著書に『「資本論」第U部の成立とメガ』など。岩手小つなぎの会世話人。岩手入会・コモンズの会副会長。盛岡市在住

(「赤旗」20071004)

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 上述の立法諸機関は必然的にこのような一面的な態度をとらざるをえなかったのである。

というのは、ある種の財産は私有財産とも断定できないし、そうかといって共有財産とも断定できない、きわめてあいまいな性格をもっており、中世の諸制度によくみられるような私法と公法との混合物であったという点に、すべての貧民の慣習的権利の根拠があったからである。

ところで、立法機関がいかなる器官によってこのようなあいまいな諸形態をとらえたのかといえば、それは悟性であった。

悟性というものは、単に一面的であるばかりでなく、世界を一面的にすることがその本質的な役目なのである。

これはたしかに一つの偉大な、驚嘆に値いする仕事ではある。

というのはこのように一面的になることによってのみ、非有機的な全体の粘液から特殊的なるものが形成され、引きはなされるからである。

事物の性格は、悟性の所産である。

事物がある種の事物となるためには、すべて、自己を孤立化させ、また孤立化されねばならない。

悟性は世界の内容のそれぞれを一つの固定した規定性のなかにとじこめ、そして流動的な本質をいわば石化させることによって、世界の多様性を生みだすのである。

なぜなら、世界は多くの一面性がなければ、多面的であるはずがないのだから。

 悟性はこうして、ローマ法にその原型をもつ現存の抽象的私法の諸カテゴリーを適用することによって、どっちつかずであいまいな構造をもつ財産を廃棄した。

立法に従事する悟性は、このあいまいな財産の国家的特権までも廃棄したのだから、貧民階級にたいするこの財産の義務を廃棄することは、なおさら正当であると思いこんだのである。

だがこの場合、悟性は次の点を見のがしていた。

すなわち、いかなる立法も財産にたいする国法上の諸特権を廃止したのではなく、ただその怪奇な性格をはぎとって、そのかわりに市民的な性格をあたえたにすぎないという点は論外として、純粋に私法にかかわる点だけについてみても、ここでは二重の私権、すなわち財産所有者の私権と非所有者の私権とが問題になるということ、このことを悟性は忘れていたのである。

ところで、中世的形態の権利はすべて、したがって所有権もまた、どの面からみても雑種的で、二元的で、分裂的な本質をもつものであったから、この矛盾した性格づけに反対して悟性がその統一の原則を主張したのはきわめて正当であったとしても、その場合悟性は、次のような所有対象物の存在を見おとしていたのである。

つまり、この所有対象物は、その本性上、私有財産となるべき性格をもちえないものであり、さらに、その本質がきわめて自然発生的でその定在が偶然的であるために、先占権に帰属し、したがってこの所有対象物は、まさに先占権によってあらゆる他の所有権からしめだされている階級の先占権、この対象物が自然のなかで占めているのと同じ地位を市民社会において占めている階級の先占権、に帰属するものなのであるが、このような所有対象物の存在を見おとしていたのである。

 われわれはすべての貧しい階級の慣習となっているような慣習が、たしかな本能によって所有権の無規定な伺面を見わける能力をもっていることを知るであろう。

われわれは、この階級が自然的欲求をみたそうとする衝動を感じているとともに、またこの階級が権利に合致した衝動をみたそうとする欲求を感じていることをも見いだすであろう。地面に落ちている枯枝が、この例としてわれわれの役にたつ。

蛇のぬぎすてた皮が蛇となんら有機的関連をもっていないのと同じく、枯枝は生木となんら有機的にむすびついていない。

自然そのものが、有機的生命から切りはなされ折りとられてひからびている小枝や細枝と、しっかり根をはって、空気や光、水、土壌をば有機的に自分の姿と個体的生命とに同化しつつある汁液にみちた樹木や幹、との対立という形で、いわば貧富の対立をあらわしている。

これは貧富の自然的表象である。

貧しい人々は、人間界と自然界とがこのようにきわめて類似していると感じ、そしてこの感覚から自分たちの所有権を導きだす。

それゆえ彼らは、自然的・有機的な富は権謀術策に富む財産所有者のものとして承認するが、自然界の貧困〔枯枝など〕は、彼らの欲求とその偶然との手にかえせ、と要求するのである。

彼らは、自然力のこのはたらきのなかに、人間的な力よりもいっそう本源的に人道的な親しみやすい力を感じる。

特権者たちの偶然的な恣意にかわって、自然力の偶然があらわれている。

この自然力は、私有財産がもはや手放さないものを、私有財産から引きはなすのである。

路上に投げられる施し物は富者が拾いあげるべきものではないのと同じよ、うに、この自然の施し物も富者のうけとるべきものではない。

しかしまた貧者は、彼らの行動のなかにすでに自分たちの権利を見いだしている。

枯枝あつめにおいて、人間社会における根源的・自然的な階級が、同じく根源的な自然力の産物とぴったり対応しあっているのである。

同じことは、自然に成長するにまかされて、土地財産のまったく偶然的な属性をなしているにすぎず、まさにあまり重要性をもたないために本来の所有者の活動対象にはならないような生産物についてもいえる。

また、落穂ひろい、二番刈り、およびこれに類する慣習上の権利についても、事情は同じである。

 したがって、貧民階級のこれらの慣習のなかには本能的な権利感覚が生きており、その慣習の根源は確固として正当なものである。

そして従来、貧民階級の存在そのものが市民社会の単なる慣習であるにとどまり、自覚的な国家組織の領域内ではまだふさわしい地位を獲得するにいたらない慣習にすぎなかったことをおもえば、貧民階級のあいだでの慣習的権利という形式はこの場合なおさら自然的であるといわねばならない。
(マルクス「第六回ライン州議会の議事 第三論文 木材窃盗取締法に関する討論」ME全集@ 大月書店 p136-138)

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◎「未来社会が現実に見通せるようになったことに確信を抱き、小繋事件をはじめとする入会権擁護の運動を、現時点における自然環境保護、山村再生の課題と結びつけて位置づけなおし、未来へのステップとする努力を注ぐ必要が」と。