学習通信071009
◎貧困ラインは客観的には確定できる……

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書架散歩
 薄井 敏正

 河上 肇著『貧乏物語』
現代の貧困にも通じる視点

 新自由主義的な小泉構造改革によって、貧困と各種の格差の拡大が大きな社会的、政治的なテーマとなっている。格差問題は規範哲学を専門とする私にとって、無視できない問題である。私はこの問題について、近著(碓井・大西広編『格差社会から成熟社会へ』大月書店)で、問題は格差ではなく、貧困、それも世代に渡って発達が阻害されるような貧困層の形成にある事を強調した。

 貧困と格差に関する自説を展開する上で、私に大きなヒントを与えてくれたのが、学生時代に読んだ河上肇の『貧乏物語』である。河上は本書の冒頭で貧乏人を、@金持ちとの相対的関係における貧乏人、A政府による救済の対象としての貧乏人、B必要最低限の費用以下で生活する貧乏人、の三種類に分けた上で、自分が問題とするのは、Bの意味の貧乏人であり、この種の貧乏はカロリー計算などにより、科学的に定義可能であるとする。

 河上が言うように、心身の発達にとって必要最低限の生活ラインを想定することは、貧困を「人権の問題」として位置付けるための不可欠な前提なのである。

 実は同様の問題が、国際的にも存在している。現在、世界の不安定要因にもなっているグローバルな貧困と格差の拡大を前にして、グローバル・レベルでの富の再配分が国際論壇で話題となっているが、この問題に対しても、格差の側面からではなく、貧困者の人権の側面からアプローチする方が有効である。そのためには、M・ヌスバウムが試みたように、最低限の生活の質を保障する文化横断的な条件を提示することが、重要な前提となる。

古典の古典たるゆえんは、現在の問題に対して的確な分析の視点を教えてくれるところにあるが、『貧乏物語』はこのような現代の国際論議に対しても、基本的な視点を提供してくれるのである。(京都橘大学教授)
(「赤旗」20071007)

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貧乏物語
  河上 肇著

一の一

 驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である。一昨昨年(一九一三年)公にされたアダムス氏の『社会革命の理』を見ると、近々のうちに社会には大革命が起こって、一九三〇年、すなわちことしから数えて十四年目の一九三〇年を待たずして、現時の社会組織は根本的に顛覆(てんぷく)してしまうということが述べてあるが、今日の日本にいてかかる言を聞く時は、われわれはいかにも不祥不吉な言いぶんのように思う。しかし翻って欧米の社会を見ると、冷静なる学究の口からかかる過激な議論が出るのも、必ずしも無理ではないと思わるる事情がある。英米独仏その他の諸邦、国は著しく富めるも、民ははなはだしく貧し。げに驚くべきはこれら文明国における多数人の貧乏である。

 私は今乾燥無味の統計を列挙して多数貧民の存在を証明するの前、いうところの貧民とはなんぞやとの間題につき、一応だいたいの説明をする必要がある。

 昔釈雲解という人あり、「予他邦に遊学すること年有りて、今文政十二己丑(きちゆう)の秋郷に帰る時に、慨然として心にいたむ事有りて、一夜これを燈下に草して里人にあとう」と言いて『生財弁』一巻(『通俗経済文庫』第二巻に収む)を著わす。その中にいう「貧しきと賤しきとは人の悪むところなりとあらば、いよいよ貧乏がきらいならば、自ら金持ちにならばと求むべし、今わが論ずるところすなわちその法なり、よっていっさい世間の貧と福とを引き束ねて四通りを分かつ、一ツには貧乏人の金持ち、ニツには金持ちの貧乏人、三ツには金持ちの金持ち、四ツには貧乏人の貧乏人」。すなわちこの説に従わば、貧乏人には金持ちの貧乏人と貧乏人の貧乏人との二種あることとなる。

 今余もいささか心にいたむ事あってこの物語を公にする次第なれども、論ずるところ同じからざるがゆえに、貧乏人を分かつこともまたおのずから異なる。すなわち余はかりに貧乏人を三通りに分かつ。第一の意味の貧乏人は、金持ちに対していうところの貧乏人である。しかしてかくのごとくこれを比較的の意味に用い、金持ちに対して貧乏人という言葉を使うならば、貧富の差が絶対的になくならぬ限り、いかなる時いかなる国にも、一方には必ず富める者があり、他方にはまた必ず貧しき者があるということになる。たとえば久原(くはら)に比ぶれば渋沢は貧乏人であり、渋沢に比ぶれば河上は貧乏人であるというの類である。しかし私が、欧米諸国にたくさんの貧乏人がいるというのは、かかる意味の貧乏人をさすのではない。

 貧乏人ということばはまた英国のpauperすなわち被救恤者と(ひきゆうじゅつしゃ)という意味に解することもある。かつて阪谷博士は日本社会学院の大会において「貧乏ははたして根絶しうべきや」との講演を試み、これを肯定してその論を結ばれたが、博士のいうところの貧乏人とはただこの被救恤者をさすのであった。(大正五年発行『日本社会学院年報』第三年度号)。私はこれをかりに第二の意味の貧乏人と名づけておく。

ひっきょう他の救助を受け人の慈善に依頼してその生活を維持しおる者の謂(いい)であるが、かかる意味の貧乏人は西洋諸国においてはその数もとより決して少なしとはせぬ。

たとえば一八九一年イングランド(ウェールズを含む)の貧民にして公の救助を受けし者は、全人口千人につき平均五十四人、すなわち約十八人につき一人ずつの割合であり、六十五歳以上の老人にあっては、千人につき平均二百九十二人、すなわち約三人に一人ずつの割合であった。統計は古いけれども、これでその一斑はわかる。さればこの種の貧民に関する問題も、西洋諸国では古くからずいぶん重要な間題にはなっているが、しかしこれもまた私がここに問題とするところではない。

 私がここに、西洋諸国にはたくさんの貧乏人がいるというのは、経済学上特定の意味を有する貧乏人のことで、かりにこれを第三の意味の貧乏人といっておく。そうしてそれを説明するためには、私はまず経済学者のいうところの貧乏線の何ものたるやを説かねばならぬ。(九月十二日)
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p11-13)

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●すべての問題は貧困に通じる

湯浅……青山のウィメンズブラザで「もう我慢できない 広がる貧困3・24集会」という集会をやりました(2007年)。いくつか特徴があったんですが、ひとつは広い枠で実行委員会を組んだことです。雨宮さんもいれば今野さんもいた。労働組合の人たち、派遣労働ネットワーク、首都圏青年ユニオンとか主に非正規の労働問題に取り組んでいる人たち、連合もいました。もちろんホームレス関係の団体もあったし、女性問題をやっている人たち、障害者の団体、日本で最も当事者運動を進めているDPIという人たち、法律家の人たちもいた。なぜ大きな枠で実行委員会を組んだかというと、自殺の問題を突き詰めていったら貧困の問題にぶち当たる、ひきこもりの問題を進めていったら餓死の問題にぶち当たるからです。

 いろんな問題の背後に貧困の問題がある。労働問題で不当な扱いを受ける人たちの中には、そういう労働条件の中でも働かなくちやいけないという貧困の問題がある。福祉の問題も同じです。ホームレスの人たちというのは、その最もわかりやすい形態ですね。学校給食費の未払いの問題とか、病院にかかれない、医療費が払えないという問題、あるいは国民健康保険証が取り上げられてしまうという問題、それらが全部、貧困の問題に関わっている。いろんな分野の人たちがそのことに気づき始めたんです。

例えば、今回の実行委員会の中に弁護士さんがいました。被はヤミ金被害者対策をずっとやっていた人なんです。被が非常にわかりやすく言ってましたが、ヤミ金被害に遭ったという人が相談に来るので、解決する。で「ヤミ金に手を出したらどんなにひどい目に遭うかわかったでしょ」と言われて、相談に来た人は帰っていく。でもまた何カ月後かにヤミ金に手を出して来るわけです。一般の法律家の人は、「あれだけ言ったのに、なんてだめな人なんだ」ということになるわけだけど、彼は気づいたんですね。結局この問題は、もともと生活が成り立ってないという貧困の問題があるわけで、それを何とかしなければ、何度ヤミ金被害を解決したってだめ。貧困の間題に手をかけるしかないと。これを「貧困原因の多重債務」と私は呼んでいます。

 もう1つの特徴は、当事者の人たちの発言を重視しました。当事者の9人の人、マンガ喫茶で寝泊まりした経験のある人、野宿した経験がある人とか──今日来てますけど。

雨宮……後ほど登場していただきましょう。

●問題は1人の人間の上に重なって起こる

湯浅……あるいは派遣の労働をやってきた人、シングルマザーの女性、DV被害で逃げてきた外国人の女性、障害者の人、難病の人、そういう人たちに話してもらった。それはなぜかと言えば、貧困の問題というのは、労働の問題であり、福祉の問題であり、住宅の問題であり、金融の問題なんです。こう言うと、各分野に分かれた問題のように聞こえるかもしれませんが、結局1人の人の上に折り重なって起こるわけです。

仕事でどうにも生きていけない、福祉事務所に相談に行ってみたら「おまえ若いからまだ働けるだろう」と追い返された。しょうがないからサラ金に手を出した、サラ金に手を出したら恐ろしい目に遭った。当事者の人にはまとめて起こる。そのことをどうやったら伝えられるかと考えると、それを経験している当事者の人に話してもらうのが一番です。

 重筋無力症を患っている方、「体を使っているとどんどん筋肉の疲れを感じてしまう」という難病の方が最後に発言されましたけど、仕事をしていると力が出せないから「使えない」ということになる。見た目は何ともないから理解されない。で、仕事をクビになって生きていけないから福祉事務所に相談に行きました。そしたら「『あなたここに歩いて来たでしょ。歩いて来れる人は障害者ではない』と言われた」と言うんです。その人にとっては、労働と福祉の問題は一緒なんです。そういうことを当事者の人に語ってもらった。

 もう1つは、それらを通じて、「貧困の問題を社会的にどうするんだ」と投げかけたということです。それはどこか特定の団体とか、政府の特定の省庁が何かをやれば解決する問題ではない。社会全体、政治全体がこれに対して対応を追られているはず。我々はずっと、企業が成長すれば我々の生活も豊かになると言われてきた。「いったい、いつになったら豊かになるんだ」「もう我慢する必要はない」、そういうことを訴える集会でした。

 皆さんの応援があったので、会場は250人の定員だったのに、420人の人が集まりました。この集会の成功によって、次も何かやろうという気運が盛り上がってきた。今後もそういう働きかけを強めて、社会の力の問題として考えていきたい。そういうことが放置される社会は弱い社会。社会の力をどう強めていくのかを考えていこうと思っています。
(雨宮処凜の「オールニートニッポン」祥伝社新書 p69-73)

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座談会
ワーキングプアと最低賃金制

報告1
ワーキンブプアの急増をどうみるか
小越 洋之助

働く貧困層の特徴

 いまなぜワ一キングプア(働く貧困層)がクローズアップされてきたのでしょうか。ワーキングプアの特徴の一つは、賃金・収入による所得が非常に低く、その日暮らしの生活を強いられているということです。雇用労働者の収入・所得の源泉は賃金ですが、雇用形態は非正規雇用であることが圧倒的に多く、時給が低く、さっぱり上がらない層です。

時給労働者が典型ですが、最近の特徴として、賃金形態は日給という形の就労で労働時間が著しく長く、かつ過密労働で、時間当たり賃金換算では極端に低くなる層が増えています。自営業者は営業収入が所得の源泉ですが、これが異常な低収入になっています。自営業、農業従事者は、構造改革・規制緩和政策の下で価格の引き下げや過当競争などにさらされ、就業と暮らしが非常に不安定になっています。

 ワーキングプアの二つ目の特徴として、将来不安に備える条件がなく、先行き展望がまったく見えないことです。賃金や収入・所得が低いのに加えて、貯蓄や社会保障の適用がないというのは、市場原理主義の横行するこの時代ではまさしく「無防備状態」といわざるをえません。

 一般的に言ってサラリーマンでも自営業者でも年金生活者でも、何か予期せぬ問題が起きたときに貯蓄がないことは大変深刻な問題です。この層は万一に備える貯蓄がない、あってもごく僅かです。最近の調査では単身世帯では約三割以上の人で貯蓄がない。しかも「収入がない階層」で貯蓄がない人は五割以上もいるとされています(金融広報中央委員会「家計の金融資産に関する世論調査(平成一八年)」による)。

 それに加えて各種社会保険、たとえば医療保険、年金保険、雇用保険などの保険に未加入か、保険料が支払えない。そのため社会保障の枠組みから放り出されていて将来不安に脅かされています。さらに、若者などには家賃が払えずホームレスになる層も増えています。彼らは当然ながら社会関係から排除され、孤立していきます。いまヨーロッパ諸国では貧困状態から、人間関係や地域社会から疎外され、社会的孤立状態になる「社会的排除」が問題になっていますが、日本でもこの間そういう層が顕在化してきた、ということです。

 ワーキングプアの具体像

 ではワーキングプアの具体像としては、どういう人々が想定されるでしょうか。まず非正規雇用の労働者です。パート・アルバイト就労、フリーター、それから公務部門の臨時職員、民問委託の労働者、請負、派遣労働者(偽装請負を含む)です。これらの不安定な雇用形態の広がりの背後には完全失業者の存在があります。最近では、若い労働者を中心に、携帯メールで指示されて働く「日雇い派遣」(デジタル派遣)の層も増えています。彼らの場合、家賃を払えず、現代の「木賃宿」とも言うべきマンガ喫茶、インターネットカフェなどで寝泊りしています。一般的にいって若者は三〇歳を過ぎると雇用機会が急速に減り、社会的に著しい不利益を受けますが、彼らの生活はもう度を越しています。

 ワーキングプアは必ずしも若者だけではなく、働き盛りの世代にも広がっています。成人女性でも、離婚したり、夫に死なれたりした場合、男性でも育ち盛りの子どもをかかえてリストラされれば、たちまちそういう状況に陥ります。正規雇用ではない女性の単身労働者、一人親家庭の女性のパート労働者、中高年フリーター男性、父子家庭、高齢者で雇用はされているが、その収入が非常に不安定な層、そもそも雇用機会がないという失業者などです。零細企業の労働者はもともと賃金が低いのですが、いまの中小企業の不況や経営不振のもとでいっそうきびしい状態に追い込まれています。

 NHKテレビの「ワーキングプア〜働いても働いても豊かになれない」(〇六年七月二三日放映)では、秋田県の農家の姿が放映されました。米価がこの間毎年引き下げられ(五年前から二割下落)、野菜の価格の下落で生活できず農業をやめる人、集落から去る人(秋田県では〇五年で六〇〇〇戸が農業をやめたと報道された)、残る人々も世帯の多就業で辛うじて生活を維持している状況にあり、集落崩壊の不安や地域経済衰退の現状に歯止めがかかりません。

 商工業者もなかなか収入が上がらず、シャッター通りは全国各地に広がっています。東京の下町(墨田、江東、葛飾、江戸川、台東)の商工業者の実態調査では、〇四年度(平成一六年度)分の事業所得は年二〇〇万円以下が四八・二%、三〇〇万円以下では六八・二%です。また、「事業所得だけで生活できない」(六二・二%)で、生活できない場合の補いの方法(複数回答)では、年金等(四八%)、貯金の取り崩し(二八・八%)、他の家族からの収入(二五・六%)、パート・アルバイト(一六%)、借金(九・六%)、生命保険の解約(九・六%)などです。経営の将来展望は「現状維持」「廃業したい」が紙一重で「やめたくてもやめられない」が多数派です。

 それから無年金者、低年金者です。年金生活者で引退しているからワーキングプアという言葉は使えないのではないかと思われるかもしれません。もちろんそういう人もいますが年金の水準が非常に低くて、年金だけでは生活できない高齢者が就労を余儀なくされているか、就労を切に希望しています。しかし就労の機会は多くはない。そのなかで公園の清掃、駐車場の管理などわずかな収入を頼りにしています。さらに無年金者がいます。年金者組合発行の『ふつうの暮らしがしたい──無年金・低年念者の証言』(〇六年三月)には、そのきびしい状態が記されています。

 京都市の無年金者夫婦世帯の生活(NHKテレビ「ワーキングプアU〜努力すれば抜け出せますか」〇六年一二月一〇日放映)は、大変ショッキングでした。八〇歳の男性、七五歳の奥さんが空き缶拾いで生計を立てている姿です。空き缶を自転車から落ちるほどに山ほど集めて、家でそれを潰す。しかし1`グラムわずか一三〇円、一缶二円にしかならない。一ヵ月の収入はわずか五万円、これも競争で保障されなくなっている。年金受給資格にわずか五年足らずで無年金者になったそうです。また、いざというときのために貯金七〇万円を残していたという理由で生活保護すら受給できない。これは今の若者の明日の姿です。この光景ははたして「美しい国」日本の姿でしょうか。

低賃金・低所得問題はなぜ顕在化し社会問題化したか?

 ワーキングプア問題は、なぜ最近これだけ顕在化し、社会問題化してきたのでしょうか。それには、とりわけ財界の政策や日本政府の「構造改革」政策が影響しています。きっかけは一九九五年の日経連の「新時代の『日本的経営』──挑戦すべき方向とその具体策」です。この報告書は正規雇用を非正規雇用に切り替える方向を打ち出しました。

 「構造改革」政策は、小泉内閣以降あからさまに展開しました。経済財政諮間会議や規制改革・民間開放推進会議を舞台に、新自由主義政策が採られ、農業破壊、中小自営業切り捨て政策、あるいは雇用の面でのリストラ、終身雇用、年功賃金の転換がすすみ、地域の失業が増え、正社員の非正規雇用化が大胆に推し進められました。現在、非正規雇用は日本の雇用労働者の三割以上に増えています。

 間題がまだ潜在している層のケースの多くは、独立した単身者、家族のある世帯ではなく、親が子どもの生活費や住宅費を支えている、あるいは世帯全体で多就業化している結果と考えられます。大企業・多国籍企業の低賃金化政策は、皮肉なことに家族に依拠して支えられている。日本の大企業は、企業利益のために、働く本人だけでなく、その家族までも利用しているのです。しかし、当面は顕在化しなくても、親世代が亡くなったり、無年金生活者になれば、このスタイルも早晩崩壊し、矛盾はもっと深刻になるでしょう。

ワーキングプアはどのくらいいるか?

 ワーキングプアは、いったいどのくらいの数いるのでしょうか。最近政府が、「成長力底上げ戦略構想チーム」を立ち上げました。これは当初「格差社会」を検討するためにつくったものですが、実際にはそこでは「ワーキングプア」という言葉は消えています。大田経済財政担当大臣は、「定義が明確でないので政策の対象にすることは望ましくない」(「朝日新聞」〇七年二月一六日付)と発言しました。新自由主義政策の下でのワーキングプアの問題は、政策の矛盾として彼らも本来は意識せざるを得ないはずなのですが、現実的にはそれを政策の対象として正面から取り組もうとはしていません。

 ワーキングプアは、直訳しても「働く貧困層」の意味ですから、本来ならば「貧困ライン」があるべきです。アメリカやイギリスなどではそれがありますし、フランスなどでは全国一律最低賃金制が基準となっています。ところが日本では、いままで明示的な貧困ラインの線引きをしてきませんでした。二〇〇〇年段階で、中央大学の大須眞治教授が厚生労働省『国民生活基礎調査』を使ってそれを計算して、貧困ライン(年収二〇〇万円以下の低所得層)は、全世帯の一六・一%、七三三万九〇〇〇戸という数字を出しました。その中心は年金生活者、不安定就業者、零細自営業者です(大須眞治「日本の現実と貧困ライン」黒川・小越編『全国一律儀賃制を軸としたナショナル・ミニマム』〇三年、ディノプリント出版会)。

 最近では、生活保護基準を指標にして、多くの論者がワーキングプアの実数や比率を計算しています。『ワーキングプアーいくら働いても報われない時代が来る』(〇六年、宝島社)を書かれた門倉貴史氏は、日本の労働者の四人に一人はワーキングプアだと言っています。佛教大学の金澤誠一教授は、労働総研のプロジェクト報告書で、年収二〇〇万円以下の貧困者は若い単身世帯のうち半分以上いると言っています(労働総研「ナショナル・ミニマム間題の理論・政策にかかわる整理・検討のプロジェクト報告書」『労働総研クォータリー』〇六年春・夏号)。都留文科大学の後藤道夫教授は、二〇〇二年の数字ですが、貧困世帯、生活保護世帯は四世帯に一世帯、働く貧困層だけでなく失業者も含めたワーキングプア世帯は、五世帯に一世帯という数字を出しています(後藤道夫「格差社会の実態と背景」『格差社会と闘う』〇七年、青本書店)。

 以上は偶然の一致かも知れませんが、ワーキングプア層を「年収二〇〇万円以下層」と見立てています。勤労者の場合、五人に一人がワーキングプア層だということは常識ないし世論になっていると見てよいでしょう。国税庁の『民問給与の実態』によると、〇六年の一番新しい数字でも給与生活者の年収二〇〇万円以下の層は五人に一人となっています。国税庁の数字はあくまでも給与所得者ですから、これに失業者、農業従事者、自営業者を加えれば、その数はもっと大きく増えるでしょう。

 このように、指標がはっきりしないから政策的対応が取れないというのは一種の「逃げ」の議論であって、そもそも問題関心がないから、その研究成果自体をチェックしない。年収二〇〇万円以下層は、「働く貧困層」の絶対的貧困化を見る場合の大きな目安といえます。さまざまなデータをチェックすれば、貧困ラインは客観的には確定できるわけで、日本で貧困ラインの指標がはっきりしないという理屈は、国策を放棄しているに等しいと考えます。
(「座談会 ワーキングプアと最賃金制」「経済」2007年5月号 p197-201)

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◎「たくさんの貧乏人がいるというのは、経済学上特定の意味を有する貧乏人のことで、かりにこれを第三の意味の貧乏人」と。